鐘楼の引き金
東側の死角へ飛び込んだ瞬間、背後から複数の足音が響いた。
誰も、クリスの名前を呼ばない。
呼べば、死んだ仲間を悼む声になる。追撃者たちが必要としているのは、仲間の死ではなく、裏切り者を追う理由だった。
僕は鐘楼の壁に背をつけ、息を殺した。
掌に残る魔導銃の反動が、まだ消えていない。
左肩を貫いた。
血液嚢は破れた。防具の内側で魔導弾が止まったかどうかは、ここからでは確認できない。
クリスが落ちる直前に動かした左手。
二度。
あれが生存の合図なら、彼はまだ生きている。だが、合図は計画の中に含まれていなかった。撃たれた後に身体を動かせる保証など、どこにもない。
下から、ガウェインの声が聞こえた。
「ユーリ・クロムウェル! 魔導銃を捨てろ!」
僕は返事をしなかった。
彼の命令は正しい。僕は影班の仲間を撃った。目撃者は複数いる。現場に残った血の量も、落ちた身体も、反逆を示すには十分だ。
僕がここで投降すれば、クリスの死は無駄になる。
僕は屋根の縁へ走り、隣の建物へ飛び移った。
着地した瞬間、背後で魔導銃の発射音が響いた。弾は僕の足元をかすめ、古い瓦を砕く。
ガウェインは、撃つことを選んだ。
だが、狙いは外している。
殺すためではない。逃がさないための射撃だ。
「死体の確認まで、追跡を終えない」
屋根の向こうから、彼の声が届いた。
「私は、まだ最後の証拠を見ていない!」
僕は一瞬だけ振り返った。
ガウェインは、鐘楼の屋上から動いていなかった。魔導鑑定鏡を下ろし、僕を見ている。
止められる距離なのに、止めない。
彼は、僕を信じたわけではない。
ただ、死体を確認するまで、僕を完全な裏切り者とは決めなかった。
その迷いに助けられ、僕は北側の屋根へ身を滑らせた。
屋根の端には、古い排水路の蓋がある。手袋を外し、錆びた留め具を二つ外した。地下へ続く保守用の階段が現れる。
階段を下りた途端、王都の音が遠ざかった。
暗い水路の壁には、かつて影班が使っていた誘導印が残っていた。三角形の印。矢印。消えかけた数字。
僕は走りながら、懐の魔導通信札を確認した。
新しい記録が、次々に届いている。
――王立輸送ギルド所属、ユーリ・クロムウェル。古代兵器盗難の主犯。
――影班所属、クリス・ハルトマン殺害の容疑。
――王国特務捜査隊の追跡対象。発見時は抵抗を許可しない。
――黎明の瞳への潜入を警戒。関係者を拘束せよ。
王国、特務捜査隊、ギルド、影班。
四つの組織から、別々の言葉で同じ人物を追っている。
僕だ。
――同じ頃、鐘楼の下。
雪に埋もれたクリスの身体の下で、薄い救命具がゆっくりと膨らんでいた。胸部防具に仕込まれた魔力袋が落下の衝撃を吸収し、血液嚢から流れた赤を本物の負傷に見せながら、最低限の呼吸だけを維持している。
左肩の痛みで、クリスは意識を失いかけていた。
それでも、屋上から落ちる直前に左手を二度動かした。
合図を見た者がいるかどうか、確かめる余裕はなかった。
やがて、雪を踏む足音が近づいた。
ガウェインだった。
彼は倒れたクリスのそばに膝をつき、脈を確認した。死んでいない。だが、傷は偽物ではない。胸部防具の縁が砕け、左肩からは本物の血が流れている。
「影班も、無茶をする若手を育てたものだ」
ガウェインは低く呟いた。
クリスの左手が、雪の上で二度動いた。
ガウェインはその手を外套で隠した。
「死体は確認できなかった。そう記録する」
クリスの唇が、かすかに動く。
「……先輩は」
「もう地下道へ入った」
「追わないで……」
「追う。追わなければ、全員に疑われる」
ガウェインは立ち上がった。
「だが、捕まえるかどうかは、私が最後の証拠を見てから決める」
