声のない記憶
声が聞こえた。
耳からではない。頭蓋の内側で、誰かが直接しゃべっている。
僕は壁に背を預けたまま、地下階段の前にいる男を見た。男の魔導銃が、ミーシャの背後にいる子どもへ向いている。銃口の周囲に浮かぶ魔力の輪。安全封印は二重。発射までの遅延は一・二秒。男の右肩が下がっている。引き金を引く前に、左足へ重心を移す癖がある。
そこまで見えているのに、僕の身体は動かなかった。
「情けねえな」
また声がした。
怒鳴っているわけではない。呆れている。長い付き合いの相手へ向けるような、乱暴で遠慮のない声だった。
「俺なら、もう三人は倒してる」
その言葉に、胸の奥が反発した。
俺なら。
誰だ。
僕の中に、別の人間がいるのか。
違う。
その声の癖を、僕は知っていた。短い言い方。敵を数える時に、感情を切り捨てる呼吸。危険な場所で冗談を言い、恐怖を隠すために笑う癖。
知らない声ではない。
忘れていた僕の声だ。
崩れた建物の中で、粉塵を吸いながら誰かを怒鳴った声。暗い水路の奥で、仲間へ退路を指示した声。燃え上がる扉の前で、自分だけが戻ると決めた声。
前世の記憶が、映像ではなく身体の感覚として戻ってきた。
濡れた石の冷たさ。
指先に残る金属の油。
背中へ迫る熱。
左の耳だけ聞こえにくくなる爆発音。
そして、崩落する建物の中に、誰かを置いていった記憶。
『先に行け』
あの時、僕はそう言った。
誰かが返事をした。
『お前は戻るんだろうな』
戻るつもりだった。
けれど、戻れなかった。
瓦礫が道を塞ぎ、火が階段を呑み込み、通信は途切れた。相手の顔は思い出せない。ただ、置いて逃げたという感覚だけが、今も胸の奥に残っている。
僕は、前世で潜入と救出を担当していた。
敵の拠点へ入り、民間人を逃がし、要人を生かして連れ出す。そのために、敵の足音と武器の角度を覚えた。殺すためではなく、殺さずに生き残るための技術だった。
それを、僕は忘れていた。
今の僕が気弱な配達員を演じていたのも、ただの潜入任務のためではない。怒鳴られることを避け、危険を見ないふりをし、誰かに期待されないようにしていた。
そうすれば、もう誰も救えなくても、失望されずに済むと思っていた。
「迷ってる場合か」
僕の中の声が、吐き捨てる。
その声に、僕は初めて返した。
「……子どもがいる」
「見えてる」
「僕の身体は、前みたいに動かない」
「知ってる」
「敵が多すぎる」
「だから、順番を決めろ」
会話ではない。
記憶の中に残っていた判断が、僕の思考へ戻ってきているだけだ。
僕は息を吸った。
敵の位置が、線になった。
正面の三人。薬棚の霧で視界が乱れている。先頭の男は右手で魔導銃を持ち、左手で目を覆っている。二人目はシアンを追っているが、足が薬液で滑る。三人目は扉の外へ合図を送ろうとしている。
地下階段の男は、孤立している。
孤立させられたのではない。
敵自身が、子どもを狙うために前へ出た。
「ミーシャ」
僕は低く呼んだ。
彼女が振り返る。
「子どもたちを、右の壁沿いに下ろして。階段の三段目で止まって」
「そこに敵がいるよ」
「三段目までなら、僕が届く」
ミーシャは僕の顔を見た。
僕がいつもしている、怯えた配達員の顔ではなかったのだろう。
「……わかった」
彼女は子どもたちを階段へ押し込んだ。
男の魔導銃が動く。
発射まで一・二秒。
僕は床に落ちた匙を蹴った。
金属の匙が男の手首へ当たる。狙いがわずかに逸れ、魔導弾が階段の壁へ食い込んだ。封殺の魔力が広がり、壁の一部が白く凍る。
男がこちらを向いた。
「配達員風情が!」
声に怒りが混じる。
怒っている人間は、動きが読みやすい。
男が踏み込んだ瞬間、僕は横へ滑った。足元の封印輪を避け、壁へ手をつく。身体は重い。左腕が痛み、視界の端が暗くなる。
それでも、敵の右足が次にどこへ出るかはわかった。
男の肩を押す。
力ではなく、角度を変える。
男は階段の手すりへぶつかり、魔導銃を取り落とした。僕はその銃を拾おうとしたが、背後から別の魔導弾が飛んできた。
シアンが短剣を投げた。
刃が魔導弾の封印輪へ触れ、弾道をわずかに逸らす。弾は床をえぐり、診療所の地下へ続く階段を崩した。
「ユーリ、早く!」
シアンが叫ぶ。
僕は魔導銃を掴み、男の腕を引いた。
安全封印に触れる。
熱が伝わった。
この魔導銃は、帝国式の封殺弾を装填している。安全封印を外せば、次の発射で周囲の魔力を奪う。患者のいる診療所では使えない。
だが、今の僕には銃そのものが見えていた。
刻印の順番。封印の結び目。解除用の小さな金属片。
前世の僕は、魔導兵器を専門に扱っていたわけではない。それでも、兵器は兵器だ。壊すための仕組みには、必ず壊されないための仕組みがある。
「離せ!」
男が腕を振り上げた。
僕は身体を低くし、肘を脇へ差し込んだ。男の重心が崩れる。肩の関節が外れる方向へ力を流し、魔導銃を奪う。
痛みで男が叫んだ。
その声に、子どもが泣いた。
僕の手が止まる。
あの時の感覚が、また重なった。
崩壊する建物。
泣き声。
置いていった誰か。
身体の奥で、別の判断が囁く。
『泣き声を無視するな』
僕は振り返った。
階段の三段目で、ミーシャが一番小さな子どもを抱えている。その上から、二人目の暗殺者が魔導銃を向けていた。
距離は四歩。
敵の指は引き金へかかっている。
僕が走れば、間に合わない。
魔導弾を避ければ、子どもに当たる。
なら、撃たせない。
僕は手にした魔導銃を見た。
この銃には、敵の封殺弾が入っている。
安全封印は、右側面に三つ。
最初の封印を外すと、発射準備が短くなる。
二つ目を外すと、魔力の流れが不安定になる。
三つ目を外すと、装填された魔導弾は発射されるまで解除できない。
僕の指が、勝手に動いた。
前世の手順が戻ってくる。
三。
二。
一。
敵が引き金を引くより早く、僕は魔導銃の側面にある安全封印へ爪を差し込んだ。
小さな金属音が鳴る。
カチッ。
安全装置が、外れた。
魔導銃の奥で、青黒い魔力が目を覚ます。
僕は自分の手にある武器を見つめた。
それが、次に何をするための音なのか。
身体だけが、知っていた。




