白髪の男の受領印
心臓の脈動が、地下室の壁をゆっくり震わせていた。
アーノルドは台座へ近づき、古代兵器の表面に手を触れた。
黒い金属でできた心臓は、血管のような細い光を内側へ走らせている。脈動のたび、冷たい空気が押し出され、僕の指先から体温を奪った。
「これは、まだ起動していない」
「起動させるつもりは?」
「ない」
アーノルドは答えた。
だが、台座の周囲には複数の封印がある。三重に重ねられた魔力の線。輸送箱に施されていた封印と似ているが、こちらは所有権ではなく、起動を止めるためのものだった。
「なら、なぜ運び出した」
「公爵家が起動させるからだ」
「証拠は?」
「今から見せる」
アーノルドは心臓から手を離した。
その動作が、妙に慎重だった。
触れてはいけないものを扱う手つきではない。長い間、守ってきたものから離れる手つきだった。
彼は僕を最深部から別の通路へ案内した。心臓を見張る兵士たちは、僕を見て魔導銃へ手をかけたが、アーノルドが目を向けると、すぐに下ろした。
首領としては、命令が通る。
父親としては、僕へ何も言えない。
その距離が、十四年分の時間より遠く感じられた。
通路の先に、小さな執務室があった。
机と書棚。壁に掛けられた古い地図。軍用の外套。王国軍の黒い封蝋が押された命令書。
そして、机の端に置かれたあの羽根。
その隣に、小さな靴が一足あった。
子ども用の、擦り切れた革靴。
僕は足を止めた。
見覚えがある。
十四年前、母が縫い直してくれた靴だった。右の靴紐だけが短く、歩くたびにほどけた。父が何度も結び直してくれた。出発の朝も、父は予備の一足を自分の荷へ入れた。帰ったら新しい紐をつけてやる、と言って。
「まだ持っていたのか」
アーノルドは答えなかった。
白髪の奥に隠れた顔が、わずかに歪む。
「捨てられなかった」
「僕は、捨てたのに」
「捨てた?」
「父さんが僕を」
言葉にした途端、胸の中へ押し込めていたものが崩れた。
「何も言わずにいなくなった。帰ってくると言ったのに帰ってこなかった。母さんも、僕に何も教えなかった。王国は父さんを死んだことにして、影班は生きていることを隠していた」
僕は机の上の靴を睨んだ。
「それなのに、父さんはここで僕の靴を持っていた。僕を忘れていなかった証拠みたいに」
「忘れていない」
アーノルドの声が低くなった。
「忘れたことなど、一日もない」
「なら、なぜ迎えに来なかった」
「迎えに行けば、君を巻き込む」
「もう巻き込まれている」
「今の君は、影班に所属している。私を殺す任務を受けてここへ来た」
「僕が望んで受けた任務ではない」
「それでも来た」
アーノルドは机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
古い紙だ。端が焼け、文字の一部が黒く崩れている。王国軍の救援命令。グラキエス南部の部隊へ、追加の補給と避難誘導を行うためのもの。
日付は十四年前。
その下に、別の命令が重ねられている。
――救援を撤回する。
――現地部隊は独自判断で撤収せよ。
――住民の保護は、王国軍の任務に含まれない。
僕の呼吸が止まった。
「これが、父さんを捨てた命令か」
「君を捨てたのは、私ではない」
「結果は同じだ」
アーノルドの指が紙の端を強く押さえた。
「私が部隊を率いていた。私が住民を守ると約束した。だから、命令が撤回された時、私は戻るべきだった」
「戻れなかった?」
「戻らなかった」
彼は自分で言い直した。
「戻れば、救援部隊ごと消される。生き残った者を逃がすには、王国軍の名前を捨てるしかなかった」
アーノルドの視線が、机の上の靴へ落ちた。
右の靴紐だけが、十四年前と同じようにほどけている。
「君のところへ戻れば、私の居場所が知られる。だから、戻らなかった」
「それが正しい判断だと思っていた」
「今も?」
「思い続けなければ、生き残った者へ説明できなかった」
父の頬を、一筋の涙が伝った。
アーノルドはそれを拭わなかった。
軍事部門の兵士へ命令する顔とも、孤児院でパンを分ける顔とも違う。どちらにもなれない、ただの父親の顔だった。
「ユーリ」
彼が名前を呼ぶ。
僕は一歩下がった。
抱きしめられたくなかった。
抱きしめてほしかった。
どちらの気持ちも、同時に存在していた。
アーノルドも手を伸ばしかけ、止めた。父親として触れれば、首領としての立場が崩れる。首領として拘束すれば、父親としての最後の距離が消える。
代わりに彼は、机の上の古い靴を僕の側へ少しだけ寄せた。
靴を寄せた拍子に、机の端から黒い命令書が落ちた。
僕は紙を拾い、署名欄を見た。
王国軍の印は残っている。
だが、最後の署名だけが黒く塗りつぶされていた。
焼けた跡ではない。
黒い塗料が、署名の筆圧に沿って薄くなっている。誰かが名前を消したのではなく、名前を見せないために上から覆ったのだ。紙の繊維の隙間には、古い魔力の残滓が残っている。
「この署名を消したのは、父さんか」
「違う」
「なら、命令を書いた人間か」
「命令を書いた者が、自分の名前を消したのかもしれない。あるいは、別の誰かが責任を隠すために消したのかもしれない」
アーノルドは紙を見つめた。
「私がここへ持ってきた時には、すでに黒く塗られていた」
「それでも、十四年間保管していた」
「忘れないためだ」
「何を」
「私が救えなかった人間の数を」
彼は、命令書の下に積まれた薄い記録束へ触れた。名前の一覧。年齢。負傷の程度。避難した場所。途中で途切れた記録。
「公爵家が責任を否定しても、ここには生きていた人間の名前が残っている。私はそれだけを守るために、黎明の瞳を作った」
「それだけなら、武器はいらなかった」
「最初は、いらなかった」
アーノルドの顔に、疲れた影が落ちた。
「何度も救援を求めた。王国の窓口へ記録を送り、辺境の被害を報告した。返ってきたのは、予算がない、管轄が違う、騒ぎを広げるなという返事だった」
「だから、武器を取った」
「武器を取らなければ、誰もこちらを見なかった」
「武器を取ったから、誰かを傷つける理由を得た」
アーノルドは反論しなかった。
その沈黙が、僕には一番腹立たしかった。父が正しいと認めてほしいわけではない。間違っているなら、間違っていると言ってほしかった。
「父さんは、僕を守ったつもりかもしれない」
僕は靴を指した。
「でも、僕に残ったのは、帰ってこなかった背中だけだ」
アーノルドの手が、古い靴の上で止まった。
「誰が命令した」
「わからない」
「父さんが知らないはずがない」
「知っている」
アーノルドは目を閉じた。
「だが、名前を口にすれば、ここにいる子どもたちが殺される」
「だから、黎明の瞳を武装化したのか」
「守る力が必要だった」
「力を持った者が、王都の人間を殺しても?」
返事はなかった。
その沈黙が、父の罪を認めているように聞こえた。
背後で、魔導銃の安全装置が外れる音がした。
「お父様」
若い男の声が、執務室へ冷たく響いた。
「そいつはスパイです」
振り返る。
黒髪の青年が、魔導銃を僕へ向けて立っていた。
その目は、アーノルドに似ていた。
だが、温度がない。




