左肩に残る合図
鐘楼の屋上には、朝から強い風が吹いていた。
雲は低く、王都の屋根を灰色に覆っている。遠くの通りでは、まだ人々が一日の仕事を始めたばかりだった。
この場所で、影班員が一人死ぬ。
正確には、死んだように見せる。
だが、撃つ弾も、流す血も、本物だった。
「もう一度、確認する」
僕はクリスの左肩に固定された防具を見た。
「弾は肩の外側を貫通させる。魔力核が内側へ逸れれば、胸部防具で止まる。血液嚢は着弾の衝撃で破裂する」
「はい」
「弾道が一寸でもずれれば、肺へ入る」
「はい」
「お前は死ぬ」
「そこだけ、三回も言わなくて大丈夫です」
クリスは笑った。
顔色は悪い。軽口で隠しているが、呼吸が浅い。左手の指が、何度も防具の留め具を確かめていた。
怖いのだ。
当たり前だった。
「手が震えている」
「先輩のせいです」
「僕が撃つからか」
「先輩が狙いを外せば、俺は死なない。でも、当てても死ぬかもしれない。どっちにしても怖いですよ」
クリスは魔導銃の弾倉を確認した。
弾倉の中にあるのは、一発だけだ。魔力核の色は薄い青。殺傷用の弾としては弱いが、肩の骨を砕き、防具の内側で止めるには十分だった。
「偽装弾に変える気は?」
「ありません」
「なぜだ」
「先輩が昨日、使えないと言ったからです」
「僕の判断が間違っている可能性は考えないのか」
「考えました」
クリスは屋上の縁から、下の街を見た。
「でも、先輩が間違うなら、俺は先輩の判断を見てから間違いたい」
その言い方は、軽口に似ていた。
だが、目は笑っていない。
彼は僕を信じているのではない。
僕が迷った時に、迷ったまま撃たないことを信じようとしている。
それが、いちばん重かった。
鐘楼の下で、馬車が止まった。
王国特務捜査隊の紋章を隠した黒い馬車。続いて、屋根の上に影班の追撃役が二人現れる。さらに遠く、向かいの塔の影に、見慣れない外套の男がいる。
公爵家の監視役だろう。
「客が来ました」
クリスが言った。
「特務捜査隊が一人。影班が二人。公爵家が一人」
「その中に、僕たちの作戦を知る者はいない」
「そう聞いています」
「聞いただけか」
「最高司令の命令は、先輩を黎明の瞳へ送り込むこと。俺が生きていると知られれば、潜入が破綻すること。そこまでです」
クリスは、わざと大きな声を出した。
「ユーリ・クロムウェル! 影班最高司令の命令により、反逆容疑で拘束する!」
下から返事があった。
「抵抗するな!」
王都の風に、言葉が散る。
僕は外套を脱ぎ捨てた。影班の身分証が屋上を滑り、黒い封印のついた命令書が風に煽られる。
「先輩。ここからは、俺たちは敵です」
「わかっている」
「本当に?」
「お前の肩を撃つ」
「なら、俺も先輩を追います」
クリスは魔導銃を構えた。
まだ発射しない。魔導銃の照準だけを僕へ向け、追撃者から見て本気に見える角度を取る。
僕は屋上の反対側へ走った。
足音を大きくする。逃げているように見せるためだ。クリスが追い、魔導銃の発射音がひとつ、二つ、空へ散った。
威嚇弾だった。
鐘楼の壁が震え、古い鐘の表面から錆が落ちる。
向かいの屋根で、ガウェインが魔導鑑定鏡を上げていた。
いつからいたのかはわからない。
特務捜査隊きっての腕利きは、僕たちの動きを見ていた。
彼なら、僕が本気で逃げているのか、クリスが本気で追っているのかを見分けられるはずだった。だが、状況だけでは判断できない。影班の命令書は本物で、僕の身分証も屋上へ投げ捨てられている。僕が裏切ったという証拠は、もう十分に揃っていた。
それでもガウェインは、すぐには動かなかった。
最初の証言と最後の証拠を照合する。
彼の口癖が、風の向こうから聞こえた気がした。
最後の証拠がまだないから、彼は僕を止められない。
彼の目は僕ではなく、クリスの足元と魔導銃の角度を追っている。誰が追い、誰が逃げているのか。撃つ意思があるのか。判断しようとしている。
僕は鐘楼の縁で足を止めた。
背後から、クリスが近づく。
風が二人の間を抜けていく。
「三」
僕が呟いた。
敵の位置を見る。
北の屋根に二人。階段の下に一人。向かいの塔に、公爵家の監視役。ガウェインは、僕たちの射線から外れている。
「二」
逃げ道を確認する。
西側の屋根へ飛び移れる。だが、そこには追撃者がいる。南の路地へ降りれば、馬車に囲まれる。東側の鐘の裏だけが、短い時間の死角になる。
クリスの左手が、わずかに動いた。
予定通りの位置へ立つ合図だった。
僕は、彼の肩の先にある空を見た。
そこには、昨日までと同じ王都がある。配達人が荷車を押し、店の主人が看板を出し、誰もこの鐘楼で一人の若者が血を流すことを知らない。
世界は、誰かの犠牲を見なくても動いていく。
だから記録が必要になる。見ていない者へ、何が起きたかを渡すために。
だが今回、記録に残るのは、僕が仲間を撃ったという嘘だった。
「一」
僕は魔導銃を構えた。
照準の先に、クリスの左肩がある。
「先輩」
クリスが小さく呼んだ。
その声に、恐怖が混じった。
僕の指が引き金に触れる。
中止しろ。
頭の中で、何度も命令した。
別の方法を探せ。
だが、別の方法を探している間に、監視役が僕たちの芝居を見破る。クリスが生きていると知られれば、黎明の瞳へ近づく前に、影班の潜入計画そのものが消える。
父の生存。
心臓の所在。
十四年前の救援撤回命令。
すべてを追うために、僕は一人の仲間を撃つ。
魔導銃の発射音が、ひび割れた鐘楼を揺らした。
青白い魔導弾が、クリスの左肩を貫いた。
防具が砕け、血液嚢が弾ける。
赤い血が、雪の上へ広がった。
クリスの身体が大きくのけぞる。
ガウェインが、何かを叫んだ。
だが、鐘の響きと風の音に消えた。
クリスは倒れる直前、左手を二度動かした。
一度。
そして、もう一度。
僕にしか見えないほど小さな動きだった。
生きている。
そう伝えているのかもしれない。
それでも、身体は屋上の縁を越えた。
「クリス!」
僕が手を伸ばすより早く、彼の姿が消える。
次の瞬間、鐘楼の下から、重い落下音が響いた。
追撃者たちが息を呑む。
向かいの屋根で、ガウェインが動きを止めた。
僕は魔導銃を捨て、血の跡だけを残して、東側の死角へ走った。
影班の後輩を撃った反逆者として。
父を殺すために送り込まれる、帰還不能の駒として。
そして、クリスが残した二度の合図だけを胸に抱えて。




