鐘楼の二つの照準
救護区画の天井に、細い青い光が走った。
次の瞬間、光の先にいた兵士の肩当てが弾け飛ぶ。
魔導弾は肉を貫かなかった。
兵士が持っていた避難誘導灯だけを撃ち抜き、壁へ突き刺さっている。
「狙撃です!」
フィーナが叫んだ。
子どもたちが一斉に身を縮める。パックが毛布を広げ、彼らの頭を覆った。
「みんな、寝て。見えない、大事」
片言の命令だったが、子どもたちは従った。
僕は床に伏せ、壁に残った魔力の跡を見た。
入口からではない。
狙撃線は、救護区画の天井にある換気孔を抜け、反対側の崖へ向かっている。距離は遠い。要塞の外壁からさらに先、雪に埋もれた古い鐘楼の上だ。
「敵は、避難路の灯りを狙っています」
フィーナが撃ち抜かれた誘導灯を見た。
「灯りを消して、子どもたちの位置を分からなくするつもりです」
「違う」
僕は壁の穴を見つめた。
「灯りを消しているんじゃない。避難路の目印だけを壊して、逃げる人間を分断している」
帝国軍は、魔導爆薬で通路を切り、狙撃で誘導を消している。
武器よりも先に、判断を奪う作戦だ。
「あの狙撃手を止める」
レヴィが上階へ向かおうとした。
その時、壊れた通信札の表面に、青い点が三つ、一定の間隔で灯った。古い影班の合図だった。
フィーナが札へ魔力を流す。
雑音の向こうから、聞き慣れた軽い声が届いた。
「先輩。生きてます。肩は、まだ最悪です」
僕の呼吸が止まった。
「クリス……?」
「その反応、ひどくないですか。死んだ後輩にする声じゃないでしょう」
声は軽かった。
だが、わずかに息が乱れている。左肩の傷が治りきっていないのだ。
「どこにいる」
「グラキエス要塞外壁の先にある古鐘楼です。王都で先輩に撃たれた時を思い出す、見張りにちょうどいい場所ですよ」
「王都から、どうやってここまで?」
「落ちたあと、ガウェインさんの回収班に拾われました。王都北側の診療所で肩を固定して、二日だけ安静にしました。それから特務捜査隊の先行雪上車で、検問を避けながら三日かけて北へ。要塞外壁へ着いたのは、昨日の夜です」
軽口の声に、傷を庇う浅い呼吸が混じっていた。落下した直後に北へ飛んだのではない。治療を受け、時間をかけて運ばれ、それでも肩の痛みを抱えたまま狙撃位置へ立っている。
通信札の向こうで、魔導銃の弾倉を入れ替える音がした。
僕が撃った。
クリスが落ちた。
あの日から、僕は彼が死んだものとして逃げ続けていた。
「あの少女を狙っているのか」
「向こうも俺を狙ってます。さっきの誘導灯は、俺が撃つ前に壊されました」
「敵の狙撃手は一人?」
「一人。若い女の子です。たぶん、俺より性格が悪い」
「根拠は?」
「避難路を狙っているのに、誰も殺していない。撃てるのに撃たない奴は、撃つ場所を選んでいる。そういう人間は、撃つ時に一番怖い」
言葉が途切れた。
鐘楼の方向から、魔導銃の発射音が一つだけ響く。
直後、救護区画の床へ細い光が走り、荷車の車輪が砕けた。
本物の心臓が入った箱が、床へ落ちかける。
パックが片手で荷車を支えた。
「本物、落とさない」
「そうだ。誰にも触らせるな」
僕が箱を抱え直す。
遠くの鐘楼で、別の魔導銃が応じた。
クリスの魔導弾が、敵の射線を横切る。
二つの光が雪の上で交差し、片方が崖の縁を削った。
「クリス、下がれ。傷が開く」
「先輩に心配されると、撃ちにくくなるんですよ」
「なら、撃つな」
「それは無理です。今、俺の後ろには避難路がありますから」
軽口の最後だけ、声が低くなった。
彼は、自分が死んだと思わせたまま、ずっとこの場所を守っていたのだ。
鐘楼の屋上に、少女の影が浮かんだ。
白い外套。細い身体。顔の半分を覆う黒布。
少女は魔導銃を抱え、照準を避難路の奥へ向けている。
「見えた」
クリスの声が通信札から響いた。
「あの子、遮蔽物の影を三つ使ってる。撃つたびに位置を変える。訓練を受けた兵士じゃない。もっと厄介な教育を受けてる」
「暗殺者か」
「たぶん」
少女の魔導銃が光った。
今度の魔導弾は、避難路の天井ではなく、霧を作っていた冷却管を狙った。
管が裂け、白い霧が一気に広がる。
視界が奪われた。
帝国兵が、その霧に紛れて前進する。
レヴィの部隊が魔導弾を撃ち返すが、敵は盾を立てて進路を変えた。少女の狙撃が、こちらの反撃を誘導している。
「クリス、敵の前進を止められるか」
「止めます。けど、あの子が俺の弾道を読んでる」
「読まれているなら、読ませろ」
「簡単に言いますね、先輩」
