パンの配られる場所
第51話 パンの配られる場所
翌朝、地下要塞の食堂には焼いた小麦の匂いが漂っていた。
魔導炉の熱を利用した窯から、平たいパンが次々と運び出されている。表面には羽根形の印が焼き付けられていた。
攻撃の印ではない。
避難者へ配る食料だと、アーノルドが言った。
「一人二つ。病人には三つ。持ち帰る場合は、隣の者にも分ける」
アーノルドは、子どもたちの列に自分でパンを配っていた。
名前を呼び、年齢を覚え、昨日食べられなかった子どもには、柔らかい部分を選んで渡す。
名前を覚えているだけではない。
誰が右手を使いにくいのか。誰が眠る前に水を欲しがるのか。誰が大きな音を嫌うのか。アーノルドは、名簿に書かれない生活の癖まで知っていた。
僕が見ていることに気づくと、彼は少しだけ困ったように笑った。
「首領が子どもの世話をするのは、おかしいか」
「父親なら、おかしくない」
「首領なら?」
「部下へ任せるものだ」
「任せた結果、名前を忘れられた子どもがいた」
アーノルドは、焼きたてのパンを一つ、名簿の端へ置いた。
「だから、私は忘れない」
「ミナ、今日は薬を飲んだか」
「飲んだ。苦かった」
「苦い薬は、甘いパンの後に飲めばいい」
「先に飲んじゃった」
「では、今日のパンは二つとも甘いところをやろう」
アーノルドが笑うと、子どもたちも笑った。
その笑顔は、彼が王国の指名手配書に描かれた危険人物とは結びつかなかった。
レヴィは食堂の入口に立ち、子どもたちの動線と扉の位置を確認している。だが、昨日までのように魔導銃へ手をかけてはいない。
「パンを配る首領を、初めて見ました」
僕が言うと、レヴィは視線を逸らした。
「毎朝です」
「お前も手伝うのか」
「私は、配る数を管理します」
「それを手伝うと言う」
「違います」
レヴィは記録板に数字を書き込んでいる。
孤児の人数。病人の人数。焼き上がったパンの数。余った分を診療所へ回す量。
冷たい数字だが、そこには一人ずつの名前があった。
数字へ変えたのではない。
数字になっても消えないように、名前を隣へ残している。
「お前は、子どもたちを守るために組織を軍事化したと言ったな」
「今も、そう思っています」
「パンの数まで管理するのか」
「武器より先に、食料が尽きます。理想を語るなら、失敗した時の死者数も計算しなければならない」
レヴィの言葉は厳しい。
だが、彼が記録板へ書き込む数字の一つ一つは、誰かを生かすために使われていた。
その事実が、かえって判断を難しくする。
黎明の瞳は、単純な悪ではない。
だからこそ、軍事部門が始めようとしている報復を止めなければならない。
食堂の奥には、教室があった。
壁に白い羽根が描かれ、長い机が三列並んでいる。子どもたちは木炭で文字を書いていた。
教師役の女性が、古い地図を広げる。
「灰色の羽根を見つけたら、まず何をする?」
「追いかける!」
「違う。周囲の人を呼ぶ」
「どうして?」
「羽根は、ひとりで逃げるための印ではないからです」
子どもたちが声を揃えた。
僕は、荷札から落ちた灰色の羽根を思い出した。
あれは誰かへ助けを求める標識だった。
助けを待つ人間のために、誰かが残したもの。
その教室の隣に、古い名簿が掛けられていた。
紙は何度も継ぎ足され、端が擦り切れている。名前の横には、保護した日、怪我の程度、行き先が記されていた。
一番古い日付は、十四年前だった。
名前の多くに、家族欄がない。
住んでいた村だけが書かれている。親の名前が消えているのではなく、最初から空白なのだ。
「この子たちは、十四年前に救援部隊が保護した子どもです」
教師が言った。
「王国軍は、負傷者を運ぶ余裕がないと言って、子どもたちを現地へ残しました。アーノルド様が、あとから全員を集めたのです」
「全員?」
「全員ではありません」
教師は名簿の下部へ目を落とした。
「見つからなかった子もいます。名前すら残らなかった子も」
その言葉が、胸の奥へ沈んだ。
救援撤回命令の紙に、書かれていなかった人々。
記録から消されたのではない。
最初から、記録へ入れられなかった。
アーノルドがこの場所を作った理由が、少しだけわかった。
誰かを救うだけでは足りない。
救われた人間が、いたことを残す必要がある。
その日の昼、軍事区画から魔導通信が届いた。
アーノルドは食堂から離れ、黒い羽根の印がある会議室へ入った。
僕とレヴィは、扉の外で話を聞いた。
「貴族区画への攻撃準備を進めろ」
アーノルドの声は、朝とは別人のように冷たかった。
「標的は公爵家と、救援撤回に関わった上級官僚。王都の中心部だけに、被害を限定する」
「限定する、というのは?」
軍事部門の男が尋ねる。
「民間人の避難路を先に開ける。灰印を使い、対象区画から人を出す」
「避難できない者は?」
アーノルドの沈黙が、長く続いた。
「安全のための犠牲だ」
その言葉を聞いた瞬間、背中が冷えた。
ギルドの掲示板にあった標語。
影班の古い命令に刻まれた言葉。
安全な場所にいる者が、犠牲になる人間を決めるための言葉。
レヴィの手が、魔導銃へ伸びた。
僕は、その手首をつかんだ。
昨夜の協定。
孤児院と診療所を戦場にしない。
今ここで撃てば、会議室の兵士たちが食堂へ流れ込み、子どもたちが逃げ場を失う。
「今は止めない」
僕が囁いた。
「だが、準備の経路を調べる。攻撃を止める証拠を取る」
レヴィは僕の手を振り払わなかった。
「父さんが命じた」
「それでも止める」
「父さんを守る条件と矛盾します」
「父さんを守ることは、父さんの命令を全部通すことではない」
会議室の中で、攻撃時刻が告げられた。
王都の貴族区画。
帝国軍が到着する前夜。
机の上では、王都の地図に赤い線が引かれていた。公爵家の周囲に避難路が三本。そのうち一本は、実際には子どもが通れないほど狭い。避難計画の数字だけを見れば、被害は限定されているように見える。
だが、現場の道幅を知る者なら、逃げ遅れる人間が出るとわかる。
レヴィも気づいたらしい。
「避難路の一つが偽装されています」
会議室の兵士が振り返った。
「何を根拠に?」
「地図の縮尺と、地下水路の曲がり方が合っていない。ここに人を流せば、出口で詰まる」
アーノルドは地図を見た。
赤い線の上へ、指を置く。
「修正しろ」
「しかし、修正すれば攻撃開始が遅れます」
「遅らせろ」
軍事部門の男が不満そうに息を吐いた。
「安全のための犠牲を、恐れているのですか」
アーノルドの指が止まった。
「犠牲を決める者が、安全な場所にいるだけだ」
朝の食堂でパンを配っていた父の声が、わずかに戻っていた。
それでも、攻撃命令そのものは取り消されない。
アーノルドは、守るために作った組織へ、報復のための命令を下していた。
そして壁の名簿には、十四年前に置き去りにされた子どもたちの名前が残っている。
僕は、食堂から聞こえる笑い声と、軍事区画の準備音を同時に聞いた。
黎明の瞳は、孤児院であり、学校であり、診療所であり、戦場へ向かう軍隊でもあった。




