↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『偽りの封印と灰色の伝票』 ~元特務潜入員の配達員は、改ざんされた記録で巨悪を暴く~  作者: NN
雪下の要塞と、消された救援命令編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

42/121

白髪の男の受領印

 心臓の脈動が、地下室の壁をゆっくり震わせていた。


 アーノルドは台座へ近づき、古代兵器の表面に手を触れた。


 黒い金属でできた心臓は、血管のような細い光を内側へ走らせている。脈動のたび、冷たい空気が押し出され、僕の指先から体温を奪った。


「これは、まだ起動していない」


「起動させるつもりは?」


「ない」


 アーノルドは答えた。


 だが、台座の周囲には複数の封印がある。三重に重ねられた魔力の線。輸送箱に施されていた封印と似ているが、こちらは所有権ではなく、起動を止めるためのものだった。


「なら、なぜ運び出した」


「公爵家が起動させるからだ」


「証拠は?」


「今から見せる」


 アーノルドは心臓から手を離した。


 その動作が、妙に慎重だった。


 触れてはいけないものを扱う手つきではない。長い間、守ってきたものから離れる手つきだった。


 彼は僕を最深部から別の通路へ案内した。心臓を見張る兵士たちは、僕を見て魔導銃へ手をかけたが、アーノルドが目を向けると、すぐに下ろした。


 首領としては、命令が通る。


 父親としては、僕へ何も言えない。


 その距離が、十四年分の時間より遠く感じられた。


 通路の先に、小さな執務室があった。


 机と書棚。壁に掛けられた古い地図。軍用の外套。王国軍の黒い封蝋が押された命令書。


 そして、机の端に置かれたあの羽根。


 その隣に、小さな靴が一足あった。


 子ども用の、擦り切れた革靴。


 僕は足を止めた。


 見覚えがある。


 十四年前、母が縫い直してくれた靴だった。右の靴紐だけが短く、歩くたびにほどけた。父が何度も結び直してくれた。出発の朝も、父は予備の一足を自分の荷へ入れた。帰ったら新しい紐をつけてやる、と言って。


「まだ持っていたのか」


 アーノルドは答えなかった。


 白髪の奥に隠れた顔が、わずかに歪む。


「捨てられなかった」


「僕は、捨てたのに」


「捨てた?」


「父さんが僕を」


 言葉にした途端、胸の中へ押し込めていたものが崩れた。


「何も言わずにいなくなった。帰ってくると言ったのに帰ってこなかった。母さんも、僕に何も教えなかった。王国は父さんを死んだことにして、影班は生きていることを隠していた」