「お前ならできる」
通信札の向こうで、短い沈黙があった。
「……その言葉、ずるいですよ」
クリスが笑った。
「そう言われたら、外せないじゃないですか」
鐘楼から三発の発射音が続いた。
一発目は、少女の右側にある鉄柱を破壊した。
二発目は、崩れた柱が倒れる先の雪を削った。
三発目は、少女が逃げるために踏み出した足元へ着弾した。
雪と石片が跳ね、少女の左脚が一度だけ沈んだ。
殺すための射撃ではない。
逃げ道を、順番に消している。
少女は倒れなかった。
空中で身体をひねり、鐘楼の鐘を足場にして反対側へ移る。
その動きは、年齢に似合わないほど正確だった。
黒布の端が風にあおられ、首元の細い糸が見えた。
灰色の糸。
三本を束ね、端を小さな結び目にした識別糸。
黎明の瞳の孤児院で、子どもたちの毛布や薬袋につけていたものと同じだった。
「クリス、その少女の首元を見ろ」
「見えました。灰色の糸ですね」
「孤児院の識別糸だ」
クリスの発射音が止まった。
「……帝国の暗殺者が、なぜ持っている」
少女の魔導銃が、再び光った。
クリスは撃たなかった。
魔導弾は鐘楼の横を抜け、地下要塞の換気孔へ向かった。
僕は咄嗟に手をかざしたが、パックが先に飛び出した。彼女は重い鉄板を持ち上げ、換気孔の前へ盾のように立つ。
魔導弾が鉄板へ当たり、青白い火花を散らした。
「パック!」
「生きてる。問題、ない」
彼女は鉄板を下ろし、少女のいる鐘楼を睨んだ。
その瞬間、クリスの魔導銃が発射された。
魔導弾は少女の身体を狙わず、彼女の銃身だけを正確に撃ち抜いた。
少女の武器が二つに折れ、内部の魔力が雪の上へ散る。
少女は反動で膝をついた。
それでも、腰の短剣へ手を伸ばす。
「まだ来るか」
クリスの声が硬くなった。
「なら、次は腕を――」
「待て」
僕は通信札へ言った。
「彼女は、孤児院の識別糸をつけている」
「だから?」
「撃つ相手を、選べ」
クリスは黙った。
少女が顔を上げる。
黒布の下から見えた目は、驚くほど幼かった。
「あなたは、黎明の瞳の人間?」
少女が、遠くまで届く声で訊いた。
「元、です」
クリスが答える。
「名前は?」
「アリーシャ」
「アリーシャ。子どもたちを撃つ気か」
「撃っていない。目印を壊した」
「次は、目印のそばにいる人間を撃つ」
アリーシャは短剣を抜いた。
「命令だから」
「命令なら、孤児院の糸を身につけるのか」
少女の手が止まった。
風が吹き、灰色の糸が揺れる。
「これは、薬を受け取った時にもらった」
「誰から」
「名前は知らない。白い毛に覆われた小柄な白熊系獣人の少女と、赤い糸を結ぶ女」
パックが顔を上げた。
フィーナの指先が止まる。
アリーシャは、かつて黎明の瞳の救護部門から薬を受け取った孤児だった。
帝国に引き取られ、教育と引き換えに暗殺者へ変えられた。
「お前も、子どもだったのか」
クリスの声が、少しだけ弱くなった。
「今も子どもです」
アリーシャは短剣を握ったまま答えた。
「でも、命令を実行できる。だから、子どもではないと言われた」
クリスは、もう一度照準を合わせた。
今度は、彼女の手元ではなく、短剣の柄を狙う。
「だったら、子どもに戻れ」
魔導弾が短剣を弾き飛ばした。
アリーシャは立ち上がろうとしたが、左脚から力が抜け、鐘楼の床へ倒れた。
「クリス、仕留めていないな」
レヴィが通信札へ呼びかける。
「武器だけです。先輩が、そうしろと言ったので」
アリーシャが、遠くの通信札を見た。
「あなたは、敵を殺さないの?」
「殺す必要がある時は殺します。でも、今は必要ない」
「変な人」
「よく言われます」
アリーシャは、崩れた鐘楼の壁へ背を預けた。
そして、ひどく小さな声で言った。
「セリアは、帝国を裏切る」
僕は息を止めた。
「セリアが?」
「偽物を渡した。帝国の監察官は、もう知っている。彼女を生かしておく理由はない」
アリーシャの顔から、無表情が消えた。
「次の命令は、セリアの処刑」
彼女はその言葉を残し、意識を失った。
遠くの鐘楼で、クリスの通信札が小さく震える。
「先輩。俺は、あの子を連れて帰れます」
「頼む」
「了解です。あと、肩が痛いので、帰ったら褒めてください」
「生きて帰れたらな」
「それ、先輩が言うと縁起が悪いんですよ」
通信が切れた。
救護区画の奥では、帝国軍がさらに進んでいる。
荷車の底では、本物の心臓が三拍子で脈打っていた。
そして今、敵は心臓を奪ったセリアを殺すために、次の部隊を動かし始めた。




