焼かれた身分証
クリスが要塞外壁の古鐘楼からアリーシャを見張っている間、僕たちは救護区画の奥へ退いた。
帝国軍は、偽物の心臓を奪ったことで動きを変えていた。最初は避難路を塞ぐために広がっていた部隊が、黒い箱を中心に集まり始めている。
敵が心臓を持っていると思っているなら、こちらへ向かう理由はない。
そのはずだった。
「帝国軍の魔導通信が、急に増えています」
フィーナが耳元の通信札を押さえた。
「心臓の回収報告を受けた後、部隊の一部がセリアを捜しています」
「偽物だと気づいたのか」
「まだ分かりません。ただ、保管室に残った魔力の痕跡と、持ち去られた箱の脈動が一致していない」
帝国には、古代兵器を鑑定する人間がいる。
セリアは、偽物が長くは持たないと言っていた。
それなら、帝国が彼女を追うのは、最初から疑っていたからかもしれない。
荷車の底で、本物の心臓が規則正しく三度脈打った。
僕は荷車の側面へ手を置いた。
「この心臓を、今すぐ安全な場所へ移す」
「どこへ?」
レヴィが訊いた。
「帝国が見ている場所とは、別の場所です」
「帝国は、心臓がここにあると知らない」
「知らないからこそ、俺たちが決めた避難路を監視している」
レヴィは崩れた地図を広げた。
西側の排熱路。北側の水路。旧塩鉱道へ続く地下道。
どの道にも、帝国の部隊がいる。
「三つの道を同時に使うしかない」
「心臓を三つに分けるのか」
「分けません。空の荷車を二台走らせ、本物を一台に乗せる。どの道にも同じ量の護衛をつける」
レヴィは地図の上に指を置いた。
「敵が心臓の反応を探すなら、魔力を隠すだけでは足りない。偽物の反応を複数作り、どれが本物か判断できなくする」
「でも、偽物は帝国に渡った」
フィーナが言う。
「同じものを作れる人間は、もういません」
「それでも、帝国の目をそらす役は、私が引き受けます」
背後から声がした。
僕が振り返る。
崩れた通路の奥に、セリアが立っていた。
ギルドの外套は裂け、頬には煤がついている。右手には細い鍵。左手には、黒い金属板が握られていた。
帝国式の身分証。
「セリア……」
「ユーリさん、逃げて……!」
彼女は僕の方へ駆け寄り、息を切らしながら言った。
「帝国の監察官が、私の偽物を見抜きました。帝国軍は、心臓ではなく私を殺すために動きます」
「お前は、今までどこにいた」
レヴィが魔導剣を抜いた。
「帝国の輸送班に同行していました。偽物を本物だと報告させるために」
「なら、なぜ戻ってきた」
「本物の搬送先を伝えるためです」
セリアは荷車を見た。
「その心臓は、ここで守るためのものではありません。帝国軍が要塞へ入る前、救護用の荷車へ移されました。あなたたちが避難を始めた時、私は本物を底板の下へ隠した」
「僕たちが気づくことも計画していたのか」
「パックさんが、見つけると思っていました」
パックが鼻を鳴らす。
「分かる、匂い」
「その荷車は、どこへ向かう」
「王都です」
セリアの言葉に、空気が変わった。
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏にシアンの姿が浮かんだ。
以前、心臓の搬送先を尋ねた時、シアンは何も言わなかった。ただ、左手の親指を外套の裾へ深く隠し、視線を床へ落としていた。
親指を隠した仕草が、答えの代わりだった。シアンは搬送先を知っていたのかもしれない。
「王都へ戻せば、帝国の計画通りになる」
アーノルドが険しい顔をした。
「心臓は、王都地下炉の安定器でもある。帝国が制御部品を持ち込めば、最大出力で起動される」
「だから、王都へ行く前に止めます」
セリアは黒い金属板を差し出した。
「この荷車の正式な搬送先は、王都地下炉の北側搬入口です。帝国の輸送記録に、そう書かれている」
フィーナが金属板を受け取り、鑑定鏡をかざした。
黒い魔力の文字が浮かび上がる。
搬送先。護衛数。受け取り担当。
いずれも、帝国の軍用書式だった。
「記録の改ざんではありません」
フィーナが言った。
「命令の送信時に刻まれた固有の魔力が残っている。これは帝国の監察官が発行したものです」
「監察官の名前は?」
僕が訊く。
セリアが答えるより先に、黒い金属板の表面が赤く光った。
通信が、強制的に接続された。
冷たい男の声が、救護区画へ響く。
「潜入員セリア。偽物の引き渡しを確認した」
