第26話
メルティが纏う覇気に、黒衣の男たちは声すら上げられず、その場に崩れ落ちていた。
だが、その静寂を切り裂くように、封印の間の中央――どす黒い瘴気が渦を巻く石碑の奥から、地を這うような咆哮が轟いた。
「ゴアアアアアアアアアアッ!!!」
瘴気の塊が幾重にも折り重なりながら、巨大な人型を形作っていく。完全な姿とは程遠い、不完全な肉体。それでも、その存在感は、これまでメルティが目にしてきたどんな魔物とも明らかに違っていた。
「ゴォオオオッ!」
邪神の幻影が、開いた口から闇の波動を吐き出す。メルティはいつものように、軽く手刀を振るった。
――ズバンッ。
波動が真っ二つに裂ける。だが、切り裂いたはずの闇が、瞬く間に元の形へと戻った。そのまま勢いを失うことなく、メルティへと迫ってくる。
「……え」
「――!!」
咄嗟に横へ跳ぶ。闇の波動がすぐ脇を通り抜け、着地した地面を抉るように黒く焼いた。
メルティの目が、わずかに細くなる。
「……効いてない?」
確かに切った。手応えもあった。それなのに、まるで「破壊された」という事実そのものを拒むように、目の前の存在は何事もなかったかのように形を取り戻している。
「ゴアアアアアアッ!!!」
邪神の巨腕が、地響きを立てながら振り下ろされた。メルティはとっさに両腕を交差させる。
――ドオオオオオンッッ!!!
「――っ!!」
凄まじい衝撃とともに、小柄な体が宙を舞い、崩れた石壁へ勢いよく叩きつけられた。ばらばらと瓦礫が降り注ぐ。
「……っ」
メルティは片膝をついたまま、しばらく動かなかった。やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……痛いです……」
小さく漏れた声には、これまでの旅で見せてきた余裕がなかった。口の端を伝った血を、親指で拭う。赤い。その色を見つめたメルティの表情が、ほんのわずかに強張った。
「さすがに……簡単にはいきませんか」
それでも立ち上がる。瞳にあるのは、恐怖ではなく、静かな戦意だった。
*
そこから始まったのは、これまでの旅では一度もなかった、本当の戦いだった。
巨腕。瘴気の刃。闇の波動。
邪神が放つ攻撃を紙一重で躱し、受け流し、わずかな隙を見つけて反撃する。だが、何度傷を刻んでも、その箇所は黒い瘴気に覆われ、ゆっくりと元の形へ戻っていった。
「――っく!」
漆黒の刃を避けた直後、死角から伸びた一撃がメルティの肩をかすめる。
「っ……!」
焼けるような痛みが走った。後方へ跳び、距離を取る。呼吸が、少しずつ荒くなっていく。
その耳に、邪神の口から漏れる低い唸り声が届いた。
「ォォォォォォォ……」
幾人もの声を無理やり重ね合わせたような、不気味な音。怒り。憎しみ。悲鳴。無数の怨嗟が絡み合い、直接頭の中へ流れ込んでくるようだった。
「――っ」
その瞬間、メルティの視界に別の光景が重なった。
炎に包まれた街。崩れた建物。折り重なる人影。
『次だ』
『メルティ。次の戦場へ向かえ』
知らないはずの声。それなのに、なぜか聞き覚えがある。
「……なに、これ……」
目の前には邪神がいる。それなのに、視界の端では炎が揺れ、血に濡れた自分の手が見えた。どこか遠くから、誰かの泣き声が聞こえてくる。
『君ならできる』
『SSSランクなんだから』
「……っ」
頭が痛い。メルティは片手で額を押さえた。
「ゴアアアアアアアアッ!!!」
その一瞬の隙を、邪神は見逃さなかった。巨腕が迫る。
「――!」
完全には避けきれない。凄まじい衝撃が脇腹を捉え、メルティの体が再び宙を舞った。地面へ叩きつけられ、視界が白く明滅する。
「――っ、はぁ……っ」
息が上がる。全身が痛い。それでも、メルティは震える膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
目の前には邪神。けれど、脳裏にはまだ、知らないはずの光景がちらついている。
雨。泥。血。そして、遠くから聞こえる誰かの歓声。
「……」
胸の奥が、冷たくなる。なぜなのかは、分からなかった。
「ゴアアアアアアアアアアアッ!!!」
邪神が、これまでで最大の咆哮を上げた。
巨大な闇の渦が、その両腕の間に生まれていく。周囲の空間が軋み、歪む。
メルティは荒い息を吐きながら、右腕をゆっくりと引いた。
「――行きます」
残る魔力を、一点へ集中させる。これまでなら難なく制御できたはずの力。だが今は、脳裏を駆け巡る記憶の欠片に乱され、魔力がわずかに揺らいでいた。
それでも、退くつもりはない。
邪神が闇を放つ。同時に、メルティも右腕を振り抜いた。
二つの力が真正面から激突する。
――パアアアアアアアアアアアンッッッッ!!!
視界を焼き尽くすような閃光が、封印の間を埋め尽くした。
「――っ」
白い光に呑まれた瞬間、メルティの耳に、遠い昔の声が聞こえた。
『さすがだ』
『これでまた、多くの命が救われた』
『次も頼むぞ、メルティ』
そして、意識が深い場所へと落ちていく。
炎も、邪神も、痛みも、すべてが遠ざかっていく。
代わりに浮かび上がったのは――今より少しだけ幼い、自分自身の姿だった。
――数年前。
まだメルティが、「世界最強」であることを求められ続けていた頃。
閉ざされていた記憶の扉が、静かに開いた。




