名前のない首領
公的な名前ではない。
母が眠る前に呼んだ名前。
父が遠征へ出る朝、笑いながら呼んだ名前。
その呼び方を知っている人間は、今の王都にはいないはずだった。
「開けるな」
ダリオが呟いた。
「なぜ?」
ガウェインが聞く。
「それは、アーノルドからの手紙だ」
地下室の全員が、ダリオを見た。
彼は、言ってしまったことに気づいて口を押さえた。
「アーノルドが、生きていると知っていたのか?」
ガウェインが詰め寄る。
「知っていたわけじゃない。命令書に名前があっただけだ」
「命令書に、個人名が?」
「黎明の瞳の命令書には、首領の印が押される。だが、あの一枚だけは、印の横に手書きの署名があった」
ダリオの顔が青ざめた。
「私は、組織の首領が誰か知らなかった。黒い羽根の印と、命令の署名だけを見ていた。だが、その署名が――」
彼は僕を見た。
「アーノルド・クロムウェルだった」
言葉が、音を失った。
父。
死んだはずの父。
十四年前、グラキエスの遺跡で戦死した王国軍人。
父が、黎明の瞳を作り、現在も首領として命令を出しているという。
「嘘だ」
僕は言った。
誰に向けた言葉なのかわからない。
「父は、死んだ」
「死体は見つかっていない」
オズワルドが静かに答えた。
「だが、王都の記録では戦死になっている」
「父は、戦死したんだ」
僕は、焼けた台帳を思い出した。
父の名前。
灰色の羽根。
救援隊が戻れなかった一時間。
診療所で聞いた、最後まで子どもを探していた男の話。
生きているかもしれない。
その可能性を、僕は何度も考えた。
それでも、父は死んだと決めつけていた。
帰ってこない父を、待ち続ける自分を終わらせるために。
「首領の命令書には、心臓を王都へ持ち込むなと書かれていた」
ダリオが続けた。
「なら、父は心臓の盗難を命じていない」
「それでも、黎明の瞳の首領であることは変わらない」
ガウェインが言った。
「救護部門が薬を運び、軍事部門が魔導爆薬を扱う。組織を作った者には、両方の責任がある」
ガウェインは僕を見る。
「君の父親が犯罪者である可能性は高い」
「僕に、何をしろと?」
「君は、父親を守るのか?」
胸の奥を、冷たい刃で切られたような気がした。
「守る?」
「父親が首謀者なら、君は組織の協力者と見なされる。父親の居場所を知っていて隠せば、君自身も捜査対象になる」
「僕は、父が何をしたのか知りません」
「では、知った後は?」
答えが出なかった。
父は僕を捨てた。
死んだと思わせた。
その裏で、王国を脅かす組織を作り、古代兵器と関わっていた。
もし本当に生きているなら、僕は父を責めなければならない。
死者として待ち続け、いつの間にか恨みへ変えかけていた十四年を、今度は生者へ向け直す。
「僕は、父を守りません」
僕は言った。
声が震えた。
「でも、父が何をしたのかを知らないまま、犯人にもしたくない」
ガウェインは、しばらく僕を見ていた。
「それでいい」
「いいんですか?」
「法は、血縁で人間を裁かない。父親の罪を、君が背負う必要もない」
ガウェインは封筒へ視線を落とした。
「だが、君が父親を見つけた時、証拠を隠せば共犯になる」
「わかっています」
僕は封筒を手に取った。
紙は古い。
雪と煙の匂いが、わずかに残っている。
封蝋には、羽根形の印が押されていた。王都の文書印ではない。軍用式の重ね印。
僕は、封蝋を割った。
中には一枚の紙が入っている。
文字は、簡潔だった。
――小さな灰色の鳥へ。
その呼び名を見た瞬間、視界が歪んだ。
僕は幼い頃、灰色の羽根を拾うのが好きだった。父は僕をそう呼んだ。母は笑い、僕の髪を撫でた。
手紙の続きには、父の筆跡があった。
――お前がこの手紙を読む頃、私はお前の敵として知られているだろう。
僕の指が震える。
――それでも、心臓を起動させてはならない。
――あれは、王国を救う兵器ではない。
――お前を捨てたのは、私ではない。
――黎明の瞳の中にも、私の命令に従わない者がいる。黒い羽根を信じるな。灰色の羽根を追え。
最後の行だけ、文字が乱れていた。
――ユーリ。私を探すな。
僕は紙を裏返した。
何もない。
だが、フィーナが鑑定鏡をかざすと、紙の繊維の中に隠された魔力線が浮かび上がった。
青い光が、幼い頃の呼び名をもう一度映し出す。
その下に、短い一文が現れた。
――お前が来ることは、最初からわかっていた。
「父親からの手紙だと、すぐに信じないでください」
「信じていません」
「文字は古い。紙も十四年前の軍用規格です。ただし、隠された魔力線は最近刻まれている」
彼女は青い光を紙の端へ滑らせた。
「誰かが古い手紙へ、今の暗号を重ねた。アーノルド本人が書いた可能性はありますが、別の人間が筆跡を写した可能性も残ります」
「つまり、罠かもしれない」
ガウェインが言った。
「父親が生きていると信じさせ、君を指定された場所へ誘導する。よくある手口だ」
「それでも、行きます」
「罠かもしれないと知っていて?」
「罠なら、誰が僕を待っているのかを見ます。父が書いたなら、なぜ十四年も黙っていたのかを聞きます」
僕は手紙を折りたたんだ。
「父を救うためではありません。父の罪を、僕の想像だけで決めないためです」
僕は手紙を握りしめた。
父は僕を捨てたのではないのか。
それとも、捨てた上で、戻ってくることだけを計画していたのか。
死んだと思っていた父が、生きている。
喜びはなかった。
あるのは、十四年間、死者へ向けていた待つ気持ちと恨みが、行き場を失った感覚だけだった。
オズワルドが、静かに名簿を閉じた。
「ユーリ。アーノルドは、最初から君を待っていたようだ」
「僕を?」
「君が古代兵器を運ぶことも、盗難犯にされることも、その先でこの手紙を読むことも」
地下室の外で、魔導通信の受信音が鳴った。
父からの手紙が、現在の事件へつながっている。
その音を聞いた時、僕は初めて理解した。
父が生きているかどうかは、まだ分からない。
ただ、僕がここへ来る道は、十四年前から敷かれていた。




