帝国の影
孤児院へ向かう廊下は、いつもより狭く感じた。
子どもたちを三つの避難路へ分けるため、食料と毛布が運び出されている。泣き出す子はいなかった。大人たちが不安を隠そうとしていることを、子どもたちも理解しているのだ。
理解しているからこそ、誰も口にしない。
要塞の外で、帝国がこちらを見つけようとしていることを。
「排熱路の第一扉を開けます」
フィーナが封印札を束ねながら言った。
「魔力の流れは、まだ安定しています。ただ、三拍子の切り替えが一度起きると、北側の通路は十数分ほど冷却水で満たされます」
「その前に、子どもたちを移す」
レヴィが答えた。
彼は軍事部門の兵士を三つに分け、誰にも避難先を知らせないよう指示していた。全員を守るために全員へ情報を渡すのではなく、情報を分ける。僕が前世で何度も見てきたやり方だった。
けれど、ここではそれだけでは足りない。
逃げる人間の中に、敵が混じっている可能性がある。
その考えが浮かんだ時、要塞の搬入口から荷車の音がした。
こんな時刻に、外から荷物が届くはずがない。
僕は廊下の角から搬入口を覗いた。
雪をかぶった二台の荷車が、古い門をくぐっている。側面には王立輸送ギルドの青い印。御者の横に立っている女は、白い息を吐きながら、いつもの穏やかな顔で周囲を見回していた。
「セリア……?」
受付嬢だった頃と同じ服装だった。
ギルドの外套。胸元の名札。腰に下げた鍵束。
ただし、以前と違うものが一つだけある。
彼女の左手に、黒い糸が巻かれていた。
セリアは僕と目が合うと、ほんの少しだけ微笑んだ。
「お久しぶりです、ユーリさん。避難用の食料を届けに来ました」
「輸送許可は?」
レヴィが兵士を連れて近づいてくる。
「ギルド長の印があります」
セリアは胸元から書類を出した。
紙の表面には、王立輸送ギルドの正式な封蝋。けれど、封蝋の縁に付着した雪が不自然だった。搬入口まで運んできた荷物なら、荷車の屋根から落ちた雪と同じ方向に濡れるはずだ。これは、誰かが屋内で封蝋の上へ雪を乗せた跡だった。
偽造ではない。
書類も印も本物だ。
ただ、誰かに見せるために、時間を偽っている。
「フィーナ」
僕が呼ぶと、彼女は鑑定鏡を取り出した。
青い光が封蝋の表面をなぞる。正規の魔力層が三重に浮かび、その下に別の黒い層が沈んでいた。
「帝国式の保護術式です。書類を破ろうとすると、文字が焼けます」
セリアの表情から、微笑みが消えた。
「そこまで分かるんですね」
背後で、雪を踏む音が一つした。ガウェインが、セリアの逃げ道を塞ぐ位置へ回り込み、そこで初めて口を開いた。
「あなたが持ち込んだ荷物には、ギルドのものではない印が付いている」
彼の視線はセリアの顔ではなく、荷車の車輪と、床に落ちた雪の乾き具合へ向いている。
「荷車は一台だけ、途中で別の場所に寄っています。車輪の泥が王都のものではない」
「王国特務捜査隊の捜査官は、雪まで証言にするんですね」
「証言ではない。物証だ」
ガウェインの手が、魔導拘束具へ伸びる。
その前に、セリアが左手を上げた。
「拘束される前に、伝えるべきことがあります」
「なら、話せ」
レヴィの声には、刃物のような冷たさがあった。
「私は、ガルディニア軍事帝国の潜入員です」
搬入口の空気が凍った。
驚きの声を上げたのは、周囲の兵士たちだった。僕は驚かなかった。ギルドでシアンのロッカーを調べたあの日、セリアは僕の追跡印を確かめ、鍵の歯を見て、通路の出口を数えていた。
受付嬢の癖ではない。
逃げる者と追う者の、両方の道を覚える人間の目だった。
「輸送ギルドへ入った時から、帝国へ情報を送っていました」
セリアは隠そうとしなかった。
「禁忌の心臓がどこへ運ばれるか。誰が担当するか。どの道を通るか。私が流した情報は、帝国の記録に残っています」
「なら、最初から全部仕組まれていたのか」
「全部ではありません。あなたが盗難犯にされたことも、ギルド内部で証拠が切り取られたことも、私の命令ではない」
セリアは一度、目を伏せた。
「私は、心臓を帝国へ戻す任務だと聞かされていました。古代炉が危険な状態にあり、王国の誰かが兵器として使う前に、帝国が回収する。そう説明されていたんです」
