別れの受領票
アーノルドたちが王都を出る朝、空は薄い灰色だった。雪ではない。地下炉が停止した時に舞い上がった灰が、まだ遠くの空に残っているのだ。それでも、東の端には淡い光が差していた。
診療所の前には、武器を積まない馬車が三台並んでいる。
黎明の瞳の生存者たちは、王国軍の監視を受けながら辺境へ戻ることになった。軍事部門の解体、武装の放棄、行動記録の提出、そしてアーノルドの公開証言。条件は厳しい。けれど、孤児院と診療所を残すためには必要なものだった。
馬車の横で、レヴィが折れた魔導長剣を眺めている。手にあるのは柄と、短くなった刃だけだ。修復できるかどうかは、辺境へ戻ってから決めるらしい。
「それ、直るの?」
僕が訊くと、レヴィは顔を上げた。
「魔導炉があれば直る。なければ、別の剣を探す」
「大切な剣じゃないの?」
「大切だった」
レヴィは、刃の亀裂へ指を這わせた。
「だが、折れた剣を神棚に置く趣味はない」
「神棚なんて、この世界にあるの?」
「知らん。お前が変なことを言っただけだ」
いつものように、彼は僕を睨んだ。けれど、以前のような敵意はなかった。前世の影を重ねていた頃のレヴィは、僕を見るたびに過去の裏切りを確かめていた。今は、目の前にいる僕を見ている。その違いが、分かるようになっていた。
「ユーリ」
父が診療所の扉から出てきた。杖をついている。灰印の拘束具はもうない。その代わり、胸元には火傷の跡が残っていた。
「歩いて大丈夫なの?」
「医師は、馬車までなら許した」
「馬車から先は?」
「休みながら進む」
「辺境まで、どれくらいかかると思っているの」
僕が思わず強い声を出すと、父は少し目を丸くし、それから困ったように笑った。
「心配しているのか」
「当たり前だよ」
「なら、次に会った時もそう言ってくれ」
「次に会える前提で話さないで」
「前提にしなければ、会う努力をしなくなる」
父の言葉が胸に残った。帰る場所を決めてから行く――あの時、僕はレヴィにそう言った。今度は、父がその約束を思い出させている。
「お前は王都に残るのか」
「王国から、新しい任務を受けた。配達員として働きながら、特務捜査隊と影班の連絡をする。ただし、以前の影班とは違う」
地下炉事件の後、最高司令の印だけで潜入員を処分する権限は停止された。影班に残されたのは、表へ出せない情報を受け取り、別の記録へ渡す連絡機能だけだ。表の証拠を扱う特務捜査隊と、現場で情報を拾う配達員。今は、二つの役割を一つの命令で動かさないことが決められている。
王立輸送ギルドも、事件後に王都物流局の監督下へ組み替えられた。荷物を扱う現場はギルド、受領記録を管理する役所は物流局。建物と印を一部共有しているため、札によって二つの名前が残ることがある。
僕は内ポケットの任務書へ触れた。
「まだ、配達員を続けるの?」
フィーナが、少し驚いた顔で訊いた。
「怒鳴られるのも、書類を落とすのも、もう慣れた」
「慣れなくていいと思います」
「でも、配達員なら王都中を歩ける。記録の届かない場所にも、荷物を届けられる」
それが、僕の選んだ帰り道だった。王都に残る理由は、罪滅ぼしだけではない。父が辺境へ戻るからでもない。法が届かない場所へ記録を運ぶためだ。配達という仕事なら、誰かの話を聞き、その手元へ物を届けられる。そして必要なら、影として別の仕事もできる。
「ユーリ」
レヴィが、折れた剣を腰へ戻した。
「俺は、お前を兄貴とは呼ばない」
「分かっている」
「義兄弟だという記録があっても、俺の記憶にない時間を押しつけるな」
「押しつけない」
「前世の相棒だったから、今世でも兄貴として振る舞えると思うな」
「振る舞っているつもりはないけど」
「その顔が、すでに兄貴面だ」
レヴィは、僕の額を指で小突いた。
痛かった。
でも、少しだけ笑えた。
「次に会う時までに、兄貴面を磨いておけ」
「呼ぶ気はないのに?」
「呼ぶとは言っていない」
「じゃあ、何のために磨くの」
「俺が認めた時、みっともない顔をしていたら困る」
それは、レヴィなりの約束だった。兄と呼ばない。けれど、次に会うつもりではいる。
僕は手を差し出した。レヴィは一度それを見て、握らずに僕の肩を叩いた。その手が離れるまでの短い間、僕たちは何も言わなかった。
「握手は、別れを決めた人間がするものだ」
「もう別れるのに」
「また会う人間は、再会の約束をする」
「だから、これは預けておく」
レヴィは折れた魔導長剣の柄を、僕へ差し出した。
「持っていけないの?」
「辺境では、今の俺に剣は必要ない。武装解除の条件もある」
「それなら、どうして僕に」
「次に会う時、返せ」
柄は、まだ少し温かかった。
「なくしたら?」
「お前の配達員としての給料から引く」
「高そうだね」
「非常に高い」
僕は柄を受け取った。
折れた剣は、もう武器ではない。それでも、前世の影と今世の約束をつなぐには十分な重さだった。
馬車の中から子どもの声が聞こえた。孤児院の子どもたちが辺境の診療所へ移るために乗っており、王国の監督下へ移されるまでの間はアーノルドたちと同じ道を進むことになっている。
パックが、馬車の荷台へ食料を積み込んでいた。
「パック、入れすぎじゃない?」
「ひと、たべる。パック、つくる」
「食べ物を作るのは、辺境へ着いてからにして」
「いま、つくる」
そのまま鍋を抱え、ヴォルクの後ろへ走っていった。
パックは、こちらの言葉を理解することには困らない。話す時だけ、覚えた単語を短く切る。以前より返せる音は増えていたが、長い文になると、まだ耳と口が別々に迷う。
ヴォルクは魔導装甲車の点検をしている。
王都に残る必要のない者は辺境へ戻る。軍事部門は消え、救護部門は形を変える。その間を、彼ら自身が歩いていくのだ。
アーノルドが馬車へ乗り込む前に、僕の手を掴んだ。
「ユーリ」
「なに?」
「今度こそ、自分で帰る場所を選べ」
「父さんがいる場所じゃなくて?」
「私がいる場所を、お前の帰る場所にする必要はない」
父の指は弱かった。それでも、離そうとしなかった。
「王都でも、辺境でも、別の場所でもいい。お前が戻りたいと思った場所へ戻れ」
「帰る場所が、二つあってもいい?」
「構わない」
「三つでも?」
「お前が責任を持てるなら」
父の手が、ゆっくり離れた。
「責任は、持つよ」
僕は答えた。
馬車が動き出す。レヴィは最後まで手を振らなかったけれど、窓から身を乗り出し、僕の持つ折れた剣の柄を確認していた。アーノルドは窓の向こうで一度だけ頭を下げ、僕も頭を下げた。
馬車が王都の門を抜ける。
その背中が小さくなるまで、僕は動かなかった。
「ユーリ」
ガウェインが、隣へ立った。
「見送ったな」
「はい」
「寂しいか」
「寂しいです」
僕は、正直に答えた。
「でも、戻る場所を決めてから出ていったので」
ガウェインは、わずかに笑った。
「なら、次の仕事へ向かえる」
王都の門の外には、朝の光が広がっている。僕は制服の内側へ折れた剣の柄をしまい、誰もいない道へ一歩踏み出した。




