第22話
夜の帳が完全に下りた頃、リセルの案内で、メルティは樹海の最奥へと足を踏み入れていた。
鬱蒼と茂る木々の合間を縫うように進んでいくと、やがて視界が開け、ひときわ巨大な一本の樹が、月明かりの中に浮かび上がった。地上から見上げても頂が見えないほどの高さで、その幹には、淡く発光する苔が幾筋も走っている。
「――ここが、伝説の巨木」
リセルが静かに囁いた、その時だった。
ぱき、と小さな音とともに、樹の頂近くに宿っていた巨大な蕾が、ゆっくりと動き始める。
「――!」
メルティは息を呑んだ。
月光を浴びながら、幾重にも重なる花弁が、まるで生き物のようにゆっくりと開いていく。中から現れたのは、真珠のような光を放つ、幻想的な白い花だった。数千年の眠りから目覚めたそれは、辺り一帯を淡い光で満たしていく。
「綺麗……」
その光景に、リセルすらも言葉を失っていた。
やがて、開ききった花の中心から、透き通った雫が、ぽつり、ぽつりと滴り落ち始める。
開花するまでの長い年月、花の奥でゆっくりと熟成されてきた雫――それこそが、伝説の月光酒だった。
あらかじめ用意していたグラスを、二人はそっと差し出した。
こつん、こつんと、雫がグラスの中に落ちるたびに、青白い光が幻想的に揺れる。しばらくして、グラスの底には、淡く発光する液体が静かに満たされていた。
「これが……月光酒」
メルティは震える手でグラスを持ち上げると、まずその香りをゆっくりと確かめる。それから、祈るようにひとくち含んだ。
「――んんんっ……!!」
思わず声が漏れる。
澄み切った、とろけるような甘み。まるで夜露そのものを飲んでいるかのような清涼な冷たさが、口の中からすうっと全身へと広がっていった。
夜風の涼しさと、月明かりの静けさを、そのまま液体にしたような味だった。
「んふぅ~……! 天国に来てしまったみたいです……!」
うっとりと目を細めるメルティの隣で、リセルもまた静かにグラスを傾けていた。
「――あたしも、初めて飲んだよ、こんな味……」
二人はしばらく言葉を交わすこともなく、ただ月光に照らされたグラスを揺らしながら、その特別な一杯をゆっくりと味わった。
――その、静かで幻想的な瞬間を。
ドガガガガガガガッッ!!!
突如、樹海全体を揺るがすほどの轟音とともに、目の前の木々がまとめてなぎ倒された。
「な、なに――!?」
驚いて振り向いた先、砂煙の向こうから現れたのは、豪奢な甲冑に身を包み、剣を振りかざした――アルベルト王子だった。その背後には、整然と隊列を組んだ近衛騎士団の姿もある。
「メルティ嬢―――!!! 無事かぁぁぁあああ!!!」
絶叫にも似た声とともに、王子は馬から飛び降り、猛然と駆け寄ってきた。
「あの卑劣な組織め、必ず見つけ出してくれると……!」
メルティとリセルは、グラスを片手に持ったまま、ぽかんと王子を見つめていた。
「――アルベルト様?」
「――!!」
王子は目の前の光景に、ぴたりと足を止めた。
拉致されたはずのメルティは傷ひとつなく、それどころか、青白く光る神秘の酒を片手に、この上なく幸せそうな顔で立っている。
「え……メルティ嬢……その、無事、なのか……?」
「はい。今、すごく美味しいお酒を飲んでいたところです」
「……お酒」
王子はしばし呆然と立ち尽くしていたが、やがて、その瞳にじわりと涙が滲み始めた。
「――そうか……そうか、無事だったのだな……!」
安堵と、これまでの心労が一気に押し寄せてきたのか、王子は震える声を絞り出した。
「聞いた時は、本当に……! 君に何かあったら、私は、私は……!」
ぐしぐしと涙を拭いながら、王子はメルティの両肩をがしりと掴んだ。
「もう心配で見ていられん! ――一旦、王都へ戻るぞ!」
「え、でも」
メルティが月光酒のグラスを名残惜しそうに見つめる間もなく、王子は近衛騎士たちに指示を飛ばし始めていた。
そんな慌ただしい様子を見ていたリセルが、くすりと笑いながら、メルティの肩を軽く叩いた。
「――どうやら、あんたの帰りを待ってる人がいるみたいだね」
「リセルさん……」
「また絶対に飲みに来な。今度は、もっとゆっくり味わえるようにしておくよ」
「はい! また絶対に来ます!」
二人はしっかりと手を取り合い、再会を約束した。
その様子を見届けたアルベルト王子は、半ば強引にメルティを豪華な馬車へと促す。名残惜しさを滲ませながらも、メルティは月光酒のグラスを大切に抱えたまま、馬車に乗り込んだ。
窓の外に小さくなっていくリセルの姿と、光を纏う巨木を見つめながら、メルティは小さく手を振った。
月明かりに照らされた樹海を後にし、馬車はがたごとと王都への道を進んでいく。
賑やかな旅は、まだまだ終わらない。
そして、この穏やかな日々の裏側で、次なる大きな運命が静かに動き始めていることに――メルティ自身は、まだ気づいていなかった。




