帰還不能の特命
翌朝、旧王立劇場の地下には、昨夜と同じ冷たい空気が残っていた。
違っていたのは、机の上に置かれた命令書だ。
黒い紙。白い文字。王国の正式な印はない。
代わりに、黒い封蝋が押されている。
封蝋の中心には、羽根を三本束ねた影班の印。その周囲には、細い線が円を描いていた。線は途中で途切れ、二度とつながっていない。
「その封蝋は、帰還保証なしの命令に使われます」
背後で、鑑定鏡の留め具が触れ合う小さな音がした。振り返ると、フィーナが僕のすぐ後ろに立っていた。袖口の赤い保存糸が、薄暗い地下でわずかに揺れている。
「単独で来い、という呼び出しは守らなかったのですね」
「あなたの糸が三度引かれましたから」
「危険な場面はありませんでした」
僕が答えると、フィーナはエレオノーラを見た。
「危険でなかったかどうかを判断するのは、あなたではありません」
エレオノーラは彼女を追い出そうとしなかった。
それだけで、この命令が表の任務ではないとわかる。
「フィーナ・ヴァイス。封印鑑定士として、ここに残れ」
「残るのは構いません。ただし、命令書に偽装や改変があれば指摘します」
「当然だ」
エレオノーラは僕へ視線を戻した。
「ユーリ・クロムウェル。影班所属、現地潜入担当。王立輸送ギルド潜入任務を一時解除する」
白い文字が、一行ずつ浮かび上がった。
「目的地、黎明の瞳の活動区域。目的は、古代兵器の所在確認、組織の指揮系統の把握、首領アーノルド・クロムウェルの排除」
「排除?」
「暗殺だ」
言葉は短く、音のない刃物のようだった。
僕は命令書を見たまま、顔を上げなかった。
「父が黎明の瞳の首領だと、王国は正式に認定しているのですか」
「正式な認定はない」
「なら、なぜ暗殺命令が出せるのですか」
「出せない。だから、これは王国軍の命令ではない」
エレオノーラは黒い封蝋へ指を添えた。
「影班最高司令としての特命だ」
命令書の端に、細い文字が浮かんだ。
――失敗時、関係者との一切の関係を否認する。
――帰還を保証しない。
フィーナの目が険しくなった。
「つまり、ユーリが黎明の瞳に捕らえられても、影班は救援を出さない」
「救援を出せば、潜入が破綻する」
「死亡した場合は?」
「影班員として記録されない」
命令書の白い文字が、少しだけ滲んだ。
僕は黒い封蝋を見た。
これは任務を隠す印ではない。
失敗した人間を、最初から存在しなかったことにする印だ。
フィーナが鑑定板を封蝋の裏へ滑らせた。黒い蝋の下から、二重に隠された細い文字が浮かぶ。
――任務遂行者に対する救援、補給、記録修正を禁ずる。
「補給まで禁じるのですか」
「敵地で影班の名を使わせないためだ」
「それは、任務ではなく処分です」
フィーナの指が、封蝋から離れた。
「任務に失敗した場合、ユーリは敵にも味方にも見捨てられる。命令を出した側は、彼が存在した証拠まで消せる」
「その通りだ」
エレオノーラは否定しなかった。
「影班は、そういう命令で何人も生き残らせ、何人も死者にした」
「生き残らせた、ではなく、戻ってこられなかった人間を生存者として数えなかったのでしょう」
フィーナの声に、冷たい怒りが混じる。
「記録に残らない救援は、救援ではありません」
エレオノーラは答えなかった。
彼女の沈黙は、肯定より重かった。
「父を殺せば、心臓の場所はわからなくなります」
「殺す前に聞き出せ」
「聞き出せなければ?」
「心臓の所在を確認できないままでも、首領の排除を優先する」
「なぜ、逮捕ではなく暗殺なのですか」
「正式な逮捕命令を出せば、内通者へ警告が届く。心臓は、父を拘束する前に別の名義へ移される」
エレオノーラは、命令書の端を押さえた。
「君なら、息子として近づける。影班員として確かめられる。接触に失敗した時は――」
「僕を殺す」
返事の代わりに、黒い封蝋が机の上で小さく割れた。
古代兵器の危険性を考えれば、間違った判断とは言い切れない。だが、その判断をする者は、僕の父が生きていると十年も知りながら沈黙していた。
「父が本当に心臓を持っていると?」
「可能性が高い」
「あなたは、父が心臓を起動するつもりだと思っていますか」
「わからない」
エレオノーラは即答しなかった。
「それを知るために、君を送り込む」
僕は、命令書の下に添えられた資料をめくった。
黎明の瞳の構成員は、救護部門、補給部門、軍事部門に分かれている。構成員の名前はほとんど伏せられていたが、補給路の一部だけは見覚えがあった。
僕が何度も運んだ薬品。辺境の孤児院へ届けられていた食料。シアンが守ろうとしていた子どもたち。
すべてが、黎明の瞳という一つの名前の下へまとめられている。
「この組織は、本当にテロ組織なのですか」
フィーナが訊いた。
「王国の記録では、そうなっている」
「記録では?」
「救護部門は村を救った。軍事部門は街を襲った。補給部門は両方へ荷物を届けた。ひとつの組織に、相反する事実がある」
エレオノーラの声は淡々としていた。
「私が知りたいのは、アーノルドが何を命令し、誰がその命令を利用したのかだ」
その言葉を聞いた時、僕は決めた。
父を殺すためには行かない。
心臓の場所を確かめるためだけでもない。
黎明の瞳の中で、誰が救護を続け、誰が殺戮を命じ、誰がその二つを同じ記録へ押し込めたのかを確かめる。
命令に従うふりをして、真実を持ち帰る。
「引き受けます」
僕は命令書を手に取った。
フィーナが、わずかに息を止める。
「ユーリ……」
「父を暗殺し、心臓の所在を確認します」
口にした言葉は、命令書の文字と同じだった。
エレオノーラは僕の顔を見ていた。
その目は、僕が嘘をついていることに気づいているようにも、気づかないふりをしているようにも見えた。
「潜入を成立させるには、黎明の瞳へ信用されなければならない」
「影班員だった僕を、簡単に受け入れるでしょうか」
「受け入れさせる」
エレオノーラは、別の封筒を取り出した。
中には、僕を追跡するための命令書が入っている。表向きには、影班が裏切り者を処分するための追撃命令だ。
「君は影班から逃亡したことになる。追撃隊が派遣され、黎明の瞳の目の前で君を追い詰める」
「僕が追撃隊を退ければ、裏切りの証明になる」
「退けるだけでは足りない」
エレオノーラは、黒い封筒を閉じた。
「潜入に必要な『影班の死』を本物にするには、君は仲間の一人を撃たなければならない」
地下の灯りが、ひとつ消えた。
黒い封蝋だけが、まだ赤く見えた。




