第35話
王宮の厨房へと運び込まれたのは、迷宮から持ち帰った二つの王家秘蔵の食材――艶やかな神聖黒トリュフと、古代の保存魔法によって長い年月をかけて熟成されてきた『至高の熟成魔獣肉』だった。
二つの食材を前に、フィンはしばらく無言で見つめていた。やがて深呼吸をひとつすると、静かに袖をまくり上げる。
「――やります」
その瞳には、料理人としての静かな闘志が宿っていた。
*
神聖黒トリュフに専用のスライサーが入れられた、その瞬間だった。
薄く削り出された黒い欠片から、濃密で複雑な香りが一気に立ち昇る。森の土を思わせる深い香りに、わずかな甘さが重なり、厨房いっぱいに広がっていった。その芳香は扉の隙間から廊下へと漏れ出し、通りがかった侍女が思わず足を止めるほどだった。
「……なんという香り……」
一方、至高の熟成魔獣肉も、切り分けられた断面から深い赤色を覗かせていた。長い熟成を経ているにもかかわらず、古代魔法によって保たれた肉は瑞々しさを失っていない。
「これなら……」
フィンは二つの食材を見比べ、小さく頷いた。
「最高の状態で、お出しできます」
*
やがて、豪奢な晩餐室に案内されたメルティ、アルベルト、ヴァルターの前へ、フィンが一皿目を運んできた。
「まずは、『熟成魔獣肉の炙り薄切り、神聖黒トリュフ添え』です」
白い皿の上には、表面だけを香ばしく炙った赤身肉が薄く並べられていた。その上に、削りたての黒トリュフが惜しげもなく散らされている。
「わぁ……」
メルティは香りを吸い込むだけで、すでに頬を緩ませていた。
「――いただきます!」
肉とトリュフを一緒にフォークへ乗せ、ひとくち。
「――んんんんっ!!!」
表面の香ばしさの奥から、しっとりとした熟成肉の旨味が広がる。噛むほどに深い肉の味が増していき、そこへ黒トリュフの複雑な香りが重なった。
「お肉の味が……すごく濃いです! そこにトリュフの香りが……んんっ、すごいです……!」
メルティは夢中でもう一切れ口へ運ぶ。
アルベルトが、満足げに目を細めた。
「気に入ったようだな」
「はい! これ、ずっと食べていられます!」
「まだ一皿目だぞ」
「……!」
その言葉に、メルティの瞳がさらに輝いた。
続いて運ばれてきたのは、温かな一皿だった。
「『熟成魔獣肉の濃厚スープ、神聖黒トリュフ仕立て』でございます」
琥珀色の澄んだスープから、肉の豊かな香りが立ち昇っている。その中央には柔らかく煮込まれた熟成肉が添えられ、仕上げに削られた黒トリュフが浮かんでいた。
「――んっ……!」
メルティがスプーンを口へ運ぶ。
じっくりと引き出された肉の旨味が、温かなスープとともに舌の上へ広がった。そこへトリュフの香りがふわりと抜けていく。
「さっきと同じお肉なのに、全然違います……!」
「熟成肉は焼くだけでなく、出汁を取っても素晴らしい味が出るんです」
フィンの説明に、メルティは感心したように何度も頷いた。
「フィンさん、本当にすごいです……!」
「ありがとうございます」
フィンは照れくさそうに笑った。
そして、いよいよメインディッシュが運ばれてくる。
「お待たせいたしました。『至高の熟成魔獣肉の厚切りステーキ、削りたて神聖黒トリュフ添え』でございます」
「――!!」
メルティの瞳が、これ以上ないほど輝いた。
皿の中央には、表面を香ばしく焼き上げた分厚いステーキ。その上には、削りたての神聖黒トリュフが贅沢に重ねられている。
ナイフを入れると、しっとりとした赤身の断面が姿を現した。メルティはトリュフをたっぷりと乗せ、大きくひとくち頬張る。
「――んんんんんんんっっ!!!」
思わず、これまでで一番大きな声が漏れた。
噛んだ瞬間に広がる熟成肉の濃厚な旨味。脂に頼らない深い味わいの後から、神聖黒トリュフの香りが一気に鼻へ抜けていく。
「美味しい……! 美味しすぎます……!」
メルティは目を輝かせながら、夢中でフォークとナイフを動かし続けた。
その姿を、アルベルトはしばらく何も言わずに見つめていた。
(――ああ)
(この笑顔が、見たかったのだ)
美味しいものを口にした瞬間、何の裏もなく幸せそうに笑うその顔。
アルベルトの表情から、いつもの芝居がかった笑みがほんの一瞬だけ消えた。
けれど、メルティが次のひとくちを頬張る頃には、もういつもの顔に戻っている。
「ふふん。どうだメルティ。王家秘蔵の食材も、なかなかのものであろう?」
「はい! 王家すごいです!」
「そこは私を褒めてもよいのだぞ!?」
「殿下は食材じゃないですよ?」
「そういう意味ではない!」
そんな二人のやり取りを横目に、ヴァルターも恐る恐るステーキへナイフを入れた。
「――」
ひとくち食べた瞬間、その瞳がわずかに見開かれる。
迷宮であれほど必死に守った黒トリュフ。そして、その奥から見つかった熟成魔獣肉。二つが合わさった味を確かめるように、ヴァルターはもう一口、ゆっくりと噛み締めた。
「……なるほど」
「美味しいですよね!?」
すかさずメルティが身を乗り出す。
「ああ」
ヴァルターは小さく笑った。
「そなたが、あそこまで必死になった理由が……少しだけ分かった気がする」
「ですよね!」
「いや、命を張るほどかどうかは、まだ分からんが」
「えぇ……」
心底残念そうな顔をするメルティに、フィンが思わず吹き出した。
それをきっかけに、アルベルトまで笑い出す。
賑やかな晩餐室には、美味しい料理を囲む笑い声と、食器の触れ合う軽やかな音が、いつまでも響いていた。
*
王宮での大満足の宴を終え、すっかりお腹も心も満たされたメルティは、用意された客室のふかふかの寝台で、大きく伸びをした。
「――ふぅ、満足しました」
窓の外には、穏やかな夜空が広がっている。
王家の地下迷宮。神聖黒トリュフ。何百年もの時を経た熟成魔獣肉。そして、それを最高の料理へ変えてくれたフィン。
今回も、知らなかった味に出会うことができた。
「んー……次は、どこへ行きましょうか」
まだ見ぬ土地には、まだ飲んだことのない酒も、食べたことのない料理も、きっと待っている。
そう考えるだけで、自然と口元が緩んだ。
「……楽しみです」
メルティは満ち足りた笑みを浮かべながら、柔らかな枕へ顔を埋める。
明日になれば、また次の美味しいものを探しに行けばいい。
そんなことを考えながら、メルティは静かに眠りについた。




