第28話
軋む木の扉を、震える手で押し開ける。
――途端に、暖かな空気が全身を包み込んだ。
薪ストーブの爆ぜる音。じんわりと部屋に満ちる木の香り。そして鼻の奥をくすぐる、温かなスープと、じっくり煮込まれた肉の匂い。冷たい雨に打たれ続けていた体にとって、それはあまりにも唐突な、別世界の温もりだった。
「――おや」
カウンターの奥から、白髪交じりの初老の店主が、ひょいと顔を覗かせる。びしょ濡れで、血と泥にまみれたメルティの姿を見て、驚いたように目を見開いた。
「お嬢ちゃん、そりゃあずいぶんと、冷え込んで重いものを背負ってきたみたいだね」
その声には、恐れも、過剰な敬いもなかった。ただ、雨に凍えた一人の少女を気遣う、それだけのごく自然な温かさがあった。
「まずは、温まりな」
その一言に、メルティはなぜか逆らうことができなかった。ふらふらと引き寄せられるように、カウンター席へ腰を下ろした。
*
ほどなくして、湯気の立つ深皿がことりと置かれた。大きく切られた野菜と、じっくり煮込まれた牛肉が、濃い茶色のスープの中に沈んでいる。そして傍らには、スパイスとハーブの香りが漂う、温かなワインのグラスも置かれた。
「うちの特製シチューと、体が温まるホット・ハーブワインだ。遠慮なく食いな」
メルティは、震える手でスプーンを取った。誰かが自分のために温かな食事を出してくれたのが、いつ以来なのか思い出せなかった。
ひとくち、口に運ぶ。
「――っ」
声にならなかった。柔らかく煮込まれた肉が、舌の上でほろりとほどける。肉の旨味と野菜の甘みが溶け込んだ熱いスープが、乾ききった喉を通り、冷えた体の奥へゆっくりと落ちていった。
これまで口にしてきた携行食とは、まるで違う。ただ腹を満たして、生き延びるためだけのものではない。
ぽろり、と。メルティの瞳から、大粒の涙がひとつこぼれ落ちた。
「……美味しい……」
もう一口食べる。すると、また涙が落ちた。止めようとしても、止まらなかった。しゃくり上げながら、それでもスプーンを持つ手だけは止まらない。夢中でシチューを口へ運び、温かなワインを少しだけ飲む。
「んっ……」
ハーブとスパイスの香りがふわりと鼻へ抜け、喉から胸へ、じんわりとした熱が広がっていく。
「美味しい……温かい……」
涙をぼろぼろとこぼしながら、メルティは何度も同じ言葉を口にした。店主は何も聞かなかった。ただ時折、薪を足しながら、彼女が食べ終えるまで静かにそこにいた。
やがて皿が空になり、涙も少しずつ落ち着いてきた頃。メルティは空になった皿を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……私、なんのために生きてるのか……分からなくなって」
「そうかい」
店主は、それだけ答えた。何があったのかを聞こうとはしなかった。
「……あの、あなたは、なんのために生きているんですか」
メルティが少し迷ってからそう尋ねると、店主は一瞬だけ目を丸くし、顎をさすった。けれど、すぐにあっけらかんと笑った。
「そりゃあ、決まってるさ」
カウンターを軽く拭きながら、店主は続ける。
「美味いもん食って、酒飲んで、笑う。それ以上に大事な人生の理由なんて、あるかい?」
「……」
あまりにも単純な答えだった。これまでのメルティは、強くあることを求められてきた。誰かに必要とされること。戦うこと。勝つこと。それだけが、自分がここにいる理由なのだと思っていた。
けれど、目の前には空になったシチューの皿がある。まだ少しだけ温かなワインが残っている。そして自分は、ついさっきまで泣きながら、それを「美味しい」と思っていた。ただそれだけのことで、あれほど重かった心が、ほんの少しだけ軽くなっている。
「……美味しいものを食べて、お酒を飲んで……笑う」
「ああ」
店主が笑う。
「それでいいんですか」
「それがいいんじゃないか」
「……」
メルティはもう一度グラスを手に取り、残っていた温かなワインをゆっくりと飲んだ。
美味しかった。それだけで、なぜか少し笑えた。
(……私も)
誰かのための「兵器」ではなく、誰かに求められたから戦うのでもなく。
(自分のために、美味しいものを食べて、お酒を飲んで……生きてみたい)
その夜、メルティの中で何かが静かに変わった。
*
記憶の中の酒場が、ゆっくりと遠ざかっていく。薪ストーブの音も、温かな灯りも、店主の声も薄れていき、代わりに戻ってきたのは、耳をつんざく邪神の咆哮だった。
「――っ」
メルティの意識が、古代遺跡へと引き戻される。傷ついた体。荒い呼吸。目の前で渦巻く、巨大な闇。何一つ、状況は変わっていない。
けれど、メルティの瞳から、先ほどまでの迷いは消えていた。
「――そうでした。思い出しました」
メルティはゆっくりと立ち上がった。
「私、もう……誰かのための兵器として、生きるのはやめたんです」
あの日から、自分のために歩き始めた。美味しいものを食べ、知らなかった酒を飲み、温泉に浸かって、知らない街を歩いた。一緒に杯を交わす相手もできた。
その旅の中で、自分が守りたいものも、少しずつ増えていた。
王都の賑やかな酒場。老婆が出してくれた豚カツ。砂漠で囲んだ食卓。森の中でリセルと飲んだ酒。そして、その場所で笑っていた人たち。
「私は、私のために生きます」
メルティは、目の前の邪神を見据えた。
「だから――この、平和で美味しい世界を、守るんです」
誰かに命令されたからではない。世界最強だからでもない。
自分が、この世界を好きになったから。
メルティは静かに拳を握り、自分の意思で一歩を踏み出した。




