情報屋の緊急通信
魔導通信札の表面に、サルマンの名前が浮かんでいた。
国境を越えて情報を売る男。王国軍の補給路も、帝国の外交文書も、金さえ払えば手に入れると噂されている。
通信札から聞こえる声は、疲れていた。
「こちらの声が届いているなら、返事は不要だ。返事をすれば、経路をたどられる」
「サルマン。帝国は、いつから動いている」
アーノルドが訊いた。
「質問は一つずつにしてくれ。情報は高い。命がかかっている時は、なおさらだ」
声の向こうで、紙をめくる音がした。
「帝国の特務部隊は、北境から来るのではない。王都の大使館に、すでに人員と装備を集めている」
「大使館から?」
「外交官の荷物として運び込んだ。魔導銃、制御具、地下炉の部品。王国の検査官は、帝国の救援物資だと思っている」
レヴィが、机の上の地図へ目を向けた。
「帝国は心臓を奪うつもりではない」
「その通りだ」
サルマンが答えた。
「帝国が欲しいのは、王都地下炉の制御部品だ。心臓を使って炉を起動させ、魔力が最大になる瞬間に部品を回収する」
「炉を起動すれば、王都が崩れる」
「帝国は、王都を救うつもりがない」
通信札の光が、ふっと弱くなった。
三つの魔導灯が、順番に点滅する。
音声が途切れた。
一拍。
二拍。
三拍。
その間隔は、魔導装甲車でパックが計器を叩いていた三拍子と同じだった。
僕は通信札へ手を伸ばしたが、触れる前に声が戻った。
「……聞こえるか。今の途切れは、こちらの妨害ではない。帝国が使っている中継術式が、通信路を横切った」
「三拍子の間隔だった」
僕が言うと、レヴィがこちらを見る。
「炉の周期と一致している可能性があります」
通信札の向こうで、サルマンが息を呑んだ。
「そのことを知っているのか。なら、時間がない」
「帝国は、いつ炉を起動する」
「正確な時刻は不明だ。だが、王国が貴族区画への攻撃を受ければ、帝国は救援名目で軍を入れる」
アーノルドの顔が険しくなった。
「私の攻撃を利用するつもりか」
「公爵家への報復を、帝国の侵攻理由にする。王国が辺境のテロ組織を制圧できないと宣言し、帝国軍が秩序回復を名目に王都へ入る」
「王都を占領するための救援」
「そういうことだ」
「それだけの部隊を、大使館に隠せるのか」
レヴィが訊いた。
「隠したのではない。見せる名目を用意したんだ。飢饉に備えた穀物、国境警備隊への医療品、故障した街道灯の交換部品。木箱の中身を確かめた検査官は、品目と封蝋が正しいかどうかしか見ない。底板の下に制御具が重ねられていることまでは、調べなかった」
「その情報は、どこから手に入れた」
「大使館へ品物を運ぶ商人から買った。商人は制御具の用途を知らない。ただ、荷下ろしの時に、箱の中から炉と同じ脈動を聞いたそうだ」
サルマンの声には、いつもの軽さがなかった。
「俺はその証言を、別の二人からも取った。積み荷の一覧は魔導記録板に残っている。内容を消して書き換えた形跡はない。ただし、運び込まれた時刻の一部だけが空白になっている。誰かが記録を改ざんしたというより、記録板そのものが中継術式の影響を受けたらしい」
記録の空白。
僕の胸の奥で、切り取られた通信の感触が一瞬だけ疼いた。届かなかった命令。誰かが消したのではなく、届くはずのものを届かなくする仕組み。
けれど、ここにあるのは今の世界の物証だ。僕は過去の記憶と混同しないように、地図から目を離さなかった。
「帝国は、実行部隊の存在を認めないつもりだな」
「認める必要がない。炉が暴走すれば、王国の反乱分子が破壊したことにできる。帝国軍は、崩壊を止めるために入ったと言えばいい。制御部品を持ち帰っても、救援活動の一環だと主張する」
「つまり、失敗しても成功する作戦か」
「そうだ。王都が無事なら、帝国は王国を救った英雄になる。壊れれば、王国が自壊した証拠になる。どちらに転んでも、帝国だけが秩序を名乗れる」
サルマンの声が、再び途切れた。僕は、無意識に指で机を叩きそうになった。
パックが魔導装甲車で叩いていた音。古代炉の周期。帝国の中継術式。
