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『偽りの封印と灰色の伝票』 ~元特務潜入員の配達員は、改ざんされた記録で巨悪を暴く~  作者: NN
灰のあとに残る帰り道編

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診療所の温もり

 王都を出てから数日後、僕はグラキエスの診療所へ戻ってきた。雪はまだ残っている。けれど、以前のような張りつめた静けさはなく、窓の向こうからは子どもたちの声が聞こえていた。痛みで泣く声ではない。食事の順番を争う声と、壊れた玩具を取り合う声だ。


 その音を聞いた時、僕はようやく王都で終わったことを実感した。


「立ったまま眠らないでください」


 背後から、エリーゼの声が飛んできた。


「眠っていない」


「目を閉じたまま返事をする人は、だいたい眠っています」


「これは考え事」


「考え事をしながら壁にもたれて、三分動かなかった人が言う台詞ではありません」


 エリーゼは、僕の手に温かい茶を押しつけた。


 湯気には薬草の匂いが混じっていた。


「飲んで、食べて、寝る。順番は守ってください」


「僕は患者じゃない」


「患者は、医師の前でそう言います」


 彼女は穏やかに笑った。


 その笑顔には、王都の法廷でも地下炉でも見なかった強さがある。敵味方を問わず、目の前の命を治す。それが、エリーゼの決めた法だった。


 診療所の奥では、負傷者たちが少しずつ日常を取り戻している。


 腕を吊っていた少年は片手で木札を削り、脚を痛めた元兵士は包帯の交換を手伝っている。帝国の兵だった男と王国軍の兵士が同じ鍋から食事を取る光景も、もう珍しくなかった。誰がどの組織に所属していたかは、治療台の上では意味を持たない。熱があるか、傷が開いているか、明日の朝まで生きられるか――エリーゼが見ているのは、それだけだった。


「ユーリ、これ運ぶ」


 廊下の先から、パックが大きな鍋を抱えて歩いてきた。


 白い毛並みに、湯気が絡んでいる。


「パック、それはどこへ?」


「おなか、すいた人。ぜんぶ」


「全員分あるの?」


「ある。パック、つくった」


 魔導バッグの整理封印は、まだ修復されていなかった。口を開けても荷物は順番に出てこず、内側の仕切りも一枚失われている。


「バッグ、もう、きれい、ならばない」


 パックは鍋を置き、空になったバッグの口を覗き込んだ。


「困るね」


「困る。でも、ひと、先。パック、えらんだ」


 彼女は、崩れたバッグを撫でた。失った道具を惜しむ手つきだったが、次に鍋の蓋を開ける時には、もう顔を上げていた。


 鍋の中身は、野菜と豆を煮込んだものだった。


 少し塩が強いけれど、冷えた身体にはちょうどよかった。


 パックは、僕の顔を見てから、鍋の蓋を三回叩いた。


「ユーリ、食べる。元気、出る」


「分かっているよ」


 僕が笑うと、パックは満足そうに頷いた。


 食べている間、パックは何も訊かなかった。ただ、僕の皿が空になるたびに豆を追加した。それが、彼女なりの心配の伝え方だった。


 診療所の外では、金属を叩く音が響いている。


 ヴォルクが魔導装甲車を修理していた。


「まだ動くの?」


 僕が外へ出ると、ヴォルクは工具を握ったまま振り返った。


「動かす」


「王都まで戻るのに?」


「戻る必要がある。証言の護送と、王都側の調整だ」


 魔導装甲車の側面には地下炉で受けた傷が残っている。表面の装甲はへこみ、魔力管の一部は黒く焼けていた。ヴォルクが新しい管を差し込む横で、パックは工具箱の中身を確認している。


「その管、右じゃない?」


「左だ」


「左、ちがう。ひだり、ひび」


 ヴォルクの手が止まった。


 少し前なら、彼はパックの言葉を遮って自分で説明していただろう。だが、今は違う。


「どこが違う」


 ヴォルクが訊く。


 パックは管を指差し、工具箱の底から別の部品を取り出した。


「ここ。雪、入る。あとで、止まる」


 ヴォルクはしばらく部品を見た。


「……そうか」


 彼は、パックの選んだ管へ交換した。


「よく見ている」


「パック、見る」


「そうだな。お前が見た」


 短い会話だった。けれど、ヴォルクが最後までパックの言葉を聞いたことに、僕は気づいていた。言葉の形が違っても、伝えたいことまで違うわけではない。


 パックは、少しだけ胸を張った。


 魔導装甲車の後ろでは、ガウェインが王都へ戻るための書類を確認している。


 机の上には捜査手帳、採取した物証の一覧、証言の時刻を刻んだ証拠札が並んでいる。王都へ戻れば、公開裁判の手続きと救護部門の再編が待っている。


 銀札は返納したままだった。その代わり、王都の記録院から期限付きの暫定札が発行されている。現場指揮権は停止されたが、物証の保全と時刻照合に限って、フィーナの鑑定印を添えれば捜査隊名義を使える札だ。


