第25話
北の古代遺跡に近づくにつれ、空気の質が変わっていくのが分かった。
澄んでいたはずの大気は、どこか粘つくような重さを帯び、地面には見覚えのない紫黒の亀裂が幾筋も走っている。空には分厚い雲が渦を巻き、太陽の光すら届かない、異界のような光景が広がっていた。
「――ここ」
メルティが遺跡の入り口に足を踏み入れた瞬間、耳をつんざくような咆哮と、剣戟の響き、そして人々の悲鳴が一気に押し寄せてきた。
目の前に広がっていたのは、地獄絵図だった。
巨大な触手を振り回す異形の魔物、闇色の瘴気を纏った獣たち――邪神の魔力によって狂暴化した魔物たちが、遺跡の広場を埋め尽くさんばかりに溢れかえっている。王都から派遣された高ランク冒険者や騎士たちが、傷だらけになりながらも、必死に隊列を組んで防戦を続けていた。
「くそっ……! きりがない……!」
「後退しろ! これ以上は持ちこたえられん……!」
絶望的な戦況の中、誰もが最後の力を振り絞っていた、その時。
小柄な少女が、気負う様子もなく、ふらりと戦場へ歩み出た。
「――メルティ嬢!? な、なぜこんな場所に……!」
その姿に気づいた騎士の一人が、驚きに声を上げる。だが、メルティは答える間も惜しむように、静かに一歩を踏み出した。
巨大な触手が、唸りを上げながらメルティめがけて振り下ろされる。
「――どいてください」
メルティは、軽く曲げた指先を弾いた。
パチンッ。
ただそれだけの音とともに、巨大な触手が、まるで枯れ枝のように粉々に砕け散った。
「――!!!!」
周囲の冒険者たちが、息を呑む。
続けて、獣型の魔物が三体、同時に飛びかかってきた。メルティは軽く踏み込むと、その場に衝撃波を放つ。ただそれだけで、三体の魔物はまとめて後方へ吹き飛ばされ、地面に沈んでいった。
巨躯を誇る異形の魔物も、鋭い爪を持つ獣も、メルティの前では次々とその動きを止めていく。
「な、なんだ、あの少女は……!?」
「あれだけいた魔物を、たった一人で……」
あっという間に、あれほど群れをなしていた魔物たちの姿が消えていく。血みどろだった戦場に、束の間の静寂が戻った。
メルティは、そんな戦場の様子をほとんど気にも留めていなかった。
彼女の視線は、すでに遺跡のさらに奥――禍々しい気配が渦巻く、最奥の間へと向けられていた。
「――行きます」
助けられた冒険者たちの制止も聞かず、メルティは迷いなく足を進めていく。
*
遺跡の最奥、「封印の間」と呼ばれるその場所には、無数の黒衣の人影が、詠唱を捧げるように蠢いていた。中央には、巨大な石碑を突き破るように、どす黒い瘴気を纏った禍々しい影が、姿を現しつつある。
「もうすぐだ……! もうすぐ、あの方が再び、この世界に……!」
狂信的な喜びに満ちた声が、口々に上がっていた。
その中心――ひときわ豪奢な黒衣を纏った幹部らしき男が、勝ち誇ったように笑みを浮かべている。
「くくく……もはや誰にも、我らの悲願を止めることは――」
その言葉が、ふと途切れた。
男の視線が、扉の向こうから静かに歩み入ってきた、小柄な少女の姿を捉えたのだ。
「――え」
男の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
「ば……ば、化け物……!?」
その声は、恐怖にひび割れていた。
「な、なぜ……なぜお前がここにいる……!」
メルティは、ただ静かにその場に立っていた。
だが男にとって、その存在は遠い過去の悪夢そのものだったのだろう。
「かつて……かつて我らの計画を、たった一人で粉砕した……あの……! 最凶のSSSランクが……!」
「……」
ガタガタと震えながら後ずさる男を、メルティは無言のまま見つめていた。
――その瞬間。
脳裏を、何かが掠めた。
赤黒く染まった空。
崩れ落ちた建物。
自分の手にこびりついた、乾きかけの血。
『さすがSSSランクだ』
『君なら、これくらい当然だろう』
「……っ」
メルティはわずかに眉を寄せた。
けれど、それ以上の記憶は浮かんでこない。
ただ、胸の奥に残ったのは、妙に冷たい感覚だけだった。
「お、お前……まさか、覚えて――」
男の声に、メルティは静かに顔を上げた。
「この街の、美味しいご飯とお酒を」
一歩、前へ出る。
「みんなが笑って過ごせる時間を」
もう一歩。
「邪魔するなら――」
全身から、目に見えない圧が静かに立ち上っていく。
黒衣の男たちの表情から、一斉に血の気が引いた。
「――容赦しません」
その瞳に宿っていたのは、これまでの旅で見せてきた朗らかな色とは、まったく違うものだった。
世界最強と呼ばれた、かつてのSSSランク冒険者。
封印の間に渦巻く邪神の影を見据えながら、メルティは静かに一歩を踏み出した。




