第30話
邪神討伐から、数日が経った、とある朝。
北の街の片隅、素朴な居酒屋のカウンターで、メルティは焼きたての干物を頬張りながら、朝から冷やし酒をちびちびと味わっていた。
「んー、この炙り加減、最高……」
こんがりと焼かれた干物の皮を箸で剥がし、香ばしい身をひとくち。塩気の効いた旨味が口いっぱいに広がり、キリッと冷えた酒がその余韻をさらりと流していく。何気ない朝の一杯だったが、メルティにとっては、これ以上ない幸せな時間だった。
「んふふ……」
うっとりと目を細めていた、その時。店の外から、地響きのような馬蹄の音と、慌ただしい号令が聞こえてきた。
「――メルティ様の目撃情報、確認いたしました! こちらです!」
「よし! 急げ!」
からんっ、と勢いよく扉が開き、豪奢なマントを翻しながら飛び込んできたのは、金髪をなびかせたアルベルト王子だった。背後には、整然と並んだ近衛騎士団の姿もある。突然の来訪に、店内の客たちがぎょっと目を丸くした。
「――メルティ!!」
王子は息を切らせながら、まっすぐカウンターへと駆け寄ってくる。
「無事だったか!? 怪我は――」
「もう大丈夫です」
「……そうか」
その返事を聞いた瞬間、アルベルトの肩からわずかに力が抜けた。だが、すぐに何かを思い出したように目を見開く。
「それより、北の古代遺跡で……邪神を完全に浄化したというのは、本当かッ!?」
興奮気味に詰め寄る王子に、メルティは箸を止め、こてんと首を傾げた。
「はい、本当ですけど」
「――ッ!!」
王子は目を見開き、両拳をぐっと握りしめた。
「や、やはり……! 報告を聞いた時から、まさかとは思っていたが……! さすがはメルティだ!」
店内は、すでに騒然となっていた。街の小さな居酒屋に突然現れた王族と近衛騎士団、そして「邪神を浄化した」という物騒な単語に、常連客たちはひそひそと囁き合っている。
王子は咳払いを一つすると、居住まいを正して、改まった様子で切り出した。
「メルティ。父上もその報告を受けて、大変な驚きようでな。この偉業を国の名の下に称え、勲章の授与式を執り行いたいとの仰せだ」
「……」
「加えて、王宮にて盛大な祝勝会も催す予定だ。国中の貴族を招いた、まさに歴史に残る宴となるだろう」
王子は、これでもかと誇らしげに胸を張った。しかし、メルティの反応は、期待していたものとはまるで違った。
「うーん」
メルティは箸を持ったまま、あからさまに面倒くさそうな顔をした。
「堅苦しい式典って、肩が凝りますし……」
「な、なにッ!?」
「それに私、今この街の居酒屋巡り、まだ半分も終わってなくて。結構、忙しいので……遠慮しておきます」
あっさりと告げられた辞退の言葉に、王子は愕然と固まった。
「そ、そんな……! 国王陛下直々の招待だぞ!? 断るなど……!」
メルティは干物の最後のひとかけらを口に運びながら、まったく動じる様子もない。
その様子に、王子はしばし呆然としていたが――やがて、その口元に静かに笑みを浮かべた。
「……ふむ。ならば、仕方あるまい」
「?」
「実はな」
王子は芝居がかった仕草で、髪をかき上げる。
「王室の地下深くに、厳重に封じられた特別な酒蔵があるのだが……そこには、三百年もの歳月をかけて熟成された『神聖ヴィンテージ酒』が眠っていてな」
「――!!」
メルティの箸を持つ手が、ぴたりと止まった。
「さらに祝勝会の日には、宮廷最高峰の料理人たちが腕によりをかけた、特別なフルコースを振る舞う予定だったのだが……そなたが来ぬというなら、仕方あるまいな」
王子は、これ見よがしにため息をついてみせる。
「せっかくの三百年ものの逸品、他の誰かに味わってもらうしかあるまい……惜しいものだ……」
「――!!!!!」
メルティの瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「三百年……!」
その響きに、体の奥から抗いようのない衝動が湧き上がってくる。
「フルコース……!」
空になった皿とグラスを勢いよくカウンターに置くと、メルティはがたりと椅子から立ち上がった。
「――殿下」
その声には、先ほどまでの気だるさなど微塵も残っていなかった。
「国王陛下をお待たせするのは、不敬というものです。今すぐ、王都へ参りましょう!」
「――!!」
あまりにも見事な手のひら返しに、王子は一瞬呆気にとられたものの、すぐに満足げに笑った。
「ふ、ふはは! 話が早くて助かるぞ、メルティ!」
周囲の常連客たちは、目の前で繰り広げられたあまりにも鮮やかな心変わりに、思わず苦笑を漏らしていた。
「……あの子、さっきまで居酒屋巡りが大事だとか言ってなかったか?」
「勲章より酒の方が強いとは、恐ろしい嬢ちゃんだ……」
そんな囁きをよそに、メルティはすでに意気揚々と店を出る準備を始めていた。
*
豪華な馬車に揺られながら、メルティは窓の外を眺め、うきうきとした様子で呟いた。
「三百年物のヴィンテージ酒……宮廷料理人のフルコース……」
その表情は、まだ見ぬ極上の美食への期待でいっぱいに輝いていた。
向かいの座席に腰かけた王子は、そんなメルティの様子を眺めながら、満足げに腕を組む。
「ふ……分かってはいたが、そなたを動かすには、これが一番手っ取り早いようだな」
「はい! すごく分かりやすいです!」
「そこは少しくらい否定してくれてもよいのだぞ……」
思わず苦笑するアルベルトを前に、メルティはまったく気にすることなく、これから待っている酒と料理に思いを馳せていた。
賑やかな会話を乗せて、馬車は王都への道を軽やかに走っていく。
邪神との戦いも、過去の記憶も、消えてなくなったわけではない。
それでも今のメルティには、その先に楽しみにできるものがある。
「三百年……どんな味なんでしょう……」
窓の外を眺めながら、メルティは幸せそうに頬を緩めた。