声の主は、帝国監察官ヴィンセント。
「貴官の任務は失敗した。心臓の所在を報告し、指定地点で待機せよ」
セリアの指が震える。
「待機しない場合は?」
「帝国軍規に基づき、反逆者として処刑する」
通信はそこで終わらなかった。
ヴィンセントは、まるでこちらにも聞かせるように続けた。
「なお、貴官が接触した王国人も処分対象とする。古代兵器の心臓を奪った罪を、全員の死で清算させる」
黒い光が消えた。
誰も口を開かなかった。
セリアは、しばらく金属板を見下ろしていた。
「帝国は、約束を守ると言っていた」
「約束ではない」
僕は言った。
「命令だ。最初から、守る相手を選べる形にしていた」
セリアは、黒い身分証を握りしめた。
「私は、帝国へ戻れません」
「戻るつもりだったのか」
「戻れると思っていました。任務に失敗しても、報告すれば処罰を受けて、次の任務を与えられる。そういう仕組みだと信じていました」
彼女は身分証を床へ置いた。
「ですが、処刑命令が出たなら、帝国に戻る道はありません」
セリアは鍵の先端を身分証の中心へ押し当てた。
黒い金属板に亀裂が走る。
「それを壊すと、身分を証明できなくなる」
救護区画の入口から、短く指示を交わす声が聞こえた。続いて、雪を払う靴音が近づく。先ほど追跡路の確認へ出ていたガウェインが、魔導拘束具を片手に戻ってきた。セリアの動きを見ている。
「帝国の身分証は、位置を知らせる追跡具でもあります。焼けば、戻る道も、追われる道も消える」
セリアは小さな火種を取り出した。
帝国式の青い炎が、身分証の端へ触れる。
金属板から、女の声が漏れた。
――任務を継続せよ。
――帝国は、貴官を見捨てない。
何度も聞かされた言葉なのだろう。
セリアの表情が、ほんの少しだけ崩れた。
「見捨てないなら、処刑命令など出さないでください」
彼女は身分証を炎の中へ押し込んだ。
青い炎が黒い金属を包み、帝国の紋章を焼き消していく。
それは忠誠を捨てる儀式ではなかった。
帰れる場所が、最初から存在しなかったと認めるための火だった。
身分証が灰になった瞬間、要塞の外で帝国軍の魔導通信が一斉に乱れた。
「追跡術式が切れました」
フィーナが言った。
「セリアを探すための経路が、途切れています」
セリアは燃え残った灰を踏み消した。
「これで、私は帝国にも戻れない。王国にも、正式な身分はありません」
「最初から、どこにも所属していなかったんですね」
僕が言うと、彼女は微笑もうとした。
できなかった。
「だから、ユーリさん。今度は、自分で選んでください」
「何を?」
「本物の心臓を、王都へ送るか。ここで止めるか」
荷車の底で、三拍子の脈動が響く。
王都へ送れば、地下炉を安定させられる。
帝国の制御部品が待つ場所へ運べば、兵器として利用される。
ここで止めれば、孤児院は守れる。
だが、王都の人々を見捨てることになる。
「決めるのは、今じゃない」
僕は荷車の取っ手を握った。
「まず、帝国の輸送車を止める。偽物が帝国の手にあるなら、まだ使える」
セリアが顔を上げた。
「偽物は、壊れるように作りました」
「壊れるだけか?」
「帝国の制御具を接続されれば、内部の魔力路が逆流します。運搬している車両の魔力炉を吸い上げ、周囲の魔導具を一つずつ停止させる」
「部隊はどうなる」
「魔導車は止まります。制御を取り戻そうとすれば、全部の車両が同じ場所へ魔力を流す」
セリアは視線を伏せた。
「その先は、私にも分かりません」
「なら、確かめに行く」
遠くで、帝国の魔導輸送車が動き出した。
黒い箱を積んだ車列が、崩れた外郭門を抜けていく。
先頭車の魔導灯が三度点滅した。
帝国の制御具が、偽物の心臓へ接続された合図だった。
荷車の底で、本物の心臓が脈打つ。
一拍。
二拍。
三拍。
次の瞬間、遠くの輸送車から、四拍目の脈動が返ってきた。
規則から外れた一つの音が、帝国の車列全体へ広がっていく。
魔導灯が消えた。
車輪が止まった。
制御具を繋いだ兵士が、何かを叫んでいる。
その声は、届かなかった。
偽物の心臓が、帝国の輸送車内で起動した。
逆流した魔力が車列を包み、魔導車が次々に自らの装甲を閉じていく。
逃げ道を失った帝国部隊は、互いの制御を奪い合い、同じ場所へ魔力を集中させた。
遠くで、白い光が膨らむ。
帝国軍の輸送車列が、自分たちの回収した偽物によって崩壊した。




