第27話
閃光が収まった先に広がっていたのは、記憶の中の――数年前の世界だった。
灰色の雲が低く垂れ込め、絶え間なく降り続く雨が、抉れた大地に泥水の川を作っている。焦げた土の匂いと、鉄錆に似た血の匂いが、辺り一面に染み付いていた。そこには、美味しい食事を前にした笑顔も、酒を酌み交わす温かな時間も、どこにも存在しなかった。あるのはただ、血と泥と、絶望に濡れた戦場だけだった。
その中心に、当時のメルティは立っていた。
*
感情を殺し、ただ淡々と、目の前の敵を排除していく。それが、あの頃のメルティの日常だった。
「最凶のSSSランク」――その二つ名は、いつしか彼女個人の名前ではなく、国やギルドが振るう、一振りの武器の名のように扱われるようになっていた。
「メルティ様! こちらの戦線が崩壊寸前です! すぐに向かってください!」
「東の砦にも大悪魔が出現したとの報告が! 手が足りません!」
次から次へと押し寄せる要請に、休む間もなく戦場を渡り歩く日々。どれほど強大な魔王級の存在を打ち倒しても、返ってくる言葉は、いつも決まっていた。
「さすがはSSSランクだ!」
「君なら、当然だろう」
誰もがその圧倒的な力を称賛し、そして当然のように、次の戦場へと送り出す。
――誰一人として、「大丈夫か」と声をかけてはくれなかった。
傷ついた体を引きずり、束の間の休息に支給された携行食を口へ運ぶ。水分の抜けた硬いパンと、味気のない干し肉。腹を満たすことだけを目的に作られたそれを、機械的に噛んで飲み込む。美味しいかどうかなど、考えたこともなかった。
食べることは、生き続けるための作業。ただ、それだけだった。
*
そして――今回の遠因となった、あの古代の邪神。今目の前にいる幻影とは比べものにならない、完全な姿をした邪神と対峙した日。
その戦いは、これまでのどんなものよりも凄惨だった。振るわれる漆黒の腕。崩れ落ちる大地。絶えず耳を打つ怨嗟の唸り。メルティは幾度となく血を流し、地面に叩きつけられ、それでも立ち上がった。ただひたすらに魔力を振るい、拳を叩き込み、目の前の敵を止めることだけを考え続けた。
そして、長い死闘の果てに――辛うじて、その力を封じ込めることに成功した。
「――勝った、勝ったぞ!」
「メルティ様が、あの邪神を封じ込めた!」
周囲から、割れんばかりの歓声が沸き起こった。人々は抱き合い、涙を流しながら、生き残った喜びを分かち合っている。
その輪から、少し離れた場所。ぼろぼろに傷ついたメルティは、ただ一人で立っていた。
「……」
誰もが彼女の名を叫び、その力を讃えている。けれど、不思議なほど誰も彼女のそばへは来なかった。向けられるのは、感謝と、畏敬と――ほんの少しの恐れ。世界を救った英雄を見る目であって、傷ついた一人の人間を見る目ではなかった。
メルティは、自分の手を見下ろした。泥と血に汚れたその手は、小さく震えている。少し向こうでは、人々が泣きながら抱き合っていた。楽しそうだった。嬉しそうだった。自分が守った光景のはずなのに、その中に自分の居場所だけがないような気がした。
「……私って」
小さな声が、雨音に紛れる。
「なんのために、生きているのかな」
誰にも届かなかった。
*
その日の夜。メルティは誰にも告げることなく、勝利に沸く陣営を一人で後にした。
降り止まぬ雨の中、血と泥にまみれた体を引きずるように、あてもなく街を歩く。道行く人々は、彼女の姿を見ると足を止めた。
「あれ……」
「SSSランクの……」
小声で囁き合う。けれど、誰も近づいてはこなかった。
最凶のSSSランク。世界最強。英雄。いつからか、そんな言葉ばかりが自分より先を歩くようになっていた。
膝が、限界を訴えるように震え始める。冷たい雨が傷口に染みた。
「……疲れた」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
もう、一歩も動きたくない。そう思い、足を止めた――その時だった。
ふと、視界の隅に暖かな光が滲んだ。
「……?」
顔を上げる。薄暗い路地裏の奥に、ぽつんと一軒の小さな酒場が佇んでいた。古びた木の扉。曇った窓ガラス。その向こうから漏れている、柔らかな黄色い灯り。
雨に濡れた路地の中で、そこだけが不思議なくらい暖かそうに見えた。
メルティはしばらく、その光を見つめていた。やがて、震える足を一歩だけ前へ出す。そしてもう一歩。
吸い寄せられるように、メルティは小さな酒場の灯りへと歩いていった。




