第47話
メルティは、星銀のナイフを構え、大きく息を吸った。
水晶へ絡みつく黒い蔦は、何重にも複雑に絡み合っている。細いもの同士がさらに枝分かれし、どこから切れば水晶を傷つけずに済むのか、一目見ただけでは分からなかった。
「……落ち着いて」
メルティはすぐには刃を動かさず、じっと蔦を観察した。脈打つたび、水晶から淡い光が吸い取られていく。その流れを目で追っていくと、何本もの蔦が一か所へ集まり、ひときわ黒く太い根へ繋がっているのが分かった。
「――そこですね」
けれど、いきなり根を切れば、水晶へ食い込んだ蔦が暴れるかもしれない。まずは細いものから、水晶へ強く巻きついている蔦を一つずつ外していく。
メルティは刃先をそっと添えた。
――すっ。
「……!」
ほとんど力を入れていない。それなのに、星銀の刃は柔らかな蔦だけを滑らかに断ち、水晶の表面へは触れることすらなかった。
「いけます」
もう一本。
――すっ。
さらに一本。
水晶の丸みに沿って刃を動かし、絡みついた蔦だけを丁寧に切り離していく。
肉を切る時とは違う。けれど、ガラハドが言っていたことは同じだった。
余計な力を使わず、切りたいものだけへ刃を通す。
「……ガラハドさん、本当にすごいナイフです」
小さく呟き、さらに集中する。一本切るたびに、水晶の光が少しずつ強くなっていった。
けれど、中心の太い蔦だけは、さらに深く水晶へ食い込んでいる。
「これが最後……」
メルティは刃の角度を変えた。あと少し深く入れれば、水晶そのものを傷つける。浅すぎれば、根は切れない。
「……」
呼吸を止める。
刃先を差し込み――。
「――ここです」
一気に引いた。
――スッ。
太い蔦が、音もなく切れた。
「……!」
一瞬の静寂。
そして、水晶へ巻きついていた黒い蔦が急速に力を失っていく。黒々としていた表面が灰色に変わり、乾いた植物のようにしおれていった。水晶から次々と剥がれ落ち、床へ落ちる頃には、もう動くこともなかった。
「終わった……?」
メルティが水晶を見上げる。
その瞬間だった。
――ドクン。
巨大な水晶の奥で、青白い光が脈打った。
「――!」
もう一度。
――ドクン。
光が広がる。細かな亀裂の奥まで青い輝きが満ち、やがて広間全体を包み込むほどの強い光へ変わっていった。
直後。
ゴゴゴゴゴ――!
遺跡の奥から、低い轟音が響く。
「な、何ですか!?」
壁際を走る水路へ、勢いよく水が流れ込んできた。今まで乾ききっていた石の溝を、透明な水が一気に駆け抜けていく。それと同時に、淡い青い光が水に沿うように広がり、遺跡の奥深くへ流れていった。
「これが……魔力の流れ」
山から湖へ。湖から畑へ。
石盤に描かれていた通り、止まっていた水と魔力が、再び巡り始めている。
「やりました……!」
メルティの顔に、大きな笑みが浮かんだ。
そして手元を見る。
星銀のナイフには、傷一つついていない。
「……帰ったら、ちゃんとお手入れしないとですね」
そう言って、大切に鞘へ戻した。
*
山を下り、湖畔の街へ戻った頃には、すでに夕暮れが近づいていた。
「――!」
街へ入る前から、メルティには違いが分かった。
水路を流れる音がする。昨日まで細々としか流れていなかった水が、石造りの水路を勢いよく走っていた。
「水が戻ってるぞ!」
「畑まで来た! 水が来たぞ!」
農夫たちの声が、あちこちから上がっている。
メルティは湖へ駆け寄った。
「……わぁ」
夕陽を映す湖面が、きらきらと揺れていた。昨日までは不自然なほど静かだった水面に、小さな波紋がいくつも広がっている。
魚だ。
まだ大群というほどではない。けれど、確かに魚影が戻り始めている。
「本当に……戻ってきてる」
近くにいた漁師が、信じられないものを見るように湖を見つめていた。
「湖王鱒も、深いところに逃げ込んでただけだったのかもしれねぇ……」
漁師が振り返る。
「嬢ちゃん。あんた、何をしてきたんだ?」
「止まってた水を、流してきました」
「……それだけ?」
「あと、黒い蔦を切りました」
「黒い蔦?」
「はい」
「……よく分からねぇが」
漁師は一瞬呆けたあと、豪快に笑った。
「湖が戻りゃ、それで十分だ!」