「つまり、まだ捜査官なんだ」


「正式な復帰ではない。だが、証拠を残す仕事は続く」


「ガウェイン、休んでいる?」


「休みは、記録が終わってからだ」


「それは休めない人の言い方だね」


「君に言われたくない」


 ガウェインは手帳を閉じた。


「王都へ戻る。フィーナも同行する。君はどうする」


「僕も戻る」


「診療所に残る選択肢もある」


「分かっている」


「なら、なぜ戻る」


 僕は、王都から届いた任務書を見せた。


 差出人のない封書。


 王家と影班、二つの印が重なった封蝋。


「新しい任務がある」


「内容は?」


「北区へ荷物を届ける。その途中で、記録に残らない場所を確認する」


「それは配達員の仕事か?」


「配達員だから行ける場所がある」


 ガウェインは、僕の顔をじっと見た。


「まだ、気弱なふりを続けるつもりか」


「必要なら」


「必要でない時は?」


 その問いに、答えが出なかった。気弱なふりは僕を守った。無能に見えれば誰も僕の判断を警戒しないし、配達員として怒鳴られていれば影の仕事を見抜かれずに済む。けれど、その顔を続けるほど、助けを求めることまで下手になっていた。


「ユーリ」


 診療所の裏口から、ミーシャが出てきた。


 手には、洗った包帯の籠を持っている。


「それ、王都の人が言う“安全”でしょ」


「何が?」


「必要なら気弱なふりをするって話。こっちは雪が降ったら死ぬんだけど、必要じゃない時まで震えてるふりをする人は、もっと危ない」


 ガウェインが、わずかに眉を上げた。


 ミーシャは気にせず続ける。


「あなた、最初にここへ来た時から、周りの人を見すぎてた。誰が嘘をついてるか、どこに逃げ道があるか、ずっと見てた」


「そんなことは」


「否定しても無駄。私は、泥と靴跡を見るのが仕事だから」


 ミーシャは、僕の靴底を指差した。


「気弱な人の歩き方じゃない。転ばない場所を、先に選んでる」


 僕は、自分の足元を見た。


 王都の石畳、診療所の雪、地下炉の灰。どこにいても、僕は危険の少ない場所を探して立っていた。それは前世から続く、身体の選択だった。


「あなたはもう、気弱なふりだけをしなくていい」


 ミーシャの声は、明るいままだった。


 だからこそ、逃げられなかった。


「怖い時は、怖いと言えばいい。助けてほしい時は、助けてって言えばいい。強いふりだけして、勝手に死にそうになるのは迷惑」


「……耳が痛い」


「耳だけ?」


「胸にも」


 ミーシャは、ようやく笑った。


 エリーゼが診療所の窓から顔を出す。


「ミーシャ、包帯を干す仕事は終わりましたか?」


「今終わります!」


 彼女は籠を抱え直した。


「ユーリ、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、それから王都へ行って」


「命令?」


「お願い。聞かないと、次に来た時に薬を十倍苦くする」


「それは命令より怖いね」


 診療所の中から、パックの声が響いた。


「ユーリ、寝る。パック、見張る」


「パックまで?」


「みんな、そう思っている」


 ガウェインが、真顔で言った。


 僕は、反論を諦めた。


 夕方、エリーゼが古い記録袋を抱えて僕の前へ来た。


「あなたに見せるものがあります」


 中に入っていたのは、王家の記録庫から見つかった十四年前の救護名簿だった。


 薬品伝票に記された、母が使っていた偽名。


 その名前の横に、崩落の翌日の生存確認と、北部旧救護所への移送記録が残っている。


「母は……生きている?」


「生きています。今も別名で薬を作っている。公爵家に見つからないよう、記録から消されたのです」


 母がなぜ僕を王都へ残したのかは、まだ本人に訊いていない。


 けれど、死んだと思っていた人へ、会いに行ける道は残っていた。


 診療所の倉庫では、左脚を引く少女が包帯の数を数えていた。


「アリーシャ?」


 彼女は顔を上げ、短く頷いた。


「帝国へ送還されない。セリアの証言と、救護区画で人を逃がした行動が認められた。公開尋問まで王国の保護下に置かれる」


 ただし、保護下に置かれたことは、自由に武器を持てるという意味ではない。左脚の治療を続けながら、王国特務捜査隊が任務ごとに発行する観測許可を受けた時だけ遠距離観測を補助できる。人へ向けて撃つ権限はなく、魔導弩を使う場合も許可札に記された記録杭や導路などの装置だけが対象になる。近接戦闘と長時間の移動は禁止され、クリスが監督役として同行することになった。


「罪、消エナイ」


「そうだね」


「デモ、戻ラナイ。殺ス場所、戻ラナイ」


 アリーシャは、包帯を一つずつ棚へ並べた。


「私、ココ、手伝ウ」


 送還でも免罪でもない。彼女は、命令だけで人を殺す場所へ戻されず、自分の選択を証言する場所に残った。


 王都へ戻る前の夜、僕は診療所の小さな部屋で眠った。


 夢の中に赤い魔力路は現れなかった。誰かを置いていく計算も、崩れる施設の音もない。


 朝、目を覚ますと、枕元に食事が置かれていた。


 皿の横には、ミーシャが書いた短い紙がある。


『帰ってくる時は、気弱なふりを一つ減らして』


 僕は、その紙を任務書の裏へしまった。短い言葉なのに、王都へ戻る理由を忘れないための札のように思えた。


 グラキエスの診療所を出る時、エリーゼが手を振った。パックは魔導装甲車の計器を三回叩き、ヴォルクは直った管を確認している。ガウェインが王都へ向かう道を見定める横で、僕は配達員の鞄を背負い、朝の雪へ足を踏み出した。


 今度は、誰にも知らせず一人で走るためではない。戻る場所を知っている人間として、仲間のいる道を歩くためだった。


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