最悪の義兄弟協定
矢が飛んできた後も、心臓の脈動は変わらなかった。
まるで、保管室で起きた争いも、壁の向こうにいる侵入者も、すべて最初から計算に入れていたようだった。
アーノルドが扉を開けた。
「何が起きた」
レヴィは、外套の内側に隠した黒い矢へ手を添えた。
「侵入者がいた」
「誰だ」
「まだわかりません」
僕が答えた。
レヴィがこちらを見る。
矢の正体をすぐに伝えれば、軍事部門全体の調査が始まる。疑われた者は武器を取り、孤児院と診療所の近くで衝突するかもしれない。
僕たちは、同じ理由で黙った。
アーノルドは、二人の顔を交互に見た。
「何かを隠しているな」
「はい」
レヴィが答えた。
「ただし、今は話せません」
アーノルドの目が曇る。
「私にも?」
「父さんを守るためです」
僕が言うと、アーノルドはわずかに息を止めた。
父親として嬉しいのか、首領として不快なのか、判断できない顔だった。
「守るために隠すのか」
「隠さなければ、内通者が動きます」
「動いた時に捕らえればいい」
「孤児院が戦場になります」
アーノルドは、しばらく黙った。
「わかった。今夜だけ、軍事部門への報告を止める。だが、明朝までに説明しろ」
扉が閉じる。
レヴィが僕へ向き直った。
「明朝までに、内通者を探す必要がある」
「一人でやればいい」
「あなたがいると、兵士の半分があなたを殺そうとする。私だけでは、もう半分の視線を避けられない」
「僕と組みたいのか」
「組むのではない。条件を決める」
レヴィは机の上へ、三本の線を引いた。
一つ目。
「お父様を殺させない」
「暗殺命令を受けている僕に、それを言うか」
「あなたがお父様を殺す意思を持っていないことは、魔導脈波計が示した」
「あれは恐怖を読んだだけだ」
「それでも、殺すことを望んでいない恐怖だった」
レヴィは二本目の線を引いた。
「孤児院と診療所を戦場にしない」
「軍事部門が攻撃を始めたら?」
「私が止める」
「お前一人で?」
「私が指揮する部隊なら、私の命令で止められる」
「止められない部隊もある」
「その時は、あなたが止める」
三本目の線が引かれた。
「心臓を、勝手に起動しない」
僕は、保管室の奥を見た。
扉の向こうで、古代兵器が眠っている。
「誰が起動させるつもりだ」
「強硬派。帝国。公爵家。あるいは、お父様自身」
「アーノルドが起動させると?」
「お父様は、心臓を起動しないと言った。でも、王都が攻撃され、孤児院が襲われれば、守るために使う可能性がある」
「父さんを守るというのは、父さんの罪を隠すことではない」
僕は三本の線を見た。
「アーノルドが王都の住民を犠牲にするなら、僕は止める。レヴィが軍事部門を使って証拠を消そうとするなら、僕は止める」
「私が証拠を消すと?」
「守るために、必要だと言うかもしれない」
レヴィは否定しなかった。
「では、あなたが暗殺命令を実行しようとしたら、私が止める」
「それでいい」
「互いに止める権利を持つ」
「互いに、止められる覚悟を持つ」
レヴィが三本目の線の端へ、短い印を加えた。
法を守るための条件。
命を守るための条件。
責任から逃げないための条件。
まだ、その意味を完全には理解していなかった。ただ、三つのどれか一つだけでは、父も孤児も心臓も守れないことはわかった。
正しい指摘だった。
守るための力は、守るものが増えるほど使いたくなる。
「三つの条件を、どうやって守る」
僕が尋ねると、レヴィは短剣の柄で机を叩いた。
「互いを監視する」
「信用ではなく?」
「信用できないから、監視する」
最悪の協定だった。
父を守る。
孤児院を戦場にしない。
心臓を勝手に起動しない。
