最高司令の呼び出し
抜き取られた原本の行き先は、まだつかめていなかった。
旧水路へ向かったガウェインからは、短い連絡だけが届いていた。鐘楼の下の避難室は空だった。カイルの家族は、彼が着く前にどこかへ移されていた。
その事実をフィーナと確認していると、特務捜査隊本部の廊下に黒い羽根が落ちた。
灰色ではない。
墨を固めたような、光をほとんど返さない羽根だった。
「触らないでください」
フィーナが僕の手を止めた。
羽根の根元には、細い銀糸が結ばれている。影班が使う緊急呼び出しの印だ。封印を解くと、誰が拾ったかだけでなく、拾った時刻まで記録される。
僕は手袋をつけて銀糸をほどいた。
羽根の表面に、短い文字が浮かび上がった。
――今夜、旧王立劇場。単独で来い。
署名はなかった。
けれど、送り主はわかっている。
影班最高司令、エレオノーラ。
「特務捜査隊本部を出た直後に、この呼び出しですか」
フィーナが眉を寄せた。
「僕たちがここで何を知ったのか、向こうは把握しています」
「罠の可能性は?」
「高いです」
「行くのですね」
「呼び出したのが本物のエレオノーラなら、行かなければ別の命令が届きます」
「別の命令?」
「僕を捕らえる命令です」
フィーナは銀糸を鑑定鏡で調べた。青い光が糸の表面を滑り、黒い封印の奥へ消える。
「本物です。少なくとも、影班の内部で使われている術式と一致します」
「なら、あなたは一人では行きません」
「単独で来い、と書いてあります」
「それは命令であって、守る必要がある約束ではありません」
フィーナは赤い保存糸を僕の袖口へ結んだ。
「糸が三度引かれたら、私が入ります。あなたが返事をしなくても」
「鑑定士は、ずいぶん強引ですね」
「証拠を持って帰るのが仕事ですから」
旧王立劇場は、王都の北側にあった。十年以上前に閉鎖され、現在は魔導灯も消えている。舞台の上には埃が積もり、客席の椅子は布をかぶせられていた。
入口の前に立つと、ひとつだけ灯りが点いた。
舞台の幕に、黒い影が浮かんでいる。
「入れ、ユーリ・クロムウェル」
声は女のものだった。
僕は客席を進み、舞台袖の階段を下りた。地下には、使われていない奈落がある。その奥に、影班の簡易指令室が設けられていた。
エレオノーラは机の前に立っていた。
黒い外套。銀色の髪。左目の下に、古い火傷の跡がある。年齢を読ませない顔だったが、その目だけは長い時間を知っていた。
「座る必要はない」
「捕らえるつもりなら、立ったままのほうが都合がいいでしょう」
「相変わらず、余計なところだけ察しがいい」
エレオノーラは机の上に一枚の紙を置いた。
王国の正式な記録用紙ではない。黒い紙に、白い文字が刻まれている。
そこには、僕の父の名前があった。
アーノルド・クロムウェル。
死亡確認なし。
追跡継続。
最終確認地点――グラキエス南部、旧塩鉱道。
「父は、生きている」
僕が言うと、エレオノーラは否定しなかった。
「生存を確認した記録がある」
「いつから知っていた?」
「十年前から」
劇場の地下に、冷たい音が落ちた。
「十年……」
「正確には、十四年前の救援撤回後から疑っていた。十年前、旧塩鉱道で使われた連絡印と、アーノルドの部隊だけが使っていた退路の記号が一致した」
「なら、なぜ僕に教えなかった」
「教えれば、君は父を捜す」
「当然です」
「そして、見つける前に殺される」
エレオノーラの声に感情はなかった。
だが、机の端を押さえる指に力が入っている。
「私は君を利用した。王立輸送ギルドへ潜入させ、アーノルドへつながる輸送経路を探らせた。心臓の輸送が始まった時、君がその箱を担当するよう仕向けたのも私だ」
「僕を囮にした?」
「囮であり、鍵でもあった」
