国境の診療所と、温かいシチューの味
ヴォルクが拾った身分証は、白銀の外套の内側へ消えた。
「監視所へ戻る。捕虜を縛れ。ユーリ・クロムウェル、お前は医者に見せる」
「僕は歩けます」
「腕から血を流している人間の言葉ではない」
言われて初めて、左腕の痛みを意識した。魔導弾がかすめた場所から、赤い線が手首へ向かって伸びている。傷は浅い。だが、魔力の残滓が皮膚の下で細かく弾けていた。放置すれば、傷口から体内へ入り込む種類の魔導弾だ。
「こいつを輸送車へ」
ヴォルクが命じると、白い毛に覆われた小柄な獣人の少女が走ってきた。雪国仕様のポンチョの下に、補給用の魔導バッグをいくつも下げている。丸い耳が風に揺れ、両腕には薬箱が抱えられていた。
「こいつはパック。白熊系の獣人族だ。人間語はまだ片言だが、雪道と荷物の扱いなら、うちの隊でいちばん頼りになる」
「パック、傷、見る!」
「見なくていい。僕は――」
「ユーリ、黙る。血、赤い。痛い、隠す、駄目」
片言だったが、意味は明確だった。
パックは僕の言葉を理解している。理解したうえで、人間語を話す時だけ単語を短く切っている。まだ人間語を完全には話せず、長い言葉をつなぐ練習中なのだ。彼女は僕の返事を待たず、薬箱から白い布を取り出した。
「隊長、診療所、近い。監視所、屋根、穴。雪、入る」
「わかった。パック、先導しろ」
「了解!」
パックは胸を張り、すぐに雪原へ向き直った。
僕とシアンは、辺境警備隊の車へ乗せられた。
向かいの席に座った彼は、左手を右手で覆っていた。僕が視線を向けるたび、彼は窓の外へ顔を向けた。
「監視所には行かないのか」
「パックが診療所と言っただろ」
「ヴォルク隊長は許可したのか?」
「許可したから車が動いている」
シアンの答えは早かった。
早すぎる。
十分ほど進むと、雪丘の陰に低い建物が現れた。石と古木で組まれた診療所だった。煙突から細い煙が上がり、窓の内側には橙色の光が灯っている。
パックが扉を叩いた。
「エリーゼ、開けて! 怪我人、二人。兵士、いっぱい!」
「怪我人が二人なら、兵士は外で雪を払ってから入っておいで」
内側から、落ち着いた女の声が返った。
扉が開く。
五十歳前後の女が立っていた。白い髪を後ろで束ね、厚い前掛けの上から医師用の外套を羽織っている。目元には柔らかな皺があったが、その視線は僕の腕、シアンの足元、背後の捕虜を順番に見ていた。
「エリーゼ先生、王都の人。怪我、魔導弾」
「説明は中で。撃つのは好きにしなさい。でも縫う時は動かないで」
エリーゼは僕の腕を掴んだ。
指先は温かかった。温度を確かめるように手首へ触れ、傷口へ顔を近づける。
「帝国式の残滓ね。よく雪で浮かせたわ。普通なら、今ごろ腕が痺れている」
「たまたまです」
「たまたまで、こういう傷を避ける人は、たいてい避ける理由を隠しているのよ」
言葉は穏やかだった。
だから、否定できなかった。
診療所には、兵士も住民も同じように寝かされていた。誰が王国兵で、誰が帝国側の人間かを問う気配はない。
エリーゼは僕を椅子へ座らせ、魔導弾の残滓を細い針で一つずつ抜いた。
針先が皮膚へ入るたび、腕の奥が冷たくなる。痛みをこらえるため、僕は視線を壁へ逃がした。
羽根形の印が描かれていた。
煤で描かれた羽根は、羽先が右下へ流れている。僕が王都で見つけた羽根の紋様と、よく似ていた。黎明の瞳の印に見える。シアンも気づいたらしく、椅子の背がわずかに軋んだ。
「その印は、黎明の瞳のものですか」
僕が尋ねると、エリーゼの針が止まった。
「そう思う人は多いわね」
「違うのですか?」
「十四年前から、ここにある」
エリーゼは壁の羽根を見た。
「十四年前、古代炉の事故で辺境の集落が焼けた。救援隊は住民を全員連れ出せなかった。残された子どもたちが吹雪の中で道を失わないように、壁や岩へ羽根の印を描いたのよ」
「救援隊は、王国軍ですか?」
「最初はね」
エリーゼは淡々と答えた。
「途中で命令が変わった。救援を続けるな、危険区域を封鎖しろ、生存者の数を確定させろ。そういう命令だったわ」
縫合糸が、皮膚を引いた。
「私は従わなかった。所属が違うから治療するなと言われた患者を、診療所へ運んだ。軍を辞めたのは、その翌日よ」