 僕は机の上の靴を睨んだ。


「それなのに、父さんはここで僕の靴を持っていた。僕を忘れていなかった証拠みたいに」


「忘れていない」


 アーノルドの声が低くなった。


「忘れたことなど、一日もない」


「なら、なぜ迎えに来なかった」


「迎えに行けば、君を巻き込む」


「もう巻き込まれている」


「今の君は、影班に所属している。私を殺す任務を受けてここへ来た」


「僕が望んで受けた任務ではない」


「それでも来た」


 アーノルドは机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。


 古い紙だ。端が焼け、文字の一部が黒く崩れている。王国軍の救援命令。グラキエス南部の部隊へ、追加の補給と避難誘導を行うためのもの。


 日付は十四年前。


 その下に、別の命令が重ねられている。


 ――救援を撤回する。


 ――現地部隊は独自判断で撤収せよ。


 ――住民の保護は、王国軍の任務に含まれない。


 僕の呼吸が止まった。


「これが、父さんを捨てた命令か」


「君を捨てたのは、私ではない」


「結果は同じだ」


 アーノルドの指が紙の端を強く押さえた。


「私が部隊を率いていた。私が住民を守ると約束した。だから、命令が撤回された時、私は戻るべきだった」


「戻れなかった?」


「戻らなかった」


 彼は自分で言い直した。


「戻れば、救援部隊ごと消される。生き残った者を逃がすには、王国軍の名前を捨てるしかなかった」


 アーノルドの視線が、机の上の靴へ落ちた。

 右の靴紐だけが、十四年前と同じようにほどけている。


「君のところへ戻れば、私の居場所が知られる。だから、戻らなかった」


「それが正しい判断だと思っていた」


「今も?」


「思い続けなければ、生き残った者へ説明できなかった」


 父の頬を、一筋の涙が伝った。


 アーノルドはそれを拭わなかった。


 軍事部門の兵士へ命令する顔とも、孤児院でパンを分ける顔とも違う。どちらにもなれない、ただの父親の顔だった。


「ユーリ」


 彼が名前を呼ぶ。


 僕は一歩下がった。


 抱きしめられたくなかった。


 抱きしめてほしかった。


 どちらの気持ちも、同時に存在していた。


 アーノルドも手を伸ばしかけ、止めた。父親として触れれば、首領としての立場が崩れる。首領として拘束すれば、父親としての最後の距離が消える。


 代わりに彼は、机の上の古い靴を僕の側へ少しだけ寄せた。


 靴を寄せた拍子に、机の端から黒い命令書が落ちた。


 僕は紙を拾い、署名欄を見た。


 王国軍の印は残っている。


 だが、最後の署名だけが黒く塗りつぶされていた。


 焼けた跡ではない。


 黒い塗料が、署名の筆圧に沿って薄くなっている。誰かが名前を消したのではなく、名前を見せないために上から覆ったのだ。紙の繊維の隙間には、古い魔力の残滓が残っている。


「この署名を消したのは、父さんか」


「違う」


「なら、命令を書いた人間か」


「命令を書いた者が、自分の名前を消したのかもしれない。あるいは、別の誰かが責任を隠すために消したのかもしれない」


 アーノルドは紙を見つめた。


「私がここへ持ってきた時には、すでに黒く塗られていた」


「それでも、十四年間保管していた」


「忘れないためだ」


「何を」


「私が救えなかった人間の数を」


 彼は、命令書の下に積まれた薄い記録束へ触れた。名前の一覧。年齢。負傷の程度。避難した場所。途中で途切れた記録。


「公爵家が責任を否定しても、ここには生きていた人間の名前が残っている。私はそれだけを守るために、黎明の瞳を作った」


「それだけなら、武器はいらなかった」


「最初は、いらなかった」


 アーノルドの顔に、疲れた影が落ちた。


「何度も救援を求めた。王国の窓口へ記録を送り、辺境の被害を報告した。返ってきたのは、予算がない、管轄が違う、騒ぎを広げるなという返事だった」


「だから、武器を取った」


「武器を取らなければ、誰もこちらを見なかった」


「武器を取ったから、誰かを傷つける理由を得た」


 アーノルドは反論しなかった。


 その沈黙が、僕には一番腹立たしかった。父が正しいと認めてほしいわけではない。間違っているなら、間違っていると言ってほしかった。


「父さんは、僕を守ったつもりかもしれない」


 僕は靴を指した。


「でも、僕に残ったのは、帰ってこなかった背中だけだ」


 アーノルドの手が、古い靴の上で止まった。


「誰が命令した」


「わからない」


「父さんが知らないはずがない」


「知っている」


 アーノルドは目を閉じた。


「だが、名前を口にすれば、ここにいる子どもたちが殺される」


「だから、黎明の瞳を武装化したのか」


「守る力が必要だった」


「力を持った者が、王都の人間を殺しても?」


 返事はなかった。


 その沈黙が、父の罪を認めているように聞こえた。


 背後で、魔導銃の安全装置が外れる音がした。


「お父様」


 若い男の声が、執務室へ冷たく響いた。


「そいつはスパイです」


 振り返る。


 黒髪の青年が、魔導銃を僕へ向けて立っていた。


 その目は、アーノルドに似ていた。


 だが、温度がない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。