消される患者
外の声は、ここに患者がいることも、中に何人いるかも気に留めず、ただ「盗難犯を引き渡せ」と命じていた。
僕は床に置いたシチューの椀を見つめた。まだ湯気が残っている。床板へ広がった汁が、暖炉の赤い光を歪めていた。
「エリーゼ先生」
ミーシャが小声で呼んだ。
「裏口、開ける?」
「駄目よ。裏にもいるわ」
エリーゼは窓を見ずに答えた。
その判断に迷いがない。外の人数を直接見ていなくても、魔力の流れと雪の沈み方から包囲を読んでいるのだろう。
扉の向こうで、誰かが雪を踏んだ。
一人ではない。
右に三人。正面に四人。屋根の上に二人。診療所の裏には、さらに別の足音がある。
僕には、聞こえていた。
だが、聞こえたことを言えば、普通の配達員ではないと疑われる。黙っていれば、患者が危険になる。
「外に、十二人以上います」
僕が言うと、シアンが振り返った。
「ユーリ、どうして――」
「耳がいいんです」
苦しい言い訳だった。
エリーゼは疑問を口にしなかった。代わりに、寝台の奥にいた子どもたちへ声をかける。
「ミーシャ、地下貯蔵室へ案内して。歩ける子から順番に。咳をしている子は毛布で口を覆って」
「先生は?」
「私は残るわ」
「残るって、何をするの?」
「患者を診るの」
エリーゼは淡々としていた。
「相手が王国兵でも、帝国兵でも、暗殺者でも、怪我をしたら診る。それが医者の仕事よ」
外で低い魔力音が膨らんだ。
「伏せて!」
僕が叫ぶより早く、パックが寝台を蹴った。
厚い木製の寝台が横倒しになり、患者たちの前へ壁を作る。その直後、窓を破って魔導弾が飛び込んできた。
ガラス片が散った。
弾は壁へ食い込み、青黒い魔力の亀裂を走らせる。命中した場所から、冷気が噴き出した。
帝国式の封殺弾。
人を撃つためではなく、建物の中の魔力と熱を奪うための弾だ。診療所の暖炉が弱まり、息を吐くたび白い霧が生まれた。
「患者を狙ってる!」
シアンが短剣を抜いた。
彼の動きは、ギルド職員のものではなかった。腰を落とし、窓と扉の射線を同時に避けている。左手も、何も隠さず膝の上に置かれていた。
外の指揮官が叫ぶ。
「中にいる者は全員、接触者だ。男だけではない。子どもも、医師も、獣人も残すな」
胸の奥が冷えた。
僕たちを追ってきた連中は、心臓を取り戻したいわけではない。
箱を見た人間を、シアンと話した人間を、僕を治療した人間を、記録から消すつもりだ。
「ヴォルク隊長は?」
ミーシャが尋ねた。
エリーゼが窓の隙間から外を見た。
「外で戦っている。けれど、こちらへ回れる人数ではないわ」
遠くで魔導銃の発射音が連続した。雪壁の向こうから、ヴォルクの部下が応戦している。しかし、敵は正面から攻めていない。診療所を囲み、警備隊を外へ引き離している。
目的は最初から、建物の中にいる僕たちだった。
「地下へ行きましょう!」
ミーシャが子どもの手を引いた。
僕は周囲を見た。
診療所の中央にある暖炉。西側の薬棚。廊下へ続く細い扉。地下貯蔵室へ降りる階段。屋根裏へ通じる点検口。
敵は三方向から入ろうとしている。扉は正面班、窓は右班、屋根は上からの侵入役。裏口の班は、逃げた者を待つ役だ。
正面から押し込まれたら、地下への階段が塞がれる。
「ミーシャ、子どもたちを先に。階段を下りたら、右の壁沿いに進んで」
「どうして右?」
「左側は薬品棚の配管が通っている。魔力が漏れているから、敵が封殺弾を撃てば爆ぜる」
言ってから、しまったと思った。
ミーシャは驚かなかった。
「わかった。右ね」
彼女は子どもたちを連れて、地下への扉へ走った。
シアンが僕の横へ来る。
「配管のことまで、見えてるのか?」
「診療所は入る前に見ました」