その声につられるように、周囲から歓声が上がった。
*
翌朝。
湖畔の街は、昨日までとはまるで違う騒がしさに包まれていた。
「獲れたぞーーー!」
港から響いた声に、メルティが走っていく。
漁船の上で、漁師たちが網を引き上げていた。銀色の魚が、朝日を受けて跳ねる。
「湖王鱒だ!」
「戻ってきたぞ!」
「久しぶりだ……!」
漁師たちの目には涙まで浮かんでいる。
畑も、一晩で作物が元通りになったわけではない。けれど乾ききっていた土には水分が戻り、農夫たちは嬉しそうに畝を整え直していた。
「これなら、また育てられる」
その言葉を聞いて、メルティはほっと息を吐いた。
「よかった……」
魚も。畑も。
これなら、またこの街の食卓が戻ってくる。
そして――。
「……湖王鱒」
メルティの視線が、漁船で跳ねる立派な魚へ釘づけになる。
「ということは……!」
次の瞬間には、もう青波亭へ向かって走り出していた。
*
「店主さーーーん!」
「うおっ!?」
勢いよく扉が開き、青波亭の店主が驚いて顔を上げる。
「湖王鱒、戻ってきました!」
「ああ!」
店主の顔にも、満面の笑みが浮かんだ。
「たった今、漁師が一番いいのを届けてくれたところだ!」
「――!」
「約束だったな」
店主は腕まくりをする。
「あんたのおかげで、またこの料理が作れる」
そして、にやりと笑った。
「最高の一皿を食わせてやるよ」
「お願いします!」
*
厨房から、じゅうっ、と心地よい音が聞こえてくる。
皮目から焼かれた湖王鱒へ、熱いバターが何度も回しかけられていく。やがてバターは淡い茶色へ変わり、ナッツを思わせる香ばしい匂いが店内いっぱいに広がった。
「……いい匂い」
メルティはカウンターの向こうを覗き込みながら、そわそわと待っていた。
仕上げに、この湖畔で育つ黄金色のハーブを散らす。
「――お待たせ」
店主が皿を置いた。
「湖王鱒の焦がしバタームニエル、黄金ハーブ添えだ!」
「わぁ……!」
皮はこんがりときつね色に焼かれ、その下にはふっくらとした白い身が覗いている。表面には焦がしバターが艶やかに絡み、黄金ハーブの爽やかな香りが立ち昇っていた。
「いただきます!」
フォークを入れる。
皮が、ぱりっと割れた。
「……!」
一口分を取り、口へ運ぶ。
「――んんんんっ!!」
香ばしい皮の後から、柔らかな身がほろりとほどける。湖王鱒そのものの上品な脂と甘みを焦がしバターの深いコクが包み、最後にハーブの爽やかな香りが鼻へ抜けていった。
「美味しい……!」
メルティの顔が一気に緩む。
「これです……! これが食べたかったんです!」
「初めて食うんだろ?」
「想像してた味です!」
「それはどういう意味だ?」
店主が思わず笑った。
メルティは気にせず、もう一口。そして今度は、この地方で造られた冷たい地酒を少し飲む。
「んくっ……」
淡麗で軽い飲み口が、バターのコクをすっと流していく。
「……合います!」
「だろう? 湖王鱒には昔からこれだ」
「もう一杯ください!」
「早いな!」
久しぶりに開いた青波亭には、少しずつ人が集まり始めていた。
「店、開いたのか!」
「湖王鱒が戻ったって本当か?」
「俺にもムニエルをくれ!」
店主の顔が、みるみる忙しい料理人の表情へ戻っていく。
「ったく、一人ずつ注文しろ! 今日からまた忙しくなるぞ!」
その声は、大変そうなのにどこか嬉しそうだった。
メルティは酒を片手に、その様子を眺める。
昨日まで閉ざされていた店。空っぽだった市場。静まり返っていた湖。
そこへ、少しずつ笑い声が戻ってきている。
「……よかった」
ぽつりと呟いた。
目の前には、ずっと食べたかったムニエル。そして周囲には、美味しいものを囲んで笑う人たち。
「守れて、よかったです」
メルティはそう言って、また一口、湖王鱒を頬張った。
「――んんっ! やっぱり美味しい!」
やがて青波亭の中には、料理を注文する声と食器の音、そして久しぶりの笑い声が賑やかに響き始めた。
湖の水は再び巡り始めた。この街の食卓も、またここから少しずつ戻っていく。
メルティは冷えた地酒をもう一口楽しみながら、次はどんな美味しいものに出会えるだろうと、早くも少しだけ次の旅へ思いを馳せるのだった。




