地獄の底から来た男
暗号板の最後に刻まれた言葉を見た後、レヴィはしばらく黙っていた。
やがて、監視室の外へ顔を向ける。
「帝国軍の先遣部隊が、北境へ近づいている」
「暗号板にあった情報か」
「それだけではない。三時間前、北側の監視所から報告が届いた。雪原の向こうに、帝国式の魔導灯が見えた」
「帝国軍が来るなら、心臓を守る必要がある」
「違う」
レヴィは、僕を睨んだ。
「帝国軍だけを警戒しているのではない。心臓の移送計画を知っている者が、要塞の中にいる」
アーノルドが、通路の向こうから歩いてきた。
「強硬派の襲撃は、帝国の到着を知っていたからか」
「彼らは心臓を王都へ戻す計画を知っていました」
僕が暗号板を差し出すと、アーノルドは文字を読んだ。
黒い瞳が、輸送時刻の上で止まる。
「この計画は、私の承認を受けていない」
「なら、誰が立てた」
「わからない」
その返事の奥に、名前を口にできない沈黙があると僕にはわかった。
「帝国軍は二日後に到着する」
レヴィが言った。
「心臓の移送は三日後。計画通りなら、帝国軍が到着した後に王都へ送り出す」
「帝国軍を援軍として呼ぶつもりか」
「そう考える者がいる」
アーノルドは暗号板を見たまま答えた。
「だが、帝国軍は黎明の瞳を救うために来るわけではない。心臓を奪い、国境の力関係を変えるために来る」
「それを知っていて、なぜ止めなかった」
「帝国軍との交渉窓口を、軍事部門が握っている」
レヴィが言った。
「私がすべての信号を管理しているわけではない。旧救護部門の一部が、独自の連絡路を持っている」
「救護部門が、帝国と?」
「違う。救護部門を装った誰かが、帝国へ情報を流している」
その言葉が落ちると、通路の空気が変わった。
ここには孤児がいる。診療所がある。薬を運ぶ者がいる。誰もが軍事部門の構成員ではない。
だが、救護のための経路を知る者ほど、要塞の深部へ近づける。
「心臓保管室を調べる」
アーノルドが言った。
「出入りを許可した者は、私とレヴィだけだ」
「僕も見た」
「君は外から来た」
「だから、内部の足跡を見られる」
レヴィが僕を見た。
「ユーリを連れていく」
「監視役としてか」
「容疑者としてです」
心臓保管室へ戻ると、入口の封印は破られていなかった。
扉の前には二人の兵士が立っている。二人とも、レヴィの命令で配置された者だ。交代時刻も記録されている。
それでも、床には靴跡が残っていた。
ひとつ。
またひとつ。
雪解け水を含んだ泥が、石床へ薄く押しつけられている。
靴底の外周は細く、中央に三本の斜め溝がある。踵の部分には、魔力を逃がすための金属片が埋め込まれていた。
「帝国式の軍靴です」
レヴィが言った。
「北境の部隊が使う型。雪上で足を取られないため、踏み込みが浅い」
彼は屈み、泥を指先で触れた。
「だが、この泥は北境のものではない」
僕も鑑定板を取り出した。影班の道具は取り上げられたが、フィーナから受け取った簡易板だけは袖の縫い目に残していた。
泥を薄く伸ばす。
黒い粒。赤茶色の粘土。細かな石灰。
「石灰と煤が混ざっている。王都の地下道にある土です」
「帝国の北境から来た靴が、なぜ王都の泥を踏んでいる」
レヴィが問いかけた。
「帝国軍が来る前に、誰かが王都へ入った」
「あるいは、帝国軍の人間ではない者が帝国式の靴を履いている」
僕は靴跡を追った。
入口から保管室へ向かっている。歩幅は一定。急いでいない。見張りを避けるため、壁側を選んでいる。
侵入者は、保管室の前で止まった。
靴跡はそこで途切れている。
「戻った跡がない」
レヴィが言った。
「保管室へ入ったまま、出ていない」
「扉の封印は破られていない」
「なら、中へ入ったのではない」
僕は扉の横の壁へ手を当てた。
冷たい石の奥から、かすかに魔力の流れを感じる。壁の内部に細い空洞がある。古代遺跡の配管か、後から作られた隠し通路か。
「この壁、裏側が空いている」
レヴィがすぐに魔力を流した。
壁の一部に、薄い線が浮かぶ。
「開閉機構だ」
「誰が知っている?」
「私とお父様。それから、古い要塞図を見た者」
「多すぎる」
僕は線の周囲を調べた。
開閉機構の上に、羽根形の印が彫られている。避難誘導の印だ。軍事区画の隠し道ではない。もともとは、住民を心臓保管室から遠ざけるためではなく、危険な区画から逃がすための道だった。
「侵入者は、この要塞の古い用途を知っている」
「帝国軍が偶然見つけたとは思えない」
「内部に案内した者がいる」
アーノルドは、すぐに兵士を呼ばなかった。
「全区画を封鎖すれば、内通者は逃げる。逆に放置すれば、心臓へ近づかれる」
「なら、偽の移送計画を流す」
僕が言った。
「三つの部門へ、別々の偽情報を渡す。どの計画が外へ漏れるかを見れば、範囲を絞れる」
レヴィが僕を見た。
「影班のやり方です」
「追跡の基本だ」
「罠を仕掛けるのか」
「嘘を記録に残す。漏れた情報そのものを物証にする」
アーノルドは首を横に振った。
「偽の移送情報が軍事部門へ届けば、強硬派が先に動く。孤児院や診療所が戦場になる」
「では、全員へ本当の情報を渡す?」
「それでは内通者に、こちらが疑っていると伝わる」
判断が止まる。
守るべき人間が多いほど、取れる手段が減っていく。王国の捜査なら、容疑者を切り離して調べられる。ここでは、容疑者の隣に子どもが眠っている。
シアンが壁の灰印を見た。
「旧診療所へつながる避難路を使えば、心臓保管室の周囲を人に見られず確認できます」
「お前は、その道を知っているのか」
レヴィが尋ねた。
「連絡役だからな」
シアンの左手の親指が、外套の裾へ隠れた。
嘘かどうかは、まだ判断できない。
だが、彼がここを知りすぎていることだけは確かだった。
「シアンは診療所側を見ろ」
アーノルドが命じた。
「誰にも知られず、出入りの記録を確認しろ」
「了解」
シアンは頷いた。
その表情は穏やかだったが、目だけが一瞬、心臓保管室の扉へ向いた。
僕は、その視線を見逃さなかった。
アーノルドの顔が硬くなった。
「私たちの中に、帝国へ情報を流している者がいる」
その時、保管室の奥から小さな音がした。
金属が擦れる音。
僕とレヴィは同時に振り返った。
矢が飛んできた。
レヴィが魔導銃を上げ、僕が身体を横へ滑らせる。矢は二人の間を抜け、背後の石壁へ突き刺さった。
矢羽根は黒い。
軸の根元には、削り取られた紋章の跡が残っていた。
王国貴族の家紋。
誰かが、わざと削っている。
敵の正体を隠すためではない。
王国の印を使ったことを、見られたくないために。