三つの異なる場所で、同じ間隔が使われている。
ただの合図ではない。
炉が魔力を取り込み、切り替える周期そのものだ。
「サルマン。帝国は、心臓をどこで起動する」
「王都地下炉だ。だが、起動の鍵になる心臓は、君たちの要塞にある」
「なら、要塞を攻撃する理由がない」
「ある」
声が戻った。
「帝国は、心臓を奪う前に、黎明の瞳を内部から崩す。指揮系統を混乱させ、避難路を塞ぎ、心臓を守る者を分断する」
レヴィが、地図の上へ指を置いた。
「最初に狙われる場所は?」
サルマンは答えなかった。
代わりに、通信札へ魔力の地図が送られてきた。
王都の大使館から伸びる赤い線。北境へ向かう偽装輸送路。旧塩鉱道へつながる地下経路。
そして、黎明の瞳の地下要塞。
地図の端に、子どもの居住区を示す白い印がある。
その上へ、帝国式の黒い印が重なっていた。
「孤児院……」
アーノルドの声が掠れた。
「最初の攻撃目標だ」
サルマンが言った。
「理由は、軍事部門を倒すためではない。子どもたちを盾にすれば、アーノルドは心臓の保管室から離れる。レヴィは部隊を動かすために、指揮所へ戻る」
「そして、誰も心臓を守れなくなる」
「そうだ」
通信札の光が、最後に一度だけ揺れた。
「帝国は、王都を壊すつもりではない。王都が壊れた後に、残った制御部品だけを持ち帰る」
通信が切れた。
室内に、古代炉の脈動だけが残る。
誰も、すぐには口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのは、アーノルドだった。
「子どもたちを移す」
「移動先も見られている可能性があります」
僕が言うと、アーノルドの拳が固く握られた。
「それでも、ここに置いてはおけない」
「孤児院だけを動かせば、帝国はそれを囮だと判断する。患者や職人、食料庫の記録まで一緒に移す必要がある」
レヴィが地図へ身を乗り出した。
「三つの避難路を使う。旧塩鉱道は偽装輸送路と重なる。北側の水路は狭すぎる。残るのは、要塞の地下にある排熱路だ」
「排熱路は、炉の周期が変われば封鎖されます」
「だから、三拍子の切り替えを読む。パックが計器を叩いていたのは、警告だったのかもしれない」
レヴィの言葉に、足元でパックが小さく身じろぎした。
パックは僕らの会話を理解している。まだ人間語を完全には話せず、長く話そうとすると単語が途切れる。それでも、炉の奥から響く音を聞き分けることなら、誰より正確だった。
「パック。排熱路は、まだ使える?」
パックはしばらく天井を見上げ、それから床を三度叩いた。
軽い音が、ひとつ、ふたつ、みっつ。
レヴィが息を止める。
「今は、使えるという意味か」
「たぶん。少なくとも、炉が次の周期へ移るまでは」
僕は地図の白い印を指でなぞった。
「父さん。貴族区画への攻撃は延期してください」
アーノルドが僕を見る。
「公爵を逃がすことになる」
「逃がすのではありません。帝国に侵攻の口実を渡さない。公爵を裁く証拠は、もう少しで揃う。けれど、子どもたちの命は、証拠が揃うまで待ってくれない」
長い沈黙のあと、アーノルドは目を閉じた。
「……分かった。復讐より先に、避難を行う」
その決断は、父が積み上げてきた十四年分の怒りを、一度だけ脇へ置くことだった。
レヴィは指揮所へ戻るために地図を折り、僕は孤児院へ向かう扉を見た。
その時、通信札の消えたはずの表面に、黒い印が一瞬だけ浮かんだ。
孤児院の裏手。
そこには、帝国の部隊がまだ到着していないことを示す白い空白があった。
空白は、安心の印ではない。
まだ誰にも見つかっていない場所を、敵がこれから見つけるという意味だ。
アーノルドは子どもたちのいる方向を見た。
レヴィは軍事区画の方角を見ている。
僕は、机の上の地図を見つめた。
帝国は、父の復讐を利用する。
公爵家は、王国の隠蔽を利用する。
王国は、辺境の犠牲を利用する。
そして最初に踏みにじられるのは、何も知らない子どもたちだった。
地図上の白い印が、赤い光に染まっていく。




