第29話
メルティは、静かに邪神を見据えていた。
傷ついた体も、荒い呼吸も、何ひとつ変わっていない。それでも、先ほどまでとは違っていた。頭の中を乱していた記憶はもうない。自分が何のためにここに立っているのかも、はっきりと分かっていた。
「ゴアアアアアアアアッ!!!」
邪神が、これまで以上の激しさで巨大な闇の渦を放つ。先ほどは切り裂いてもたちまち元の形へと戻った、あの禍々しい力。
だが今度は、メルティは正面から迎え撃とうとはしなかった。
迫りくる闇を半歩の動きで躱し、そのまま滑り込むように邪神の懐へ入る。視線の先にあるのは、その巨大な肉体ではない。
「……そこ」
記憶の中に蘇った、数年前の戦い。
何度壊しても再生した瘴気の肉体。その奥で、最後まで形を失わなかったもの。
――邪神の力を繋ぎ止めている、核。
今目の前にいる邪神は、不完全な幻影にすぎない。それでも、あの時と同じ場所に、わずかに濃い瘴気が脈打っているのが見えた。
「ゴォオオオッ!!」
邪神が巨腕を振り下ろす。メルティはその一撃を紙一重で潜り抜けると、さらに一歩踏み込んだ。
「私の穏やかな晩酌と」
右手を握る。
「この街の美味しいご飯を邪魔するなら――」
脳裏に浮かんだのは、老婆の笑顔だった。砂漠で囲んだ食卓。リセルと交わした杯。そして、自分が好きになった、賑やかで温かな時間。
「――容赦しません」
メルティの拳が、邪神の胸の奥――瘴気の核へと突き刺さった。
――パアアアアアアアアアアアアアンッッッッ!!!
眩い光が、封印の間を一気に満たす。
「ゴ、アアアアアアアア――ッ!!」
邪神の咆哮が響き渡った。
胸の奥から亀裂が広がり、それまで何度壊しても再生していた瘴気の肉体が、今度は元へ戻らない。黒い影が端から崩れ、光の粒となって次々と霧散していく。
やがて最後の一片まで消え去ると、封印の間を覆っていた重苦しい瘴気も、嘘のように薄れていった。
「……終わりました」
メルティはしばらくその場に立っていたが、やがて小さく息を吐いた。
もう、邪神の気配はどこにもなかった。
*
遺跡を出る頃には、上空を覆っていた黒い雲も少しずつ途切れ始めていた。
メルティが街へ戻ると、思いがけない光景が待っていた。
「あ、あんた……!」
人混みの中から真っ先に飛び出してきたのは、あの露店の老婆だった。
「無事だったのかい……!」
老婆は駆け寄るなり、しわだらけの両手でメルティの手をぎゅっと握りしめた。
「よかった……! 本当に、よかった……!」
「……」
メルティは、一瞬だけ目を見開いた。
その後ろから、遺跡で助けた冒険者たちや、街の人々も次々と集まってくる。
「メルティ嬢! 邪神を倒したって、本当なのか!?」
「街を救ってくれてありがとう!」
「それより、その傷……大丈夫なのか?」
「……え」
その言葉に、メルティの動きが止まった。
――大丈夫なのか。
数年前の戦場では、誰も自分にかけてくれなかった言葉。
目の前の人々は、邪神を倒したことだけではなく、自分が無事に帰ってきたことを喜んでいる。
老婆はまだ、メルティの手を離そうとしない。
「あんたまで帰ってこなかったら、どうしようかと思ったよ……」
その顔を見つめながら、メルティはゆっくりと目を細めた。
「……大丈夫です」
そして、小さく笑う。
「ちゃんと、帰ってきました」
*
その夜、老婆の食堂では、ささやかな祝勝会が開かれていた。
「さあ、今日はうちのとっておきを、思う存分食べとくれ!」
老婆の声とともに、揚げたての黄金豚カツが次々と運ばれてくる。傍らにはもちろん、よく冷えた特製のりんご発泡酒。
「――いただきます!」
メルティは早速、豚カツをひとくち頬張った。
「――んんんんっ!!」
サクッとした衣の奥から、甘い脂と熱い肉汁が広がる。続けて、冷えたりんご発泡酒をぐっと飲む。
「――んくっ、んくっ……プハァーッ!」
爽やかな酸味と弾ける泡が、豚カツの脂をすっと流していく。
「んふぅ~……! やっぱり、戦いの後のご飯とお酒は最高です……!」
満足そうに頬を緩めるメルティの周りでは、老婆や冒険者たち、街の人々が賑やかに笑っていた。
「メルティちゃん、まだあるからね!」
「いやぁ、本当に無事でよかったよ」
「細かい話は明日にしよう! 今夜は乾杯だ!」
誰かがグラスを掲げると、あちこちから笑い声とともに杯が上がる。
「乾杯!」
グラスが触れ合う澄んだ音が、店いっぱいに響いた。
メルティはその光景を、しばらく黙って眺めていた。
数年前。
邪神を封印したあの日も、人々は同じように勝利を喜び、抱き合い、笑っていた。
けれど、あの時の自分は、その輪の外にいた。
今は違う。
自分の前にも料理があり、手には酒があり、隣には笑っている人たちがいる。
そして誰かが、自分が帰ってきたことを喜んでくれている。
「……ふふ」
メルティは小さく笑うと、もう一度グラスを掲げた。
(――守れて、よかった)
美味しいご飯も。
美味しいお酒も。
ここで笑っている人たちも。
全部、自分が守りたかったものだった。
メルティはりんご発泡酒を一口飲み、幸せそうに目を細める。
窓の外には、いつの間にか雲の晴れた夜空が広がっていた。
まだ見たことのない街がある。
まだ飲んだことのない酒がある。
まだ食べたことのない料理も、きっとたくさんある。
「次は、何を食べましょうか」
誰に言うでもなく呟いて、メルティはもう一切れ、豚カツへ手を伸ばした。
彼女の酒場巡りの旅は、まだまだ続く。




