背中を預ける距離
階段を下りた先に部屋はなく、床も壁も天井も赤黒い膜に覆われていた。膜は生き物のように膨らんでは縮み、そのたびに僕の身体から魔力が抜けていく。指先の感覚が薄れ、膝に力が入らなくなった。
「ユーリ!」
背後からレヴィの声がした。
「立ち止まるな。あれは結界だ」
「分かっている」
「分かっている顔ではない」
レヴィが僕の肩を掴み、結界の膜から引き離した。
触れた手から、彼の魔力まで吸い上げられる。
「離せ!」
「離せば、お前が倒れる」
「君の魔力も減っている!」
「だから二人で動く」
レヴィは僕の肩を放さなかった。
赤黒い結界は、階段の下にある炉心を包んでいる。炎ではない。魔力だけを燃料にする、巨大な袋のようなものだった。
中心部には、三つの印が浮かんでいる。
王国特務捜査隊の法印。
影班の秘印。
そしてアーノルドの灰印。
三つの印が結界の表面へ貼りつき、炉心から流れ出す出力を、さらに膨らませていた。
「フィーナ、状況を教えて!」
僕は通信札へ叫んだ。
「聞こえています。三重封印を維持していますが、もう動けません!」
返事の奥で、フィーナの荒い息が聞こえる。
「封印を一つでも外せば、結界が王都全体へ広がります。ガウェインさんが私の前に立って、崩落から守ってくれていますが……魔力が吸われ続けています」
「地上は?」
「パックとヴォルクが、最後の住民を地下路から遠ざけています。ですが、結界の外縁が広がっています。このままでは、避難した人たちまで巻き込まれます」
「パックから報告です」
フィーナが続けた。
「『あかい、ひろがる。ヴォルク、ひと、はこぶ。パック、みる』と」
「分かった。パックには、赤い膜から離れて住民を誘導するよう伝えて」
「もう伝えています」
通信札から、パックの声が聞こえた。
「……ひと、うえ。あかい、だめ」
「ユーリ、どうする」
レヴィが、結界の中心を睨んだ。
「あの膜を切ればいいのか」
「切ったら、内側の出力が一気に外へ出る」
「なら、押さえる」
「押さえても、吸われ続けるだけだ」
僕は結界の表面へ近づいた。膜の内側では、出力が三つの印へ集まり、同じ場所へ戻っている。力が逃げない、閉じた循環だ。
急に止めれば破裂する。細かく分けて、安全な空洞へ逃がすしかない。
「一気に止めるのは無理だ」
僕は言った。
「出力を分解して、複数の空洞へ逃がす」
「空洞?」
「炉の周囲に、使われていない魔力槽がある。そこへ少しずつ流す。圧力を下げながら、結界の循環をほどく」
「魔力槽は見えない」
「見えなくても、脈動の遅れで位置は分かる」
「俺に見えるのは、術式の骨格だけだ」
レヴィは魔導長剣を床へ突き立てた。
「俺が骨格を作る。お前が流す量を決めろ」
「できるの?」
「魔力を分ける術式なら、軍で何度も使った。だが、分ける先が七つも必要になる」
「七つに分ける。制御を間違えれば、七つの爆発が同時に起こる」
「それでも、一つに集めるよりはましだ」
レヴィが笑った。
「前世でも、そうやって無茶を言ったのか」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
「たぶん」
「なら、覚えておけ。今世の俺は、無茶を聞く代わりに、手順を要求する」
「分かった。第一から第六の空洞へ分ける。最後の一割は、結界の中心へ残す」
「中心へ残す?」
「空にすると反動がくる。最後の一割を緩衝材にする」
「その緩衝材を、灰印の帰還路へつなぐ」
「つなげられる?」
「お前が流れを乱さなければな」
「君が術式を崩さなければね」
「先に崩すなよ」
「そっちこそ」
レヴィは魔導長剣を引き抜いた。
刃先から青白い魔力が伸び、床へ複数の線を刻んでいく。
戦うための剣が、今は術式の定規になっていた。
魔力の線が、結界の下へ潜る。
一つ目。
二つ目。
線が空洞の縁へ触れた瞬間、赤黒い膜が大きく膨らんだ。
結界が、僕たちの意図を察したようだった。
「ユーリ、急げ!」
「分かっている!」
僕は灰印の空白へ指を当てた。
