親友の肉パン
拘束具をかけられたまま、僕は王立輸送ギルドの臨時取調室へ連れていかれた。
窓はなく、壁には魔力を遮断する黒い鉱石が埋め込まれている。机が一つ、椅子が二つ。扉の外には見張りが一人。足音の間隔から、交代は三十分ごと。鍵は外側に二つ。片方は通常の錠前で、もう片方は魔力波長を照合する封印錠だ。
逃げられないわけではない。
ただ、逃げれば本当に犯人になる。
だから僕は、椅子の上で小さく震えながら、机の木目を見つめていた。
「ユーリ・クロムウェル」
向かいに座ったガウェイン特務捜査官が、僕の名前を呼ぶ。
近くで見ると、彼の目は鋭いというより、余計なものを置かない目だった。怒りも、同情も、先入観も、捜査の邪魔になるなら切り落とす。机の上の僕の配達鞄と拘束具へ、視線を一度ずつ通している。
「君が心臓を盗んだと、私はまだ断定していない」
「で、でも、箱を最後に扱ったのは僕です」
「だから疑っている。疑うことと、決めつけることは違う」
ガウェインは、焼却される寸前だった伝票を机へ置いた。
「君は箱が一度だけ暖かい場所へ移されたと言った。根拠は?」
「底板の温度と、保冷魔法の減り方です」
「配達員がそこまで見るか?」
「見ます。見ないと、冬場の荷物は凍って割れますから」
「では、なぜ今まで報告しなかった?」
僕は黙った。
ここで、影班の訓練で得た観察眼を説明するわけにはいかない。魔力の流れを読むことも、敵の配置を測ることも、普通の配達員ならできない。
ガウェインは、僕の沈黙を見ていた。
「言えない理由があるのか」
「……僕が何を言っても、誰も信じてくれないと思ったので」
気弱な配達員らしい答えを選んだ。
ガウェインの指が、机を一度だけ叩いた。
ガウェインは返事をせず、担当印の写しを灰の隣へ置いた。
紙の角と灰の位置を、一度だけ見比べる。
僕を犯人と決めた人間の置き方ではない。
けれど、無実と決めた人間の置き方でもなかった。
怒鳴るバレルより、その静けさの方が怖い。
「その顔で、随分と人を見るな」
心臓が一拍遅れた。
「えっ……?」
「いや。何でもない」
ガウェインは椅子を引いた。
「取調べは続ける。ただし、今は別件が入った。誰かがギルドの焼却炉へ侵入した」
彼は扉へ向かい、振り返った。
「ユーリ。逃げるなよ」
「は、はい……逃げません」
「その返事をする人間は、たいてい逃げる」
扉が閉まった。
外の足音が遠ざかる。
すぐに、廊下の向こうから短い号令が響いた。
「対象、確保! 火皿と封蝋を押収! 靴底の石粉も記録しろ!」
廊下の向こうで、焼却炉の扉が閉まった。
続いて、裏の灰運搬路で倉庫係を押さえたという報告が届いた。逃げ道だけでなく、男が抱えていた火皿と、使いかけの封蝋まで押収されたらしい。
僕は椅子の上で息を吐いた。
箱をすり替えた瞬間は見ていない。それでも、燃やされるはずだった一枚と、灰運搬路へつながる足跡は残った。最初の一手だけは、こちらへ戻せたらしい。
三十秒後、見張りの靴音が一度だけ乱れた。
鍵が回る。
入ってきたのは、シアンだった。
「お前、どうやって……」
「聞くのは後。立てるか?」
彼はしゃがみ込み、僕の拘束具を見た。腰の工具袋から細い金属棒を取り出す。ギルド職員が荷札の封を切るために使う、簡単な道具だった。
「それ、鍵じゃないだろ」
「鍵を開けるんじゃない。鍵が閉じていると思わせるだけだ」
シアンが棒を差し込むと、拘束具の魔力が一瞬だけ明滅した。手首にかかっていた重さが抜ける。