三つとも、破れば相手を止める権利がある。
「期限は?」
「内通者を見つけるまで」
「長すぎる」
「帝国軍の到着まででもいい」
「二日しかない」
「十分です」
レヴィは、まるで戦場の作戦を決めるように言った。
「二日で、誰が心臓を王都へ運ぼうとしているかを確定する」
「その後は?」
「協定を破棄する」
「僕を殺す?」
「必要なら」
「お前は本当に、それしか言えないのか」
「必要を決めるのは、私だけではありません」
レヴィは三本の線を見た。
「あなたにも決めさせる」
その夜、僕たちは同じ監視室で眠ることになった。
寝台は一つ。床は冷たい石。レヴィは寝台を僕へ譲り、自分は扉の前の椅子へ座った。
「お前が床で寝ろ」
「監視対象を寝台へ置くほうが、逃走を防ぎやすい」
「寝台の下に何か仕掛けたか」
「確認したいなら、あなたが先に調べてください」
僕は寝台の下へ手を入れた。何もない。代わりに、椅子の脚へ細い魔力線が結ばれている。レヴィが動けば、壁の小さな鈴が鳴る仕掛けだ。
「椅子を動かしただけで鳴る」
「あなたが近づいた時だけです」
「なら、椅子を使わずに立っていろ」
「あなたが眠るまで、そうします」
「本当に立つのか」
「監視役ですから」
レヴィは立ち上がったまま、壁へ背を預けた。
数分後、彼の瞼が一度だけ落ちた。
「寝ている」
「違います」
「今のは寝ていた」
「瞬きを長くしただけです」
最悪の義兄弟協定は、締結から十分で破綻しかけていた。
「お前が寝ろ」
「監視役が眠るわけにはいかない」
「魔導脈波計の後で、よく動けるな」
「あなたが逃げれば、起きます」
「寝ていても起きる仕掛けを置いた」
僕は床に張られた細い糸を見た。
「僕も置いた」
レヴィの足元に、黒い糸が一本伸びている。
互いに相手を監視する仕掛けを置き、互いにそれを見抜いていた。
眠れるはずがない。
「義兄弟というのは、こういうものか」
「私はあなたを兄とは認めていません」
「お父様とは呼ぶのに?」
レヴィは黙った。
返事の代わりに、心臓保管室の方から低い音が響いた。
脈動が一度。
二度。
三度目の音が鳴った時、監視室の壁に置かれた古い軍用魔導方位盤が回転した。パックが持っているものと同じ型だ。十四年前の救援隊の装備が、この要塞にも残されていたらしい。
僕は寝台から起き上がった。
レヴィも同時に立つ。
「心臓が、起動したのか」
「封印は破れていない」
僕たちは保管室へ戻った。
台座の周囲にある三重の封印は、すべて閉じている。だが、心臓の表面に細い光が走っていた。
血管のような光が一度閉じ、次に分岐する。
地図の線になった。
グラキエスの旧塩鉱道。
王都の地下水路。
そして、王都地下炉を示す座標。
古代兵器は起動していない。
それでも、心臓は自分の帰る場所を示していた。
レヴィが、低く呟く。
「王都地下炉……」
僕は光る座標を見つめた。
心臓を王都へ戻そうとしている者がいる。
そして、心臓自身もまた、王都地下炉を知っている。
その夜、保管室の外でシアンが足を止めた。
「旧診療所側を見てくる。あの古い救護路は王都の廃棄輸送庫へ抜けている。公爵家の輸送印が、まだ消えていない」
「一人で行くつもりか」
僕が訊くと、シアンはいつものように笑った。
「俺が大勢で歩くと、目立つだろ」
けれど、左手の親指は外套の裾へ深く隠れていた。
「戻るの?」
「戻れたらな。戻れない時は、俺が見つけた記録を一つにまとめるな」
それは冗談ではなかった。
シアンは旧救護路へ続く扉を開け、偽造した通行札を懐へしまった。
僕は止めなかった。止めれば、彼が追っているものを失う気がした。
扉が閉じた後、床には細い灰色の糸が一本だけ残っていた。