「そんな時間、なかっただろ」
「シアン」
彼の言葉を遮った。
「今は僕を疑う時間じゃない」
「疑ってるんじゃない。お前が何を隠してるのか、怖いんだ」
シアンの声が震えた。
その直後、正面の扉が内側へ吹き飛んだ。
魔導弾ではない。扉の封印を逆流させ、蝶番だけを破壊したのだ。木片が飛び、エリーゼが患者を庇って床へ倒れる。
「一班、侵入!」
黒い外套の男が三人、煙の向こうから入ってきた。顔は覆面で隠され、胸元に所属章はない。魔導銃の銃口には消音用の封印筒が取り付けられている。
殺すことに慣れた装備だった。
僕は床に落ちた薬瓶を蹴った。
瓶が男の足元で割れ、透明な液体が広がる。薬液そのものに毒はない。しかし、床へ触れた瞬間、暖炉から伸びていた微弱な魔力を反射した。
黒い外套の男が足を滑らせる。
シアンが踏み込み、短剣の柄で魔導銃を叩き落とした。男の手首が跳ね、銃口が天井を向く。二人目がシアンへ魔導弾を向けた。
僕は棚を引いた。
薬瓶が一斉に倒れ、床へ転がった。シアンと男の間に透明な瓶の壁ができる。魔導弾は瓶を割り、薬液を霧に変えた。
「目を閉じて!」
エリーゼが叫ぶ。
薬液は刺激性が強い。敵だけでなく、こちらも動けなくなる。だが、外套の男たちは目を閉じるのが遅れた。彼らは患者を見ていた。誰を最初に消すか選んでいたからだ。
僕はその隙に、倒れた寝台を押した。
重い。
左腕が痛み、傷口から熱が走る。それでも寝台は数十センチ動いた。地下階段の前に通路が生まれる。
「ミーシャ、今!」
地下から返事はない。
嫌な沈黙だった。
裏口の班が、先に地下へ回ったのかもしれない。
僕は廊下へ走った。だが、足を踏み出した瞬間、天井から魔導弾が落ちてきた。
屋根の上の敵だ。
僕は身体をひねり、弾を避けた。弾は床に当たり、白い封印の輪を広げる。輪の中に入ったものから、魔力が抜けていく。
足が重くなった。
肺が冷たい。
前世なら、すぐに射線を外していた。今の僕は、足を滑らせて壁へ肩をぶつけることしかできない。
「ユーリ!」
シアンが魔導銃を拾い、屋根へ向けて撃った。
発射音が一つ。
弾は屋根を貫いたが、敵を倒すには至らない。逆に、彼の位置が知られた。
「馬鹿!」
僕はシアンを引いた。
次の魔導弾が、彼のいた場所へ突き刺さる。
外の指揮官が、冷たく言った。
「封印を残せ。証言はいらない。人間は消せ」
その言葉が、耳の奥へ残った。
人間を消す。
証拠が残れば、誰かが疑う。疑う人間がいなければ、どんな記録でも正しいことになる。
僕は、目の前の敵を見た。
手が震えている。
怖い。
魔導銃を持った男たちも、患者も、子どもたちも、同じ建物の中にいる。僕が戦えば、誰かを巻き込む。戦わなければ、誰かが殺される。
「ユーリ、地下、駄目!」
ミーシャの声がした。
地下階段の途中に、黒い外套の男が立っている。子どもたちの前に回り込んでいた。
男が魔導銃を向ける。
ミーシャは小さな身体で子どもを庇っていた。エリーゼは患者から離れられない。シアンは正面の三人を止めている。パックは倒れた寝台を押さえ、外から入る雪を防いでいた。
誰も、僕を見ていない。
誰も、僕に命令していない。
だからこそ、僕が選ばなければならなかった。
僕は壁に背を預けた。
視界が狭くなる。魔導弾の軌道も、敵の足の向きも、逃げ道も、わかる。わかるのに、身体が動かない。
腕の痛みが、心臓の鼓動に合わせて強くなる。
遠くで、誰かが三度、壁を叩いた。
――トン、トン、トン。
その音に重なるように、頭の中で知らない声が笑った。
「おい、情けねえな」
子どもへ向けられた魔導銃の安全封印が、視界の中で赤く浮かび上がる。
声が、もう一度響いた。
「身体を貸せ」




