第33話
地上の王宮では、アルベルトが落ち着きなく廊下を行ったり来たりしていた。
「……フィンの奴、手際が良いからな」
誰にともなく、ぶつぶつと呟き続ける。
「あいつの料理は、確かに絶品だ。もし迷宮の中で、メルティがフィンにあの至福の笑顔を向けでもしたら……!」
「殿下」
傍に控えていた側近が、呆れたような視線を向けた。
「先ほどから何を、そのように取り乱していらっしゃるのですか」
「取り乱してなどおらん!」
アルベルトは勢いよく振り向いたが、その顔は明らかに焦りに満ちていた。
「た、ただ……フィンの料理を食べたメルティが、あの美味しそうな笑顔を、フィンにばかり向けるのではないかと……!」
「……それは、単なる焼き餅ではございませんか」
「や、焼き餅ではない! これは、そう……国家の重要な人材配置を憂慮しているだけだ!」
側近は深いため息をつくと、それ以上何も言わず、そっと視線を逸らした。
*
その頃、地下深くの試練迷宮では、松明の灯りだけを頼りに、メルティたち一行が慎重に足を進めていた。
ひやりとした空気の中、時折、どこからともなく低い唸り声が響く。ヴァルターは剣の柄に手をかけたまま、油断なく周囲を警戒していた。
(――しかし)
ヴァルターは、先を歩く小柄な少女の背中を見つめながら、内心で考えを巡らせる。
(殿下は、なぜあの娘に、あれほどまで目をかけるのだ)
王家が代々秘してきた迷宮。その奥に眠る、王家秘蔵の食材。それほど重要な場所へ、一人の冒険者を招き入れ、さらに自分と宮廷料理人まで同行させる。
(邪神を討ち倒したという話が事実なら、実力は疑うべくもないのだろうが……それだけではなさそうだ)
その疑問の答えを、ヴァルターはまだ知らなかった。
――と、その思考を破るように、通路の奥から地響きのような足音が近づいてきた。
「――!」
闇の中から姿を現したのは、鋭い牙を持つ巨大な猪型の魔獣だった。全身を覆う銀色の体毛は艶やかに光り、ただの魔物とは明らかに異なる気配を纏っている。
「魔獣だ! 二人とも下がって――」
ヴァルターが咄嗟に剣を構えるが、その言葉を遮るように、メルティがひょいと前へ出た。
「わぁ……」
その瞳は、恐れではなく純粋な感嘆に輝いていた。
「このお肉、筋が少なくて柔らかそう……!」
「――は?」
ヴァルターが困惑する間もなく、巨大な魔獣が凄まじい勢いで突進してくる。
メルティの姿が、ふっと消えた。
次の瞬間。
――ドサッ。
突進していたはずの魔獣が、その場へ静かに崩れ落ちた。
「……」
外から見える傷は、ほとんどない。
ヴァルターはしばし言葉を失った。この巨体と速度なら、自分でも仕留めるまでに相応の手間がかかる。それを目の前の少女は、肉を傷めないよう加減したうえで、一瞬で倒してみせたのだ。
「フィンさん、これ、美味しくできますか?」
当の本人は、ヴァルターの驚きなど気づきもしないまま、倒れた魔獣の前で期待に満ちた顔をしている。
フィンが目を輝かせながら駆け寄ってきた。
「もちろんです! これは『銀毛猪』ですね。脂の質が素晴らしいことで知られている魔獣です!」
「やっぱり……!」
メルティの顔が、さらに輝いた。
*
少し進んだ先で安全な空間を見つけると、フィンはさっそく調理を始めた。手際よく肉を切り分け、携帯用の小型鉄板へ乗せていく。
じゅうっ、という香ばしい音とともに脂が弾け、瞬く間に食欲をそそる匂いが漂い始めた。
「お待たせしました!」
差し出されたのは、こんがりと焼き上げられた銀毛猪の肉に、迷宮内で採取した香草を使ったソースを添えた一皿だった。
「――いただきます!」
メルティはさっそくひとくち。
「――んんんんっ!!」
柔らかな肉を噛んだ瞬間、上質な脂の甘みが口いっぱいに広がる。そこへ香草の爽やかな香りが加わり、濃い肉の旨味を軽やかに引き立てていた。
「美味しい〜! フィンさん、すごいです! 天才です!」
満面の笑みで肉を頬張るメルティに、フィンは照れくさそうに頬を緩めた。
「そ、そんな、大袈裟ですよ」
「本当にすごいです! 迷宮の中なのに、こんなに美味しいものが食べられるなんて……!」
目をきらきらと輝かせながら、次々と肉を頬張っていくメルティ。その和気あいあいとした様子を少し離れた場所から眺めていたヴァルターは、ふと地上に残してきた人物を思い出した。
「……これを殿下が見たら、卒倒するかもしれんな」
「え?」
「いや、なんでもない」
ヴァルターの口元に、珍しく小さな笑みが浮かぶ。
もっとも、そんなアルベルトの心配など知る由もなく、メルティの関心は今のところ、目の前の絶品料理と、それを作り上げたフィンの腕前にすっかり向けられていた。
*
すっかり満腹になったメルティは、満足げに手を合わせると、勢いよく立ち上がった。
「ごちそうさまでした! よし、次に行きましょう!」
その視線の先――迷宮のさらに奥深くには、目指す『神聖黒トリュフ』が眠っている。
「まだ先は長いですが……頑張りましょう!」
フィンの言葉に、メルティは元気よく頷いた。
「はい! 騎士団長さんも、お腹が空いたらいつでも言ってくださいね!」
「……ああ。その時は、ありがたくいただくとしよう」
ヴァルター自身、その返事をした後でわずかに目を瞬かせた。
つい先ほどまで、自分はこの少女を護衛するつもりでいたはずだった。それが今では、その圧倒的な実力を目の当たりにし、認識を改めざるを得なくなっている。
ただ強いだけではない。目の前の食材を傷つけないために、あれほどの力を自在に制御してみせた。
(……なるほど。殿下が信頼するだけのことはある、か)
ヴァルターは、小さく息を吐いた。
三人は再び松明を手に、まだ見ぬ迷宮の深部へと歩を進めていった。




