消えた捜査資料
ガウェインが、紙を押さえる指に力を込めた。
その一文が、紙の上でやけに白く見えた。
周囲の文字は古い。影班が使う黒い墨も、十四年前の記録を複製した灰色の紙も、時間の沈殿を抱えている。
なのに、その一文だけは新しかった。
乾ききっていない魔力の跡が、筆先の奥で微かに揺れている。
「これは、いつ書かれたものですか」
フィーナが鑑定鏡を紙へ近づけた。
「本文は古い。追記だけが、昨夜以降です」
ガウェインの手が、資料の端で止まった。
「つまり、流出前に誰かが僕の知らない情報を書き足した」
「それだけではありません」
フィーナは赤い保存糸を取り出した。糸の先を資料の束へ添えると、黒い封印の下から細い光が浮かび上がった。
「この束は一度、開かれています。再封印の跡が二つ。片方は特務捜査隊本部のものですが、もう片方は別の術式です」
ガウェインが封印を見つめる。
「誰かが、正規の保管庫から持ち出した」
「正確には、持ち出した後で戻しています」
その言葉が落ちた瞬間、記録室の奥で金属の擦れる音がした。
職員が、棚の前で固まっている。
「特務捜査官……捜査資料の保管箱が、空です」
ガウェインはすぐに歩き出した。
僕たちも後に続く。
保管箱は三重の鍵で閉じられていた。鍵穴に傷はない。封印も破られていない。表面だけを見れば、誰も触れていないように見える。
しかし、フィーナは蓋の隙間へ薄い鑑定板を差し込んだ。
「内側から、封印を一時的に眠らせています」
「鍵を開けずに?」
「鍵を開けたのではなく、箱に『開いていない』と思わせたのです」
ガウェインの眉間に深い線が刻まれた。
彼は保管箱の前に膝をつき、床へ視線を落とした。怒鳴りもしない。手近な職員を責めもしない。
ただ、床に残された灰を指先でなぞった。
「この灰は記録室のものではない」
僕は灰の粒を見た。白に近い灰の中へ、細い青い結晶が混ざっている。
「旧王都地下区画の冷却炉で使われる灰です。十四年前の救援記録と同じ」
フィーナがこちらを見た。
「よく知っていますね」
「配達の途中で、見たことがあるだけです」
「その言い訳も、そろそろ苦しいですよ」
僕は返事をしなかった。
ガウェインが箱の底を調べている。そこには薄い擦り傷が一本だけ残っていた。資料を束ごと抜いたのではない。背表紙を押さえ、必要な紙だけを滑らせて抜き取った跡だ。
「抜かれたのは、私の極秘捜査資料だ」
ガウェインが立ち上がった。
「十四年前の救援撤回命令、王立輸送ギルドの内部調査、影班の流出経路。全部まとめて入れていた」
「なら、これを取り戻す必要があります」
「必要なのは、まずカイルの家族だ」
僕は彼を見た。
「資料を盗んだ者と、家族を拘束している者が同じとは限りません」
「だからこそ急ぐ。資料を奪った人間は、カイルを使い捨てた可能性がある」
ガウェインは会議室へ戻った。拘束具をつけられたカイルが、椅子の上で青ざめている。
「家族の居場所を言え」
「旧水路の南区画です。廃止された鐘楼の下に、使われていない避難室がある」
「なぜ、もっと早く言わなかった?」
「見張られていると思っていました。通信札に触れるだけで、弟の名前を送られてきたので……」
カイルは震える手で、記憶札を差し出した。
そこには文字ではなく、三つの点が並んでいた。
三拍子。
王都まで魔導装甲車を運んできたパックが、記録室の隅から僕の袖を引いた。
「……あの音。似てる」
「どこで聞いた?」
「車。あと、箱。誰か、返事、してた」
彼女は片言で答えたが、意味は正確だった。魔導装甲車の計器を三度叩いた時、遠くから同じ間隔の音が返ってきた。あれは単なる追跡信号ではなかったのかもしれない。
「この印を知っているのか」
ガウェインがカイルに問う。
「知りません。ですが、公爵家から届く命令には、時々この印がありました」
その時、扉の外から魔導通信の音が響いた。
特務捜査隊本部の上層部からだった。
――極秘資料の回収を最優先とする。カイルの家族については、現地憲兵へ引き継げ。
短い命令だった。
ガウェインは通信札を握り潰しそうになった。
「資料の回収を優先すれば、家族は見捨てられます」
僕は通信札の表面に残る魔力の流れを見た。命令は複数の上級封印を通っている。偽造ではない。だからこそ、誰かが正しい手続きの中へ、間違った優先順位を押し込んでいる。
「カイルの証言だけでは、家族の場所を確定できない」
フィーナが言った。
「証言が嘘である可能性も、彼自身が偽の場所を教えられている可能性もあります」
「それでも行く」
ガウェインは即答した。
「最初の証言と最後の証拠を照合しろ。私がいつも言っていることだ。なら、最初の証言を聞いた人間を捨てるわけにはいかない」
その言葉に、記録室の職員たちが顔を上げた。
怒りで規則を破るのではない。規則が守るべき人間を忘れたから、別の規則を選んだのだ。
「現地憲兵では遅い」
「特務捜査官。組織命令です」
職員が止める。
「知っている」
ガウェインは低く答えた。
「だが、家族を餌にされた人間を、もう一度餌として捨てる命令には従わない」
彼はカイルの拘束具を引いた。
「行くぞ。家族を保護する」
「僕も行きます」
ガウェインが振り返った。
「断る」
「資料を奪った相手は、僕の父の情報を追っています。僕の協力が必要です」
「君は容疑者だ」
「それでも、追跡できます」
「君を逮捕する仕事は、まだ終わっていない」
ガウェインの声には、怒りだけではない疲労があった。
「容疑者を捜査に使えば、証拠の扱いが崩れる。私は、記録を守る側の人間だ」
正しい言葉だった。
だからこそ、僕はそれ以上言えなかった。
ガウェインはカイルを連れて、旧水路へ向かった。
僕たちは特務捜査隊本部に残った。フィーナが空になった保管箱を調べ、僕は床に残された灰を拾う。
しばらくして、彼女が小さく息を呑んだ。
「ユーリ。資料は、すべて盗まれたわけではありません」
保管箱の底に、薄い紙片が一枚だけ残っていた。
僕は鑑定鏡を覗いた。
抜き取られた束の中央に、四角い空白がある。
そこだけ、紙の重みが違った。
「何が抜かれた?」
フィーナは残された目録を照合した。
そして、赤い保存糸を結び直しながら告げた。
「十四年前の救援撤回命令。その原本だけです」
僕の指先に、冷たい灰が付着した。
公爵家が欲しがっているのは、影班の全記録ではない。
古代兵器の輸送経路でもない。
父が、なぜ救援を止められたのか。
その一枚だけが、誰かにとって今も消せない傷だった。