彼女は別の紙を出した。
そこには、僕がギルドへ入った時期、担当した荷物、接触した人物の一覧が並んでいた。シアンの名前もある。フィーナの名も、ガウェインの名もあった。
僕の行動は、最初から誰かに記録されていた。
「記憶が戻るまで、真実を伏せた」
「前世の記憶のことも知っていたのか」
「知っていたのは、君の身体が過去の戦闘反応を持っていることだけだ。君が何を思い出すかまでは知らない」
エレオノーラは視線を落とした。
「無理に過去を開けば、君は自分を失う可能性があった」
「それは、僕を守るためですか。それとも、扱いやすいままにしておくためですか」
「両方だ」
あまりにも早い返答だった。
「君を守りたいと思った。だが、君を手放せばアーノルドを追える者がいなくなるとも考えた。私はその二つを分けて考えられなかった」
彼女は黒い記録を一度閉じた。
「だから、君が配達員の仮面をかぶっている間は、任務の本当の目的を伏せた。君の観察力と判断力を使いながら、何のために使われているのかは気づかせないようにした」
彼女の指が、黒い記録の端をなぞった。
「認証薬も、あなたの命令ですか」
エレオノーラは、視線をそらさなかった。
「私の命令だ。味方の封印へ反応する鍵として、君の血に残した。だが、内部の裏切り者が認証式を漏らし、検問で君を犯人に見せるために使った」
「心臓が盗まれることも?」
「あれは想定外だった。公爵家が輸送計画を乗っ取り、黎明の瞳がすり替えに動くまでは読めなかった」
初めて、彼女の答えに迷いが見えた。
「十年も知っていたのに、なぜ今、僕を送り込むのですか」
「十年間、アーノルドは生存の痕跡だけを残し、旧塩鉱道も休眠していた。だが今、公爵家の搬送命令と父の退路印が同じ輸送記録へ重なった。次の受け渡しが成立すれば、父も心臓も別の名義へ消える。君を今送り込まなければ、二つを同時に追える者はいなかった」
「だから、僕が盗難犯にされることも?」
「想定していた。だが、君が生きて逃げられるとは断言できなかった」
その言葉の冷たさに、胸の奥が狭くなる。
期待されていたのではない。
生き残れば情報を持ち帰る駒として、死ねば事件を覆う死体として、最初から計算されていた。
「それを心配して、僕を何年も嘘の中へ置いた?」
「違う」
初めて、彼女の声が揺れた。
「私は、真実を渡す時期を選び続けた。そして、選び続けた結果、君を利用する側へ回った」
机の上で、黒い紙がひとりでに裏返った。
裏面には、三つの名前が記されている。
最高司令エレオノーラ。北方連絡官ロガン。中央記録官ネストル。
公爵家へ情報を流せる影班員の候補。
その中に、エレオノーラ自身の名があった。
「あなたが裏切り者の候補?」
「私が最高司令だからだ。誰にも見られず、誰にでも命令できる。私を疑わない理由はない」
「自分で自分を疑わせて、信用を得ようとしている可能性もあります」
「そうだ。だから、信じるな」
彼女は黒い封印を取り出した。
封印の中心には、古い標語が刻まれていた。
――安全のための犠牲。
十四年前の命令書と同じ言葉だった。
「公爵だけではない。当時の決定に関わった者が、今も王国の中枢にいる」
エレオノーラは、僕へ封印を差し出した。
「そして、その協力者が影班の内部にもいる。だから私は、正式な逮捕命令を出せない」
受け取った封印は、氷のように冷たかった。
「僕に何をさせるつもりですか」
「明日、命令を出す」
彼女の背後で、消えていた劇場の灯りがひとつだけ点滅した。
「君の父を追い、黎明の瞳へ入れ」
エレオノーラは、僕の目をまっすぐ見た。
「その組織の中から、アーノルドを殺せ」
黒い紙の上で、僕の父の名前だけが、赤く滲んだ。




