国境までの雪道
王都の灯りが見えなくなってから、三時間が過ぎた。
臨時輸送車は、雪原に刻まれた細い轍をひたすら北へ進んでいた。車輪の下で凍った雪が砕け、車体全体が低く揺れる。荷台の隙間から入り込む風は、布一枚など存在しないかのように服を抜け、指先の感覚を少しずつ奪っていった。
グラキエス自治区。
ルミナス王国の北端にありながら、王国の法がほとんど届かない土地。永久凍土と吹雪に閉ざされ、王国とガルディニア帝国の間で何度も領有を争われてきた場所だ。地図の上では王国の色に塗られていても、そこに住む人々が王都の命令を聞くとは限らない。
王都では、雪が降れば鐘が鳴り、道を閉じるための役人が来る。
グラキエスでは、雪が降れば誰も来ない。道を開けるのも、倒れた者を掘り起こすのも、凍った車輪を焼いて外すのも、そこにいる人間が自分でやる。
だから辺境の人々は、王都の命令よりも、隣人の声と自分の目を信じる。父が見捨てられた場所へ行けば、王国の記録にない何かが残っているかもしれない。シアンが僕をここへ連れてくる理由は、少なくとも一つではなかった。
僕は荷台の壁に背を預け、隙間から外を見た。
白い。
空も、地面も、遠くに立つ枯れ木も、すべてが同じ色をしている。距離感が壊れていた。十歩先に崖があるのか、百歩先に雪丘があるのか、目だけでは判断できない。
「あと二時間で国境だ」
前方からシアンの声がした。
荷台と運転席を隔てる小窓が少しだけ開いている。彼が手にしているのは、王立輸送ギルドの正規地図ではなく、手書きの古い地図だった。
「グラキエスの地図、よく持っていたね」
「輸送ギルドだぞ。地図くらい、倉庫にいくらでもある」
「正規の地図なら、あの谷を通る道は描かれていない」
「正規の道を通ったら、憲兵に追いつかれる」
シアンは、いつものように笑った。左手だけが、外套の裾へ引かれている。
僕は、彼の手元から地図へ視線を移した。道は谷へ入ったあと、古い塩坑を抜け、国境監視所の北側へ出る。人目を避けるには最適だが、吹雪で道が埋まれば車ごと遭難する。
「この道を知っている人間は、ギルドに何人いる?」
「さあな」
「シアン」
「……少なくとも、俺とバレルは知ってる」
バレルの名前を出した時、シアンは親指を隠さなかった。
嘘ではない。
だからこそ、余計に嫌な予感がした。
バレルがこの道を知っているなら、僕たちがここを通ることも予測できる。追手から逃げているつもりで、誰かの用意した道へ誘導されている可能性がある。
「どうして、僕をグラキエスへ連れていく?」
運転席から、しばらく返事がなかった。
「お前が見た灰色の羽根。あれは、王都で調べても何も出てこない」
「だから父さんの死んだ場所へ行く?」
「父親が本当に死んだかどうか、確かめたいんだろ」
「僕が?」
「違うのか?」
胸の奥を、冷たい指で掴まれたような気がした。
僕は父の死を疑ったことがない。
疑わないようにしていた。
父が生きているかもしれないと考えれば、十四年間、帰りを待っていた自分が間違っていたことになる。死んだと決めて、忘れたふりをした方が楽だった。
「グラキエスには、十四年前の救援部隊の記録が残っている」
シアンが言った。
「王都の記録は、あの日の一時間だけ抜け落ちている。けど、辺境の人間は紙の上から消えてない。墓も、避難路も、生き残った人間の記憶も残ってる」
その言葉は、あまりにも正しかった。
正しい言葉は、嘘よりも危険だ。
信じたくなるから。
僕は荷台の床に手をついた。
冷たい。
だが、床板の中央にだけ、微かな振動がある。王都から運んできた荷物のせいではない。車体の下に、何か別の魔導具が取り付けられている。
「止めて」
僕が言うと、シアンが振り返った。
「何だ?」
「車体の下に追跡具がある」
「わかるのか?」
「振動が、車輪の回転と合っていない」
シアンは舌打ちし、手綱を引いた。
輸送車が雪の上で大きく揺れ、止まる。シアンが降り、車体の下へ潜り込んだ。しばらくして、黒い金属片を手に戻ってくる。
帝国式の追跡具だった。
魔力を一点へ送り、遠くの受信器へ位置を知らせる。王国のものより小さく、雪と泥にまみれていても動き続ける設計だ。
「これ、いつから付いてた?」
「たぶん王都を出る前からだ」
「たぶん?」
「俺が付けたんじゃない」
シアンはそう言って、袖口を握った。
僕は何も言わなかった。
追跡具を見つけたのは僕だ。けれど、シアンは取り外す場所を知っていた。工具を差し込む角度も、魔力を逃がす順番も迷わなかった。
ただのギルド職員なら、あんなふうには扱えない。
僕はその事実を、灰と一緒に記憶へしまい込んだ。
追跡具を外したことで、敵が僕たちの正確な位置を見失ったのか。それとも、外すことまで予測されているのか。
判断するには、情報が足りない。
再び輸送車が動き出す。
吹雪が強くなってきた。
窓の外で、白いものが横から流れている。風が雪を運んでいるのではない。地面の雪そのものが舞い上がり、視界を埋めている。
「国境監視所が見えた」
シアンが言った。
ただし、ここはグラキエス自治区の入口にすぎない。黎明の瞳の本拠地である地下要塞へは、監視所からさらに旧塩鉱道を北へ進まなければならない。王都から五時間というのは、あくまで国境監視所までの所要時間だった。
僕は荷台の隙間から前方を見た。
白い雪原の中に、黒い影が並んでいる。
人間ではない。
雪上魔導装甲車が三台。車体の底では、交換式の魔石に蓄えた魔力を車輪の回転へ変える魔導機関が、低く唸っている。魔導銃の銃口はこちらを向いている。車両の前には、白銀の外套をまとった男が一人立っていた。
男が腕を上げる。
輸送車が止まった。
その男が、吹雪をものともせず歩いてくる。顔には深い傷があり、目は雪よりも冷たい。背後の兵士たちは、彼が命令するまで一歩も動かない。
「グラキエス辺境警備隊、隊長ヴォルクだ」
男は輸送車の前で足を止めた。
「王都から来た盗難犯を引き渡せ」
シアンが運転席から降り、両手を上げた。
「隊長、話を聞いてくれ。こいつは犯人じゃない」
「なら、なぜ王国中の憲兵がこいつを追っている?」
「それは――」
シアンの言葉が止まった。
僕は車内から、ヴォルクの背後にある雪丘を見た。
人影が三つ。
辺境警備隊の配置ではない。魔導銃の銃口がこちらではなく、輸送車の側面へ向いている。
ヴォルクも気づいていた。
彼の視線が、ほんの一瞬だけ雪丘へ動く。
次の瞬間、雪原を裂いて、魔導銃の乾いた発射音が響いた。
魔導弾が輸送車の屋根を貫き、僕の頬の横を通り過ぎる。焼けた金属と魔力の匂いがした。
王国式の魔導弾ではない。
螺旋状の刻印。帝国製だ。
ヴォルクが低く叫ぶ。
「伏せろ!」
僕は反射的に身を沈めた。
白銀の男が魔導銃を抜き、雪丘へ向ける。
「お前を捕まえる前に、追ってきた連中を片づける」
その言葉と同時に、永久凍土の向こうで、二発目の魔導銃の発射音が鳴った。




