↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ダンジョン攻略に飽きたので、酒場巡り始めました。〜元SSSランク冒険者(24歳・童顔)、美味しいお酒とご飯を求めて無双中〜  作者: カタギリ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/65

第28話

 軋む木の扉を、震える手で押し開ける。

 ――途端に、暖かな空気が全身を包み込んだ。

 薪ストーブの爆ぜる音。じんわりと部屋に満ちる木の香り。そして鼻の奥をくすぐる、温かなスープと、じっくり煮込まれた肉の匂い。冷たい雨に打たれ続けていた体にとって、それはあまりにも唐突な、別世界の温もりだった。

「――おや」

 カウンターの奥から、白髪交じりの初老の店主が、ひょいと顔を覗かせる。びしょ濡れで、血と泥にまみれたメルティの姿を見て、驚いたように目を見開いた。

「お嬢ちゃん、そりゃあずいぶんと、冷え込んで重いものを背負ってきたみたいだね」

 その声には、恐れも、過剰な敬いもなかった。ただ、雨に凍えた一人の少女を気遣う、それだけのごく自然な温かさがあった。

「まずは、温まりな」

 その一言に、メルティはなぜか逆らうことができなかった。ふらふらと引き寄せられるように、カウンター席へ腰を下ろした。

                              *

 ほどなくして、湯気の立つ深皿がことりと置かれた。大きく切られた野菜と、じっくり煮込まれた牛肉が、濃い茶色のスープの中に沈んでいる。そして傍らには、スパイスとハーブの香りが漂う、温かなワインのグラスも置かれた。

「うちの特製シチューと、体が温まるホット・ハーブワインだ。遠慮なく食いな」

 メルティは、震える手でスプーンを取った。誰かが自分のために温かな食事を出してくれたのが、いつ以来なのか思い出せなかった。

 ひとくち、口に運ぶ。

「――っ」

 声にならなかった。柔らかく煮込まれた肉が、舌の上でほろりとほどける。肉の旨味と野菜の甘みが溶け込んだ熱いスープが、乾ききった喉を通り、冷えた体の奥へゆっくりと落ちていった。

 これまで口にしてきた携行食とは、まるで違う。ただ腹を満たして、生き延びるためだけのものではない。

 ぽろり、と。メルティの瞳から、大粒の涙がひとつこぼれ落ちた。

「……美味しい……」

 もう一口食べる。すると、また涙が落ちた。止めようとしても、止まらなかった。しゃくり上げながら、それでもスプーンを持つ手だけは止まらない。夢中でシチューを口へ運び、温かなワインを少しだけ飲む。

「んっ……」

 ハーブとスパイスの香りがふわりと鼻へ抜け、喉から胸へ、じんわりとした熱が広がっていく。

「美味しい……温かい……」

 涙をぼろぼろとこぼしながら、メルティは何度も同じ言葉を口にした。店主は何も聞かなかった。ただ時折、薪を足しながら、彼女が食べ終えるまで静かにそこにいた。

 やがて皿が空になり、涙も少しずつ落ち着いてきた頃。メルティは空になった皿を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「……私、なんのために生きてるのか……分からなくなって」

「そうかい」

 店主は、それだけ答えた。何があったのかを聞こうとはしなかった。

「……あの、あなたは、なんのために生きているんですか」

 メルティが少し迷ってからそう尋ねると、店主は一瞬だけ目を丸くし、顎をさすった。けれど、すぐにあっけらかんと笑った。

「そりゃあ、決まってるさ」

 カウンターを軽く拭きながら、店主は続ける。

「美味いもん食って、酒飲んで、笑う。それ以上に大事な人生の理由なんて、あるかい?」

「……」

 あまりにも単純な答えだった。これまでのメルティは、強くあることを求められてきた。誰かに必要とされること。戦うこと。勝つこと。それだけが、自分がここにいる理由なのだと思っていた。

 けれど、目の前には空になったシチューの皿がある。まだ少しだけ温かなワインが残っている。そして自分は、ついさっきまで泣きながら、それを「美味しい」と思っていた。ただそれだけのことで、あれほど重かった心が、ほんの少しだけ軽くなっている。

「……美味しいものを食べて、お酒を飲んで……笑う」

「ああ」

 店主が笑う。

「それでいいんですか」

「それがいいんじゃないか」

「……」

 メルティはもう一度グラスを手に取り、残っていた温かなワインをゆっくりと飲んだ。

 美味しかった。それだけで、なぜか少し笑えた。

(……私も)

 誰かのための「兵器」ではなく、誰かに求められたから戦うのでもなく。

(自分のために、美味しいものを食べて、お酒を飲んで……生きてみたい)

 その夜、メルティの中で何かが静かに変わった。

                              *

 記憶の中の酒場が、ゆっくりと遠ざかっていく。薪ストーブの音も、温かな灯りも、店主の声も薄れていき、代わりに戻ってきたのは、耳をつんざく邪神の咆哮だった。

「――っ」

 メルティの意識が、古代遺跡へと引き戻される。傷ついた体。荒い呼吸。目の前で渦巻く、巨大な闇。何一つ、状況は変わっていない。

 けれど、メルティの瞳から、先ほどまでの迷いは消えていた。

「――そうでした。思い出しました」

 メルティはゆっくりと立ち上がった。

「私、もう……誰かのための兵器として、生きるのはやめたんです」

 あの日から、自分のために歩き始めた。美味しいものを食べ、知らなかった酒を飲み、温泉に浸かって、知らない街を歩いた。一緒に杯を交わす相手もできた。

 その旅の中で、自分が守りたいものも、少しずつ増えていた。

 王都の賑やかな酒場。老婆が出してくれた豚カツ。砂漠で囲んだ食卓。森の中でリセルと飲んだ酒。そして、その場所で笑っていた人たち。

「私は、私のために生きます」

 メルティは、目の前の邪神を見据えた。

「だから――この、平和で美味しい世界を、守るんです」

 誰かに命令されたからではない。世界最強だからでもない。

 自分が、この世界を好きになったから。

 メルティは静かに拳を握り、自分の意思で一歩を踏み出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。