鐘楼の密談
旧王立劇場を出た時、朝の王都はまだ薄暗かった。
人通りの少ない通りを歩きながら、僕は命令書を外套の内側へしまった。黒い封蝋の冷たさが、布越しに胸へ伝わっている。
父を暗殺する。
影班の仲間を撃つ。
どちらも、僕が受け入れた任務だった。
もちろん、本心ではない。
だが、命令に反発すれば、エレオノーラの周囲にいる裏切り者へ情報が流れる。僕が何を疑い、何を拒んだのかまで、誰かに報告される。
従うふりをすること自体が、最初の潜入だった。
王都の北端に、古い鐘楼が残っている。
かつては時刻を知らせるために使われていたが、今は鐘のひびが大きく、風が吹くたび不安定な音を立てる。影班は昔、この鐘楼を遠距離連絡の中継地点にしていた。
階段を上ると、途中の踊り場に小石が三つ並んでいた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
昔から変わらない合図だ。
「先輩、遅いですよ」
鐘の影から、若い男が顔を出した。
黒い外套は影班のものだが、着方が少し雑だ。襟元は開き、髪は風に乱れ、口元にはいつもの軽い笑みがある。
クリス。
影班の後輩狙撃手。遠距離からの観察と魔導銃の扱いだけなら、若手の中で右に出る者はいない。
「お前が追撃隊か」
「表向きは、そういうことになっています」
クリスは肩をすくめた。
「先輩が影班を裏切って逃走。俺が追跡。鐘楼で交戦。先輩は俺を撃ち抜いて逃亡。明日の記録には、そう書かれます」
「まだ撃っていない」
「予定表では、もう二回くらい撃たれています」
軽口を叩きながらも、クリスの目は階段の下を見ていた。
誰かが尾行しているか確認している。
「監視は?」
「王都特務捜査隊が一人。影班が二人。公爵家の私兵らしき者が一人。全員、別々の場所にいます」
「見られているな」
「ええ。なので、ここで密談しているように見せるための密談です」
「本当の話をするには、ずいぶん賑やかだ」
「先輩が来る場所は、昔から賑やかなんですよ」
クリスは冗談めかして言ったが、最後の語尾だけが少し沈んだ。
僕は鐘楼の上へ進んだ。
壊れた鐘の向こうに、王都の屋根が広がっている。遠くの特務捜査隊本部、王立輸送ギルド、そして雪に隠れた北門。逃げ道は多いが、狙撃線も多い。
「作戦を聞く」
「単純です。俺が追撃役として先輩を追う。先輩は、ここへ逃げ込む。俺は影班へ戻れない距離まで接近する」
「そこで、僕が撃つ」
「そうです」
「魔導銃の発射音は遠くまで響く。弾道と着弾を見られれば、偽装はすぐに見破られる」
「だから、偽装弾を使います」
クリスは懐から細長い弾倉を取り出した。
中には、通常の魔導弾とよく似た弾が並んでいる。だが、表面の刻印が浅い。内部の魔力核も小さかった。
「空砲か?」
「いえ。そんな便利なものはありません」
クリスは弾倉を傾けた。
「偽装弾は、撃った瞬間に術式が崩れます。発射音も弾道も、本物とは違うと鑑定される」
「なら使えない」
僕は即座に答えた。
「黎明の瞳が僕を受け入れるには、追撃者が死んだと信じる必要がある。偽装だとわかれば、僕もお前も終わりだ」
「わかっています」
クリスは弾倉をしまった。
「だから、本物を使います」
鐘楼の下から、風が吹き上がった。
「防具で止める。肩を貫通させて、胸部防具の内側で弾を受ける。血液嚢を破れば、遠目には即死に見える」
「死ぬ可能性がある」
「あります」
「お前が死ねば、作戦の成否に関係なく、僕は潜入を中止する」
「そう言うと思って、先に記録を残してきました」
クリスは外套の内側から、小さな通信札を取り出した。表面には、影班の保管印が押されている。
「俺が作戦中に死亡した場合、先輩を責めるな。これは俺が自分で選んだ、って記録です」
「記録は、残せば正しいことになるわけじゃない」
「知っています。だから、俺の言葉として残した」
彼は通信札を握り、魔力を流した。記録の開始を示す青い光が、薄く灯る。
「先輩は、俺が初めて狙撃を外した時のこと、覚えていますか」
「訓練場の西壁。風向きを読まずに撃って、鐘の綱を切った」
「あれ、外したんじゃなくて、鐘を鳴らしたかったんです」
「嘘だな」
「ばれました?」
クリスは笑った。
けれど、通信札を持つ指は白くなっていた。
「あの時、先輩は怒らなかった。『外した弾は、次の判断に使え』って言った。俺はずっと、それを覚えています」
彼は笑顔を崩さないまま、左肩の防具の留め具を一つずつ確かめた。
最後の一つで、指が止まる。
それでも、クリスは手を離さなかった。
「やめろ」
僕が言うと、クリスは目を瞬いた。
「先輩?」
「別の方法を探す」
「時間がありません」
「時間がなくても、仲間を撃つ必要はない」
「でも、先輩一人が敵の中へ入れば、誰も信じられないでしょう」
クリスの笑みが消えた。
「黎明の瞳は、影班の追撃記録を確認するはずです。誰が撃ったか、どの弾が使われたか、どれだけ血が出たか。全部調べる」
「それは僕が考える」
「先輩は、いつも自分で考えて、自分だけで決めます」
声が軽くなくなった。
「北の倉庫街の任務の時もそうでした。敵の魔導銃を解除して、一人で前へ出た。俺たちに合図を出さずに」
僕は黙った。
あの時、身体が勝手に動いた。
三、二、一。
数えることで恐怖を切り分け、撃つべきものと撃ってはいけないものを選んだ。だが、その手順は、あの頃の身体に近すぎた。誰かと共有できるものではないと思っていた。
「三、二、一は、ただの数え方じゃない」
クリスが言った。
「三で敵の位置を見る。二で味方の逃げ道を確認する。一で、先輩が決める。俺たちは、そういう合図だと思っています」
「そんなふうに教えた覚えはない」
「教わっていなくても、見ていればわかります」
クリスは壊れた鐘の向こうへ視線を向けた。
「俺たちは先輩の背中しか見られない。だから、背中が動かない時は、先輩が一人で全部抱えているってわかるんです」
その言葉に、胸の奥が鈍く痛んだ。
前世でも、僕は一人で判断した。
現在の僕も、同じ癖を繰り返している。
記録を隠した者たちを追うために、仲間を遠ざけ、危険を自分だけで引き受けようとしていた。
「俺は、先輩の三つ数える合図を信じます」
クリスは、壊れた鐘の縁へ手を置いた。
「三で照準を固定する。二で俺が踏み込む。一で撃つ。先輩が迷えば、俺が止めます」
「弾が外れたら?」
「外さないでください」
「お前が動けば、外れる」
「じゃあ、動きません」
クリスは一歩、僕の前へ出た。
狙撃される側の立ち位置だった。
肩の防具には、すでに血液嚢を固定するための細い留め具がある。彼は最初から、ここまで準備していた。
「先輩、俺を撃ってください」
冗談の形をしていない声だった。
「本物の弾で。敵にも味方にも、俺が死んだと信じさせるために」
風が鐘を揺らした。
ひびの入った鐘が、低く一度だけ鳴った。