「王国を救うために、子どもたちのいる要塞を帝国へ売ったのか」
アーノルドが低く訊いた。
「売ったつもりはありません」
「結果は同じだ」
「……はい」
セリアは否定しなかった。
彼女が嘘をついているなら、もっと早くに話を整えたはずだ。自分が何を知り、何を知らないのかを、あまりにも正確に区別している。
嘘ではない。
正しい命令だと信じようとしているだけだ。
その信じ方が、もう崩れかけている。
「帝国からの命令を持ってきました」
セリアは外套の内側から、黒い金属板を取り出した。
表面には、剣と翼を組み合わせた帝国の紋章。裏面には魔力で刻まれた文章が浮かんでいる。
――古代兵器の心臓を引き渡せ。
――黎明の瞳の居住区にいる非戦闘員は保護する。
――抵抗がなければ、孤児院への攻撃は行わない。
「心臓を渡せば、孤児院を見逃す。そういう命令です」
フィーナが金属板へ鑑定鏡を向けた。
「この命令書は本物です。後から文字を変えた跡もありません」
「帝国が約束を守る証拠にはならない」
ガウェインが言った。
「命令が本物であることと、命令を実行する者が従うことは別だ」
「ですが、帝国軍は命令に従います」
セリアは強く言った。
その言葉だけが、初めて揺れていなかった。
「帝国では、命令は法です。命令書に非戦闘員を保護すると書かれているなら、兵士はそれを守る。そう教えられてきました」
「なら、なぜそんな顔をする」
僕が訊くと、セリアの指が黒い糸を握りしめた。
「命令書の末尾に、別の印があるからです」
彼女は金属板を裏返した。
保護命令の下、見落としそうな場所に小さな黒点が三つ並んでいる。
「これは、帝国軍が使う作戦区分です。非戦闘員を保護する部隊と、作戦目標を確保する部隊が別れている。その二つが同じ場所へ入る時、保護対象は戦闘区域から移送されるまでの一時的な扱いになります」
「つまり、孤児院を守るという言葉は、要塞を制圧するまでの約束だ」
「制圧が終われば、子どもたちをどこへ移すかは書かれていません」
セリアは、そこで初めて声を詰まらせた。
嘘をついている顔ではなかった。
信じていた言葉の中に、信じてはいけない空白を見つけた顔だった。
「セリア。帝国は、心臓を受け取ったあとも孤児院を残すと思うか」
「……思いたいです」
「答えになっていない」
「私には、命令を疑うための情報がありませんでした」
彼女は黒い金属板を胸に押し当てた。
「だから、あなたたちへ直接渡しに来たんです。心臓を渡せば助かると伝えるために。私が嘘をついていないと、証明するために」
アーノルドが保管室の方を見た。
「心臓は渡さない」
短い言葉だった。
セリアの顔から血の気が引く。
「そう答えるなら、帝国軍は予定どおり進みます」
「その前に、子どもたちを移す」
僕が言った。
「あなたは帝国の侵入路を知っているはずです」
「知っています」
「なら、僕たちに教えてください」
「それは帝国への裏切りになります」
「もう、裏切られているかもしれないのに?」
セリアの左手が震えた。
彼女はすぐには答えなかった。
遠くで、何かが三度鳴った。要塞の最外郭を守っていた封印が、外側から順番に失われた音だった。
レヴィが魔導通信札を取り出す。
光の中に、短い報告が浮かんだ。
――最外郭、第一防壁に異常。
――敵影、確認。
――帝国式の先遣部隊が、侵入を開始。
セリアは、報告を見つめたまま動かなかった。
その瞳に浮かんだのは、任務を失った潜入員の顔ではない。
自分が信じた命令によって、守るはずだった子どもたちが危険にさらされると知った人間の顔だった。
僕は彼女へ手を差し出した。
「セリア。帝国の命令を守りたいなら、まず孤児院を守る方法を教えてください」
彼女は黒い金属板を見下ろし、それから、僕の手を見た。
「……裏切りでは、ありません」
セリアは震える声で言った。
「命令の、正しい意味を確かめるだけです」
次の瞬間、外郭門の向こうで魔導弾が炸裂した。
爆発音が、地下要塞の壁を震わせる。
帝国軍が、最初の防壁を越えた。




