第18話
賑やかな砂漠の街に別れを告げ、メルティは新たな目的地へと歩き始めていた。
目指すは、遥か北東に広がる深緑の樹海都市。旅の道中、立ち寄った街で耳にした噂によれば、そこには「数千年に一度しか仕込まれない、幻のエルフ木の実酒」があるのだという。
「木の実の……お酒……」
その響きだけで、メルティの足取りは軽やかになった。
道中、いつもなら定期的に届くはずの、あの見覚えのある王家の紋章入りの荷馬車も、今回はまだ姿を見せない。国務が忙しいのか、あるいはようやく諦めがついたのか――理由は分からないが、久しぶりに誰にも邪魔されない、静かな一人旅だった。
「んー、平和」
小鳥のさえずりを聞きながら、鼻歌交じりに街道を進む。数日かけて緑深い山々を越えた先、鬱蒼と茂る樹海の入り口に、活気ある宿場町が姿を現した。
*
その宿場町の路地裏、薄暗い物陰から、鋭い視線がメルティの後ろ姿をじっと追っていた。
「……いたぞ。あれが例の、標的だ」
黒装束に身を包んだ男が、低く抑えた声で仲間に囁く。
「本当にあの小娘が、あのメルティなのか? どう見ても、ただの子供にしか見えんが」
「油断するな。あの見た目で、単独で数々の伝説級の魔物を屠ってきたんだ。まともに戦っては、勝ち目はない」
男たちの目に宿るのは、明確な敵意と警戒だった。
彼らは、とある組織から放たれた刺客――正面から挑めば命を落としかねない相手に対し、密かに用意していた「策」を実行に移すべく、路地裏で静かに機を窺っていた。
「準備は?」
「抜かりない。この店の店員は、すでにこちらの息がかかっている」
男たちの視線の先、メルティは何も知らぬまま、通りに面した小さな酒場の暖簾をくぐっていった。
*
カウンター席に腰かけたメルティに、緊張の面持ちを隠しきれない店員が近づいてくる。
「い、いらっしゃいませ……! な、何になさいますか?」
「んー、おすすめのお酒をください」
「か、かしこまりました! 当店自慢の……冷やし果実酒を、どうぞ……!」
震える手つきで、店員がグラスをカウンターに置く。淡い紅色の液体は、見た目には何の変哲もない、爽やかそうな果実酒だった。
しかしその実態は、事前に組織の男たちから脅され、無理やり仕込まされた代物――屈強な魔物すら動けなくするという、強烈な麻痺作用を持つ酒だった。
そんな裏事情など知る由もないメルティは、目を輝かせながらグラスを傾ける。
「――いただきます」
ひとくち。
「――んっ!」
とろりとした濃厚な甘みが、口いっぱいに広がっていく。だがその直後、喉の奥を焼くような、強烈なアルコールの波が押し寄せてきた。
「あ、あれ……? これ、なんだか……」
これまで、どれほど強い酒を飲んでも顔色ひとつ変えなかったメルティの頬に、じわりと赤みが差していく。
グラスを置こうとした指先に、うまく力が入らない。
「……ん?」
腕が、妙に重い。
異変に気づくより先に、瞼までとろりと重くなり始めた。
「んふぅ……なんだか、すごーく……良い気分ですぅ……」
いつもの明晰な口調が、みるみるうちにとろけていく。頬を紅潮させ、うっとりと目を細めるその様子は、これまでの毅然とした「元SSSランク」の姿からは、想像もつかないほど無防備なものだった。
物陰からその一部始終を見守っていた男たちが、思わずごくりと喉を鳴らす。
「き、効いてるぞ……! あの伝説の麻痺酒、本当に効いてやがる……!」
「……あの、ですね」
メルティは、とろんとした目のまま、カウンターに頬杖をつく。
「このお酒、すごく甘くて……美味しいん、ですけど……なんだか、まぶたが……」
言葉の途中で、ふらりと体が傾いだ。
「ふにゃあ……おやすみなさい……」
小さな寝息とともに、メルティの体はそのままカウンターへ、こてん、と突っ伏してしまった。頬にかかったふわふわの髪が、グラスの水滴でほんの少し濡れていた。
店内に、静かな寝息だけが響く。
その様子を確認した男たちが、抑えきれない歓喜の声を上げながら、勢いよく酒場に駆け込んできた。
「――ククク、かかったな……!」
「まさか、あの怪物を、こうもあっさり無力化できるとはな……!」
その言葉が聞こえたのか、眠りに落ちかけたメルティの指先が、ほんのわずかに動いた。
だが、それだけだった。
次の瞬間には、再び小さな寝息が聞こえてくる。
男たちは震える手で、しかし確かな達成感とともに、眠り込んだメルティの体をそっと担ぎ上げた。あまりの無防備さに、拍子抜けするほどだった。
「行くぞ、アジトへ運べ! 首魁が首を長くして待っている!」
夜の帳が下りる中、メルティを乗せた馬車が、樹海の奥へと静かに走り出していく。
その中で、本人は幸せそうな寝顔のまま、時折「んむ……美味しかった……」と、夢の中でもグラスを傾けるような仕草を見せていた。
彼女を狙う者たちの緊迫した思惑をよそに、メルティの意識は、心地よい酔いの底へと深く沈んでいくのだった。