魔力を押し込むのではなく、流れの向きを一度だけ反転させる。
赤い出力が指先へ集まり、骨まで届く熱となって第一空洞へ流れた。一割。
結界の脈動が、わずかに弱まった。
「一つ目、通った!」
「二つ目を作る!」
レヴィが剣を横へ払った。
床の魔力線が枝分かれし、第二の空洞へ伸びる。
だが、レヴィの顔から血の気が引いた。
魔力を吸われながら、術式を維持している。
「レヴィ、無理をするな」
「お前がそれを言うのか」
「僕は計算している」
「俺も、剣の重さを計算している」
「あと三つなら持つ」
通信札が大きく震えた。
「ユーリ、出力の流れが変わりました!」
フィーナの声が飛び込んでくる。
「ですが、三重封印の一つが逆流しています。このままでは、私のいる制御室へ魔力が戻ります!」
「フィーナ、封印を維持して!」
「維持すれば、私は動けません!」
「動かなくていい。そこが帰還路になる」
「……分かりました」
フィーナの声が震えた。
ガウェインが、すぐに続ける。
「彼女は私が守る。作業を続けろ」
その声を聞きながら、僕は第三空洞へ出力を送った。
レヴィの術式が結界の内側へ食い込む。
魔力の流れが、少しずつ分かれていく。
だが、炉心の中心に残した一割が、急に膨らんだ。
赤黒い膜が、僕たちの背後まで迫る。
残り時間の表示が、さらに減った。
都市消滅まで、残り一分二十秒。
「レヴィ、次の空洞を作って!」
「手が足りない!」
「僕が術式を支える!」
僕は灰印から手を離そうとした。
その瞬間、結界全体が跳ねた。
出力が、元の循環へ戻ろうとしている。
レヴィが僕の手首を掴んだ。
「離すな!」
「このままでは、次の術式を組めない!」
「なら、背中で組め!」
レヴィは僕の背後へ回った。
僕が灰印を押さえ、彼が背中合わせに剣を構える。
互いの姿は見えず、声だけが赤い結界の中を行き来する。
右斜め下の膜だけが、膨らんだあとに沈みきるまで長く残った。床へ返る震えも、ほかの空洞より遅い。
「第五空洞、右斜め下!」
「深さは?」
「三十。いや、二十八。脈動が二拍遅れる場所!」
「分かった!」
「第六は、君の左足の下!」
「そこは空洞ではない。古い支柱だ!」
「支柱の内側に空間がある!」
「見えるのか!」
「感じる!」
前世の知識だけでは魔力を扱えず、レヴィの魔法だけでは内部の圧力を分解できない。異なる理屈が、今この場所で一つの手順になっていく。
五つ目、六つ目の術式が、震えながらつながる。
残るのは最後の空洞だけだった。
その位置を決める前に、炉心の中心から巨大な脈動が返ってきた。
赤い光が、一瞬で白くなる。
「来る!」
レヴィが叫んだ。
僕は灰印を押さえたまま、反対の手を伸ばした。
レヴィの剣先が、僕の手のすぐ横へ突き立つ。
最後の術式が、二人の魔力を同時に要求していた。
「ユーリ、今から二人で手を離す」
「分かっている」
「違う。一度だけだ」
「何が?」
「二人が同時に手を離せば、出力は最大へ戻る。だが、片方だけ残れば、術式は反転する」
レヴィの声が低くなった。
「どちらか一人が、最後まで残る必要がある」
結界の向こうで、空洞の術式が一つずつ明滅する。
都市消滅まで、残り一分。
僕は、背中越しにレヴィの気配を感じた。
「なら、二人とも残る」
「そんな方法はない」
「まだ、見つけていないだけだ」
僕は最後の空洞の位置へ目を向けた。
そこには、炉心の奥から伸びた細い魔力路があった。
誰かが後から追加した、古い金属の管。
管の表面には、王国の印でも影班の印でもない、見覚えのない刻印が刻まれている。
帝国のものとも違う。
もっと古い。
まるで、炉を作った者が最後に残した署名のようだった。
「レヴィ」
「何だ」
「最後の空洞は、誰かが後から塞いでいる」
「なら、壊せ」
「壊せば、そこへ出力が集中する」
「壊さずに開ける方法は?」
僕は、背中越しに答えた。
「今から考える」
赤黒い結界が、二人を呑み込むように膨らんだ。
レヴィの剣が、僕の背中で低く鳴る。
都市消滅まで、残り五十秒。




