夜明け前の便
帝国向け特例輸送便の出発は、夜明け前に決まった。
王都東門の荷役場には、医療用魔導具を積んだ車列が並んでいる。白い布で覆われた箱が六つ。外から見れば、国境の診療所へ送る治療器具と薬品にしか見えない。
その中央に、ひとつだけ空の箱があった。
僕が蓋へ指を置くと、底板の鉱板が冷たく光った。名前は浮かばず、触れた指の跡と時刻だけが残る。
「物は入らない。人も、不安定な魔力体も。触れた者と封印へ触れた順番を記録する箱です」
フィーナが三つの封印を順に撫でた。青、灰、まだ光らない黒。名前を読む仕組みではないからこそ、記録から名前を抜く相手にも使える。
『記録できるのは魔力と時刻だけよ』
「それで十分です。名前を消す仕組みを使う相手なら、名前のない証拠の方が信用できます」
ガウェインが、僕の言葉を聞いて目を細めた。
「君は、ときどき配達員らしくないことを言う」
「そ、そうですか?」
「いや。今のは配達員らしい」
ガウェインは、空箱の荷札を留め直した。
「荷物そのものより、誰が受け取ったかを残す。それが配達の基本だ」
「外見は、普通の医療器具箱ですね」
セリアが荷札を確認しながら言った。
今日は物流局の制服ではなく、灰色の旅装を着ている。臨時協力証には、帝国向け輸送便の経路管理補佐と書かれていた。
それは王国の正式職員章ではない。地下炉停止後の公開証言と、帝国の経路や身分証を読み解く協力を条件に、王家が期限付きで発行したものだ。
セリアが物流局へ復帰したわけではない。単独で荷物を受け取り、経路を変更し、命令へ押印する権限も持たない。経路変更と受領者の確定には、ガウェインかフィーナの確認印が必要になる。
これは、地下炉事件の後に再編された影班の連絡網だった。エレオノーラの解任後、彼女が持っていた命令権は監督会へ移されている。以前のように、一つの命令で人を動かす組織ではない。受領、鑑定、経路を別々の担当が記録し、互いに照合する。どこか一つが止まっても、残りの記録まで消えないように組まれていた。
「普通に見えない箱は、国境で止められる」
フィーナが封印を調整する。
彼女は医療用魔導具の鑑定士という身分になっていた。腰の鑑定鏡も、普段のものより簡素に見える偽装品だ。
「普通に見える箱の中へ、普通でない仕組みを入れるのね」
「配達では、よくあることです」
「あなたの場合、その言葉を信用していいのか分からないわ」
フィーナが僕を見た。
僕は、伝票を落とした。
「す、すみません。手が滑りました」
セリアが小さくため息をつき、ガウェインが拾った伝票を僕へ渡す。
「演技が過ぎる」
「自然に見せるには、これくらいが」
「普段から自然だったのか?」
ガウェインの問いに、僕は答えなかった。
気弱な配達員の演技は、もう僕の一部になりかけている。
それが便利なのか、危険なのかも分からない。
セリアが六つの医療箱と空箱の荷札を照合した。
「表の届け先は、グラキエス国境診療所。途中の受取確認は、帝国側の共同検問所」
「帝国へ行くのに、グラキエスを経由する?」
ガウェインが尋ねる。
「表の輸送路です。王国と帝国が直接つながっていると見せるより、グラキエスの救護路を通した方が検査が少ない」
「裏の経路は?」
セリアは、空箱の荷札を裏返した。
黒い線が一本だけ刻まれている。
「旧救護路の第三経路。帳簿が消えるなら、ここを通るはずです」
羽片が、僕の内ポケットでわずかに震えた。
シアンの三拍子に似た応答を受けてから、羽根はずっと熱を持っている。
帝国側に、受け取った者がいる。
その魔力波長は、シアンに似ていた。
完全には同じではない。
けれど、あの仕草を模した偽装波長よりは、ずっと近い。
「受取人の名前は?」
僕が訊くと、セリアは少し黙った。
「正式な書類には、帝国共同輸送監査官とだけあります。個人名は空欄です」
「また空欄」
ガウェインの声が低くなる。
「帝国側の受取人も、最初から名前を消されているのかもしれない」
表の書類は、王国と帝国の認証を通る。
裏の書類は、受取人の名前を持たない。
空欄のままでも、荷物だけは国境を越えられる仕組みだった。
「この便を止めれば、帳簿を探る前に道が閉じる」
フィーナが言った。
「だから、出発させる」
ガウェインが車列の先を見た。
「追手が来ても、輸送便を止める理由を与えない」
出発時刻になる。
出発の直前、廃診療所から一枚の紙が届いた。リオが眠りながら繰り返した言葉を、医師が書き取ったものだ。
――ミレア。七番のあと。
それだけだった。子どもの言葉を経路の証明にはしない。けれど、七冊目の記録と同じ方向を指している以上、証言として別の封袋へ収めておく価値はある。
王都東門の出国門には、三つの封印照合柱が立っていた。
王国側の青い柱。
グラキエス側の白い柱。
帝国側の黒い柱。
三本の柱へ順番に魔力を通し、三つの承認を一つの輸送記録へつなぐ。灰羽の三本線と同じ考え方だ。
僕が先頭の車両から降り、通行札を封印照合台へ置いた。
青い柱が光る。
次に、白い柱が光った。
三本目の黒い柱へ、魔力が流れる。
高い音。
同じ高さの音が、もう一度。
最後に、低く長い音が鳴った。
軽く、軽く、重く。
僕の呼吸が止まった。門の音が三つに分かれ、白い廊下と赤い警告灯が一瞬だけ重なる。背中へ伸びた手の感触が戻る前に、現在の門番の声が割り込んだ。
現在の門番が、僕の肩へ手を置いた。
「通行を許可する」
僕は、ようやく息を吐いた。
「顔色が悪い」
フィーナが小声で言う。
「門の音が、少し苦手で」
「音だけで?」
「昔からです」
彼女はそれ以上訊かなかった。
車列が、三本の封印照合柱の間を進む。
空箱の底で、魔力鉱板が一度だけ脈打った。
誰かが箱へ触れた記録ではない。
遠く、帝国側の受取認証から返ってきた応答だった。
羽片が熱を持つ。
空箱の内側に、薄い文字が浮かび上がった。
受領準備――完了。
受取人の欄には、名前の代わりに、袖口へ逃がすような結び目が刻まれている。
シアンが帝国側で、僕たちの荷物を受け取ろうとしている。
それが本物なのか、模倣犯の罠なのかは分からない。
車列が王都の門を抜け、国境へ向かう道へ入った。
僕は、気弱な配達員の顔を作り直した。空箱を運び、帝国側で待つ受取人が本物か模倣かを確かめるために。