彼は周囲へ視線を向け、クリスの身体を雪の陰へ隠した。救命具が完全に作動するまで、誰にも見つからない場所を選ぶ。
救命具が膨らみ切ったのを確認すると、ガウェインは雪の下へ回収用の白札を差し込んだ。王都北側にある、特務捜査隊の隠し診療所へ運ぶための合図だ。
回収班が到着するまで、彼はクリスの肩を仮固定具で押さえ、出血を止めた。傷は本物だったが、命を失うほどではない。
その後、ガウェインは僕を追うために地下道へ向かった。
クリスが生きていることを知った者は、まだ少ない。
知っている者たちは、互いを完全には信じていない。
だからこそ、この作戦は成立する。
古代兵器を運んだだけの配達員。
影班の反逆者。
仲間殺しの暗殺者。
記録の中で、僕の名前が別人へ変わっていく。
水路の分岐で、僕は足を止めた。
右へ行けば北門。左へ行けば、王都の地下道を抜けて旧塩鉱道へつながる。エレオノーラから渡された地図には、左の道に黒い印がついていた。
黎明の瞳へ向かう道。
父が生きている可能性のある場所。
僕は、首から下げていた影班の認識票を取り出した。
黒い金属板には、僕の名前と所属が刻まれている。これを持っていれば、影班の一員だと証明できる。逆に言えば、これを持っている限り、僕は影班から完全には逃げられない。
認識票を水路の底へ落とした。
金属板が水に沈み、黒い光が消える。
その隣に、灰色の羽根を置こうとして、手が止まった。
その印は、影班のものではない。
十四年前、誰にも記録されなかった救援の跡。助けを待ちながら、地図から消された人々の存在を示すものだ。
僕は羽根だけを外套の内側へ戻した。
公的な身分は捨てる。
だが、消された人々の証拠までは捨てない。
その時、水路の奥から三つの音が聞こえた。
軽い足音ではない。
魔導靴が石を踏む音。複数いる。
追手が、もう分岐へ到着した。
僕は左の道へ走った。
だが、左の道は数分で終わる近道ではなかった。王都の地下水路から旧塩鉱道へつながる、地図から消された長距離の救護輸送路だ。
途中、古い鉄扉があった。封印は壊れている。誰かが最近、開けた跡だ。扉の裏側には、羽根形の誘導印が刻まれている。
その先は、崩れた坑道を迂回するため何度も地上へ出て、雪原を横切り、別の入口へ潜る道だった。僕は追手を撒きながら、廃棄された救護庫で水と乾燥食を補給し、二度の夜を岩陰で越えた。
王都の鐘楼を出てから、三日目の夕方。
ようやく、最後の鉄扉にたどり着いた。
黎明の瞳が、僕を待っている。
そう考えた瞬間、背後で魔導通信札が震えた。
新しい記録が一つだけ届いた。
――逃亡者を確認。地下道の出口で待つ。
送信者の名前はなかった。
僕は最後の鉄扉を抜け、雪の積もった地下道へ出た。
出口の先には、灰色の荒野が広がっている。風が強く、雪が横殴りに吹きつけていた。
その中央に、一人の男が立っていた。
白髪。長い外套。左手には古い軍用杖。顔には深い皺が刻まれている。
十四年前の記憶にある父より、ずっと老いていた。
けれど、立ち方は同じだった。
敵を見ながら、背後の逃げ道も守る立ち方。
男は僕を見た。
その目に、驚きと痛みが浮かぶ。
「……ユーリ」
声を聞いた瞬間、胸の奥にしまっていた記憶が揺れた。
雪の夜。
遠ざかる背中。
戻ってこなかった父。
男は一歩だけ前へ出た。
「よく来た」
僕は魔導銃へ手を伸ばした。
父の背後には、地下要塞へ続く隠し道がある。
その先に、黎明の瞳の本拠地と、盗まれた本物の心臓がある。
シアンの言った「王都の地下」は、嘘ではなかった。王都の地下から、この長い救護路を抜けた先だと言わなかっただけだ。
僕の父、アーノルド・クロムウェルは、逃げずにそこで待っていた。




