知らないはずの言葉
監視室へ戻っても、あの夜のレヴィの言葉は耳から離れなかった。
――前世でも、お前は最後に、待っている仲間を置いていった。
僕は、暗号板の文字を見つめた。
崩壊するビルで爆死した特務の犬。
誰かが、この世界で作った金属板に刻んだ言葉だ。
だからこそ、現実味があった。
誰かが僕の前世を知っている。
「あの作戦を、知っているのか」
僕は尋ねた。
「知っている」
レヴィは魔導銃を下げた。
だが、警戒は解いていない。銃口だけが床を向き、いつでも僕へ戻せる。
「お前は、民間人を巻き込む爆破命令を拒否した」
「……」
「敵の施設には、避難できていない住民が残っていた。こちらの部隊は包囲され、時間がなかった。建物の地下に魔導爆薬を仕掛け、全員を瓦礫ごと埋める。それが最も損害の少ない方法だった」
胸の奥に、冷たい壁が立ち上がった。
レヴィは魔導爆薬と言った。
だが、記憶の底にあるのは、魔力を使わない爆薬だ。乾いた金属音。短い警告灯。建物の内部へ通された細い線。
だが、形だけが見えない。
「お前は命令を拒否し、救出へ向かった」
「民間人を置いていくわけにはいかなかった」
「その言葉は、今世でも同じか」
「人がいるなら、助ける」
「それで、何人を救えた?」
レヴィの声が鋭くなった。
「お前が戻ったせいで、崩落が早まった。避難路が塞がり、部隊の通信が切れた。私は、お前に退路を確保しろと言った」
「僕が?」
「そうだ。お前は民間人を外へ出す役目を、私へ押しつけた」
頭の奥で、何かが軋んだ。
暗い建物。
粉塵の中を走る足音。
遠くで泣く声。
誰かへ指示を出している自分。
レヴィの顔は、今より若い。服装も、この世界のものではない。手には、あの魔導銃ではない武器がある。
それでも、目だけは同じだった。
失敗する前に、すべてを計算しようとする目。
「私は、お前が戻ってくると思っていた」
レヴィは言った。
「だから、退路を開けたまま待った。爆発の二次崩落が起きても、戻れるようにしていた」
「どれくらい?」
「七分」
数字が、即座に返ってきた。
「七分後に、建物の東側が崩れた。私は救出班へ撤退を命じた。だが、私は撤退しなかった」
「僕を待っていたからか」
「お前が戻ると思っていたからだ」
レヴィは膝の上で指を折った。
一つ目は時刻。二つ目は崩落した区画。三つ目は、残った部隊の数。
指が止まった時だけ、彼の呼吸が乱れた。
「私は、何度も通信を送った。返事はなかった。最後に聞こえたのは、雑音と、誰かの呼吸だった」
「僕の呼吸か」
「わからない」
「それでも、僕が逃げたと思った」
「戻らなかった人間を、別の理由で説明する必要があった」
レヴィの声は硬かった。魔導銃の銃床を握る指だけが、わずかに震えている。
「死んだと認めれば、私の仕掛けた爆薬がお前を殺したことになる。だから、私は一番簡単な答えを選んだ」
「僕が仲間を置いて逃げた」
「そうすれば、私はお前を憎める」
その言葉の重さに、僕は何も返せなかった。
「なら、なぜ建物が崩れた」
「お前が中へ入ったからだ」
「僕が?」
「内部の支柱へ仕掛けた爆薬が、想定より早く作動した。建物全体が傾き、上階が落ちた。私は外から撤退を命じた」
「民間人は?」
「救出班を向かわせた」
「お前は?」
「私は、お前の返事を待った」
レヴィの指が、魔導銃の銃床を握る。
「最後に一度だけ、通信が戻った。雑音と呼吸の向こうで、お前の声らしいものが聞こえた」
レヴィ自身が、途切れた声を十四年以上抱えていた。
「何と言った」
「わからない」
レヴィの答えは、怒りよりも疲れていた。
「音が途切れた。建物が崩れた。私は、お前が先に逃げたと思った」
「僕が、仲間を置いて?」
「そうだ」
「なぜ、そう思う」
「瓦礫の下から、お前の身体だけが見つからなかったからだ」
言い返そうとした。
だが、言葉が出ない。
僕の記憶にも、崩壊した建物の内部がある。
最後の時間へ手を伸ばすと、右手の指が固まった。
輸送記録の空白なら、紙を探せる。けれど、前世の空白には紙がない。
残っているのは、瓦礫の匂いと、途切れた呼吸だけだった。
「暗号板に、あの呼び名を書いたのはお前か」
「違う」
レヴィは即答した。
「私は、あの言葉を他人へ教えていない」
「なら、誰が書いた」
「帝国の情報部か、私たちの内部にいる転生者か」
その可能性を口にした瞬間、レヴィの顔から血の気が引いた。
前世の知識が、この世界の軍事技術へ混ざっている。レヴィだけではない。魔導爆薬の安全機構、暗号板の空白、心臓を王都へ戻す計画。
誰かが、異なる世界の知識を集めている。
「お前は、死んだはずだった」
レヴィが僕を見た。
「あの崩落の中で、私が確認した。生存反応なし。通信なし。瓦礫の下には、お前の装備だけが残っていた」
「僕は、どうやってここへ来た」
「知らない」
レヴィは初めて、答えを持たない顔をした。
僕も知らない。
ただ、何かが背中へ触れた感覚だけが、記憶の底に浮かんだ。
熱い粉塵。
崩れる床。
自分の腕を、誰かがつかんでいる。
背後から引きずられる感触。
僕は振り返ろうとした。
その直後、世界が白くなった。
「誰かが、僕を引きずった」
言葉が、勝手にこぼれた。
レヴィの表情が固まった。
「誰が?」
「わからない」
背中に残る感触だけが、確かだった。指は肩ではなく、装備の留め具にかかっていた。引かれた方向も覚えている。
助けられたのか、連れ去られたのか。それとも崩落に押し出されただけなのか。そこから先は、まだ瓦礫の中にある。
レヴィは魔導銃を握り直した。
「逃げたのではないと、証明できるか」
僕は答えられなかった。
証明できない記憶は、他人から見れば言い訳と同じだ。
そしてレヴィは、十四年間その言い訳を待ち続けていた。