シアンの左手が、袖口の中で止まった。
シアンは、アーノルドの名を知っていることを、もう隠していなかった。けれど、「十四年前」と「救援隊」がつながった瞬間、彼は初めてエリーゼの顔を正面から見た。
「その救援隊に、アーノルド・クロムウェルは?」
部屋の空気が変わった。
暖炉の薪が崩れ、火の粉が一つ跳ねた。
エリーゼは僕の腕に包帯を巻きながら、すぐには答えなかった。
「どうして、その名前を知っているの?」
「王都の記録に残っています」
「王都の記録は、人が見たものを全部は書かないわ」
エリーゼは結び目を締めた。
「私は、彼が最後まで戻ろうとしていたことを覚えている。部隊が撤退した後も、彼は子どもを探して雪の中へ戻った。あの羽根を描いたのも、彼の部下だった」
僕の指先が震えた。父が生きているという話ではない。ただ、王都の記録にはなかった一時間の中で、誰かが戻ろうとしたという話だった。
「ユーリ、食べる」
パックが木椀を差し出した。
湯気の立つシチューだった。芋と根菜、塩漬け肉。香草の匂いがする。逃走中に食べるには、あまりに普通の食事だった。
「今は食欲が――」
「食べる。元気、出る」
「傷の処置が終わったばかりよ。食べなさい」
エリーゼにも言われ、僕は椀を受け取った。
匙を口へ運ぶ。熱が舌に触れ、喉を通り、胃の底へ落ちていく。
温かい。
その感覚に、身体が勝手に反応した。肩の力が抜け、息が深くなる。自分がどれほど空腹だったのか、初めてわかった。
シアンが小さく笑う。
「うまいだろ。ここのシチューは、逃げてきた奴ほどよく食う」
「逃げてきた人間を、何人も見てきたんですか」
「見てきたから、食わせてるのよ」
エリーゼが答えた。
「腹が空いている人は、自分の無実を説明する前に、相手を殴る。食べさせれば、少しだけ考える時間ができるでしょう」
僕の配達鞄が、診察台の下に置かれていた。戦闘の衝撃で縫い目が裂け、内側から細い木片が一本出ている。心臓を運んだ箱の一部だ。王都を出てから、いつ入り込んだのか覚えていない。
ミーシャと呼ばれた少女が、濡れた布でその木片を拾い上げた。
明るい顔立ちで、患者の薬を配っていた少女だ。大人の会話へ口を挟まず、しかし聞くべきことは一つも逃していない目をしている。
「先生、これ、捨てていい?」
「木片なら薪にしてもいいわ」
「駄目。これ、塩坑の泥がついてる」
ミーシャは木片を鼻先へ近づけた。
「普通の雪泥じゃない。黒い砂と、白い塩の粒。塩坑の奥の泥だよ」
僕は椀を置いた。
「なぜ、塩坑の泥だと?」
「靴で何度も見てるから。ここの人は塩坑へ行く時、泥を診療所まで持ってこない。雪で溶けても、白い筋が残るんだよ」
ミーシャは木片の端を指で擦った。黒い泥の下から、薄い灰色の線が現れる。
「この箱、塩坑に置かれてたんじゃない。泥の上を引きずられてる。木の繊維が、片方だけ潰れてるから」
シアンの顔から、血の気が引いた。
僕は箱を思い出した。王都の倉庫。三重の封印。底板の温度。そして、誰かが箱を一度だけ暖かい場所へ移した痕跡。
運ばれたのは、王都からグラキエスへ向かう途中ではない。
もっと前だ。
箱は、輸送記録にない塩坑を通っていた。
「塩坑は、ここから近い?」
「旧道なら半日。でも今は埋まってる」
ミーシャは答えたあと、窓の外を見た。
「……変だね」
「何が?」
「雪が、屋根から落ちてない」
診療所の全員が、彼女を見た。
ミーシャは窓辺へ近づき、外の積雪を指差した。
「この風なら、屋根の雪は南側へ流れる。でも、入口の前だけ足跡がない。誰かが来たのに、雪が上から被せられてる」
エリーゼが、暖炉の火を見た。
パックの耳が立つ。
「外、来る。人、たくさん」
次の瞬間、診療所の明かりが消えた。
吹雪の向こうで、魔導銃の発射準備を示す低い魔力音が重なった。
エリーゼは患者の前に立ち、ミーシャを背後へ押しやる。
シアンが腰の短剣へ手を伸ばした。
僕は温かいシチューの椀を、静かに床へ置いた。
診療所の壁の印が、暗闇の中でぼんやり浮かび上がる。
外から、低い声が響いた。
「中にいる盗難犯を引き渡せ。証拠は封印だけで十分だ」