僕は立ち上がった。
シアンは、外套の内側から紙包みを取り出し、僕の手へ押しつけた。
冷めた肉の匂いがした。包みを開くと、肉パンは最初から半分に割られている。
「逃げると、腹が減る」
それだけ言って、彼は先に扉へ向かった。
「ガウェイン特務捜査官は?」
「焼却炉へ呼び出された。倉庫係を捕らえたらしい」
「誰か?」
「名前はまだ知らない。今は出るぞ」
シアンは僕の腕を引いた。
その手袋に、灰色の粉が付いていた。
木箱の封印に残っていたものと同じ灰。
僕は見なかったふりをした。
廊下へ出ると、職員用の裏階段へ向かう。シアンは迷わない。王立輸送ギルドの建物を、僕よりもよく知っているように歩いていく。
「どこへ行く?」
「グラキエスだ」
「僕を逃がすだけなら、王都の外へ出ればいい」
「王都の外へ出ても、すぐ捕まる。憲兵も、ギルドも、お前を探す。古代遺物の価値を知っている連中は、王国中にいる」
「じゃあ、グラキエスへ行けば何がある?」
シアンは、階段の踊り場で足を止めた。
「お前の父親が死んだ場所だ」
胸の奥がざわついた。
父、アーノルド・クロムウェル。
十四年前、グラキエスの遺跡調査中に戦死した王国軍人。僕は、そう聞かされて育った。
「父さんの死体は見つかってない」
「知ってる」
「なら、どうして死んだ場所なんて言える?」
シアンは答えなかった。笑みも崩さなかった。袖口だけが、わずかに揺れた。
僕は、彼の手袋に残った灰を見た。
「シアン」
「何だ?」
「その灰、どこで付いた?」
彼の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
「荷物を手伝った時だよ」
「箱には触っていないと言ってなかったか?」
沈黙が落ちた。
遠くで警報の鐘が鳴る。誰かが僕の逃走に気づいたのだ。
シアンは、僕の目を見た。
「俺は、お前を売ってない」
「まだ、売ったとは言ってない」
「同じことだろ」
彼は苦しそうに笑った。
「俺がお前を信じる。だから、お前も俺を信じろ」
甘い言葉だった。
昔の僕なら、すぐに信じただろう。怒鳴られた僕の隣に座り、肉パンを半分に分けてくれたのは、いつだってシアンだった。
けれど今、彼の手袋には禁忌の心臓と同じ灰が付いている。
「……信じるよ」
僕は、できるだけ弱々しく頷いた。
「本当か?」
「うん。だから、僕を連れ出して」
シアンは安心したように息を吐いた。
その隙に、僕は彼の袖口へ目を落とした。
灰は手袋だけではない。
袖の内側、そして腰に下げた臨時荷札の端にも付着している。
彼は、箱を運んだ。
僕を助けたいという気持ちも、本物なのだろう。
だからこそ、厄介だった。
裏口の先には、雪をかぶった臨時輸送車が待っていた。荷台の札には、王都からグラキエス自治区へ向かう鉱石便の印が押されている。
シアンが荷台の扉を開けた。
内側の床には、新しい雪ではない白い粉が積もっていた。
僕はその粉を見て、息を止めた。
粉の中に、灰色の羽片が一枚落ちている。
羽根の裏には、あの暗号の続きが刻まれていた。
――帰還しない者を、死者と呼ぶな。
「乗れ、ユーリ」
シアンが言った。
僕は荷台へ足をかけた。
疑っているから、乗る。
信じているからこそ、最後まで見届ける。
扉が閉まり、王都の灯りが細い隙間の向こうへ遠ざかっていく。
僕は、まだ気弱な配達員の顔をしていた。
けれど胸の中では、十四年前に死んだはずの父が、雪の向こうからこちらを見返していた。




