第44話
街道を急ぎ足で進んだ先、木々の切れ間から、きらきらと陽光を反射する広大な湖が姿を現した。
「――わぁ……!」
湖のほとりに広がる街には、白い壁と赤い屋根の家々が立ち並んでいる。石畳の坂道を下れば、湖面を渡ってきた涼やかな風が頬を撫で、水鳥が水面すれすれを飛んでいった。
「綺麗なところですね……」
思わず足を止めたくなるような、穏やかな湖畔の街。
けれど、街へ入ってすぐに、メルティは小さな違和感を覚えた。
「……?」
湖沿いに広がる魚市場が、あまりにも静かだった。
本来なら朝から威勢のいい掛け声が飛び交っているはずの通りには、人影もまばらだ。店先に並ぶ木箱の多くは空のままで、申し訳程度に並べられた小魚にも、普段なら考えられないほど高い値札がついている。
「今日も駄目だったか……」
「ああ。沖まで出たが、ほとんど何もかからねぇ」
漁師らしき男たちの会話が耳に入る。
別の店では、主人が空の木箱を前に腕を組み、ぼんやりと湖を眺めていた。
「……本当に、魚が獲れてないんですね」
峠の茶屋で聞いた話は、どうやら大袈裟ではなかったらしい。
メルティは湖を見つめた。
陽光を反射する水面は、何事もないように美しい。
それなのに、この街からはどこか元気が消えている。
「……まずは、お店に行ってみましょう」
目的地を思い出した途端、メルティの足取りが速くなった。
*
湖沿いの通りを進んだ先に、一軒の古びた店が見えてきた。
『湖畔の老舗・青波亭』
年季の入った木の看板には、湖面から跳ね上がる大きな鱒が彫り込まれている。旅人から聞いた話では、この店こそが湖畔の街を代表する名店だった。
「ここですね……!」
看板料理は、『湖王鱒の焦がしバタームニエル、黄金ハーブ添え』。
脂の乗った湖王鱒の皮を香ばしく焼き上げ、焦がしたバターと、この地方で育つ香草をたっぷり合わせる。大陸中の美食家が、その一皿のためだけに足を運ぶこともあるらしい。
「焦がしバター……」
メルティの頭の中に、まだ見ぬ料理が浮かんでくる。
「皮はパリッとしてて、中はふわふわで……」
思わず頬が緩んだ。
「絶対、美味しいです……!」
だが。
店先へ辿り着いた瞬間、その表情が固まった。
「――」
扉は閉ざされている。
そして、その中央には一枚の板が掛けられていた。
『食材不足のため、臨時休業』
「……」
メルティは二度、三度と文字を読み直した。
「――そんな……!」
その場に、がくりと膝をつく。
「私の……ムニエルが……!」
まだ一度も食べたことはない。
それでも、すでに心の中ではかなり楽しみにしていた。
「焦がしバター……湖王鱒……黄金ハーブ……」
一つずつ口にするほど、悲しみが増していく。
「全部ない……」
「いや、そこまで落ち込まなくても……」
通りがかった住人が思わず声をかけた、その時だった。
――ギィ。
青波亭の扉が、内側からゆっくりと開いた。
「……すまないね、お客さん。今日は店を開けられないんだ」
出てきたのは、白いコック帽を被った中年の男だった。
目の下には濃い隈ができ、肩もどこか落ちている。長く料理人をしてきたであろう大きな手にも、今は力が入っていなかった。
メルティは勢いよく立ち上がった。
「あの! どうしてお休みなんですか!?」
「どうしてって……」
男は少し驚いたあと、湖の方へ目を向けた。
「ここ一ヶ月ほど、湖の魚が急に獲れなくなっちまったんだ」
「魚が……」
「ああ。最初はたまたまだと思ってた。だが日に日に獲れる量が減って、今じゃ湖王鱒どころか、普通の魚までほとんど網にかからねぇ」
男――青波亭の店主は、深く息を吐いた。
「うちは湖王鱒がなけりゃ、看板料理を出せん。それでも別の魚で店を開けようとはしたんだが……今じゃそれすら手に入らなくなっちまった」
「……」
「おかしいのは魚だけじゃない」
店主はさらに続ける。
「湖の水を引いてる畑でも、作物がまともに育たなくなってる。水路の流れが急に弱くなった場所もあるらしいし、漁師連中も『湖の様子が前とは違う』って騒いでるよ」
メルティは、もう一度湖へ視線を向けた。
見た目は、あんなにも穏やかで美しいのに。
魚が消えた。
作物も育たない。
水の流れまで変わっている。
「原因は、分かってないんですか?」
「それがさっぱりだ。漁師も役人も調べてるが、今のところ何もな」
店主は寂しそうに、閉ざされた店内を振り返った。
「この店だけじゃねぇ。魚屋も、料理屋も、漁師も……みんな湖で食ってきたんだ。このまま続けば、この街そのものがどうなるか」
「……」
メルティは黙って市場の方を見た。
空っぽの木箱。
湖を眺めていた漁師。
そして、料理を出したくても出せない目の前の店主。
昨日まで鉄樽都市では、美味しいものを囲んで、みんなで笑っていた。
ここにもきっと、そういう時間があったはずだ。
「……なくなっちゃうのは、嫌ですね」
「え?」
メルティが呟く。
「湖のお魚も。このお店のお料理も。みんなが美味しいものを食べる時間も」
そして少し間を置き――。
「私、ムニエルも絶対食べたいですし」
「……そっちも大事なのかい」
「すごく大事です!」
即答だった。
店主が、思わず小さく笑う。
メルティはその両手を、がしっと握った。
「もし原因を見つけて、湖を元に戻せたら――」
真剣な目で問いかける。
「あのムニエル、作ってくれますか!?」
「――え?」
「湖王鱒の焦がしバタームニエル、黄金ハーブ添えです!」
「いや、名前までしっかり覚えてるな……」
「楽しみにしてきたので!」
店主はしばらく呆気に取られていたが、やがて困ったように笑った。
「そりゃ、湖王鱒が戻ってくるなら何皿でも作ってやりたいが……」
改めてメルティを見る。
「あんた一人で調べるつもりなのか?」
「はい!」
「危ないかもしれないぞ?」
「大丈夫です。こう見えて、結構こういうのには慣れてるので」
「……とてもそうは見えんがなぁ」
店主は半信半疑のまま頭を掻いた。
けれど、ほんの少しだけ、その表情に明るさが戻っていた。
「分かった。もし本当に原因を見つけてくれるってんなら……俺たちもできることは手伝うよ」
「ありがとうございます!」
メルティは力強く頷いた。
*
青波亭を離れたメルティは、湖のほとりまで歩いていった。
夕暮れの光を受け、広大な水面が黄金色に染まっている。
一見すれば、何の異常もない。
「魚がいなくなって……畑も駄目になって……水の流れもおかしい」
メルティはしゃがみ込み、湖の水へ指先を触れた。
「どこかで、何か起きてるんですね」
腰には、ガラハドが打ってくれた星銀のナイフ。
背後には、料理を作れずに困っている人たち。
そしてまだ食べられていない、湖王鱒のムニエル。
「……よし」
メルティは立ち上がった。
「まずは、湖のことを調べましょう!」
美味しい料理を取り戻すため。
その料理を作る人たちと、楽しみにしている人たちの食卓を取り戻すため。
そしてもちろん――自分も最高のムニエルを食べるために。
メルティは黄金色の湖面を見据え、新たな異変の原因を探り始めるのだった。




