雪崩の道
警報の鐘が鳴り終わる前に、オズワルドは荷台を黒い馬車へつなぎ、隠れ家を出た。
荷台の奥で、シアンが軽く笑った。
「王都の外まで、ひとっ走りと洒落込もうぜ」
僕は笑えなかった。
「どうして、拘束されている?」
「オズワルドに捕まった」
「見ればわかる」
「ギルドの警備員の手は、お前らが逃げた騒ぎですぐ抜けた。そのあと孤児院へ向かう途中で、影班に囲まれた。戦ったけど、数が多かった」
シアンは両手を後ろで縛られている。灰色の火傷を隠す布も、左手の親指も見えない。
「オズワルドさんが、影班に?」
フィーナが尋ねた。
シアンが首を振る。
「違う。オズワルドは、影班の装備係だ。俺を捕らえた連中とは別の命令で動いている」
オズワルドが御者席から答えた。
「シアンは、孤児院へ向かうつもりだった。だが、その道にはすでに三つの部隊が配置されていた」
「なぜ知っている?」
ガウェインはいない。
それでも、フィーナの声には捜査官のような鋭さがあった。
「倉庫番はな、荷物の移動だけでなく、移動しなかった荷物も覚えている」
オズワルドは手綱を鳴らした。
「孤児院へ送られるはずの薬品が、三日前から倉庫に残っていた。受け取り側が消えたか、道が閉じられたか。どちらにしても、子どもたちの周囲で何かが起きている」
「だから、俺を捕まえた?」
シアンが聞いた。
「君を一人で行かせると、子どもを救う前に殺される」
「拘束して、どう救うつもりだ?」
「君を囮にする」
オズワルドは、あっさり言った。
「君が馬車にいるとわかれば、敵は追ってくる。追ってきた連中を、こちらが捕まえる」
「子どもたちは?」
「別の道へ移した」
シアンの顔から、笑みが消えた。
「本当か?」
「嘘をつく時、君は左手の親指を隠す」
オズワルドが言った。
「今は両手を縛られているから、わかりにくいがね」
シアンは黙った。
馬車が倉庫街を抜け、郊外へ向かう。
王都の外壁が遠ざかり、雪に覆われた農道へ入った。馬車の車輪が凍った道を踏み、車体が左右へ揺れる。
僕はシアンの前へ座った。
「母の名前を知っているか?」
「どの名前だ?」
「伝票に書かれていた名前」
シアンの親指が、見えない拘束の中で動いた。
「偽名だ」
「誰の?」
「お前の母親が使っていた」
「母は生きているのか?」
「わからない」
「また、言えないか?」
「違う。本当にわからない」
シアンは目を逸らした。
「十四年前、グラキエスの救援隊には、アーノルドの部下だけでなく、民間の救護員もいた。お前の母親は、その一人だった」
「なぜ、僕に言わなかった?」
「お前が小さかったから」
「今は?」
「今は、言えば死ぬ人間が増える」
馬車が橋へ入った。
下には、凍った川が流れている。雪で覆われた水面の下から、低い水音が響く。
オズワルドが手綱を緩めた。
車体の速度が落ちる。
「今だ」
シアンが呟いた。
彼の左手が、拘束具の内側で動いた。
金属音が一つ。
隠し刃が、袖口から滑り出る。
シアンは手首の縄を切った。
僕が立ち上がるより早く、彼は腰をひねった。床下に隠されていた魔導銃を蹴り上げ、宙で掴む。
銃口が、僕へ向いた。
「シアン!」
フィーナが叫ぶ。
「動くな、フィーナ」
シアンは彼女へ銃口を向けなかった。僕だけを見ている。
「お前は、俺を疑っている」
「疑っている」
「なら、俺を止めろ」
シアンが引き金へ指をかける。
僕は身体を低くした。
魔導銃の発射音が、馬車の中で弾けた。魔導弾は僕の肩をかすめ、車体の壁へ食い込む。
封殺弾ではない。
殺傷用でもない。
衝撃を一時的に奪う、拘束用の魔導弾だ。
「殺す気はないのか?」
僕は尋ねた。
「あるなら、最初に頭を狙ってる」
シアンが答える。
僕は床を蹴った。
馬車の中は狭い。剣を抜く余地もない。シアンが魔導銃を構え直す前に、銃身へ手を伸ばす。
彼は銃を引いた。
僕は腕を外へ流す。
魔導弾が天井へ当たり、馬車の魔力灯が消えた。
暗闇の中で、シアンの足音だけが聞こえる。
左。
次に、右。
僕は手を伸ばした。
シアンの肩へ触れる。
彼は身体を回し、僕の肘を取った。関節を折る角度へ力が流れる。
僕は体重を落とし、車体の揺れに合わせて腕を抜いた。
「その動き、前より速くなったな」
「お前が遅くなっただけだ」
「嘘だ」
シアンが笑う。
昔と同じ会話だった。
子どもの頃、ギルドの裏庭でふざけて組み合っていた時も、互いの動きを読みながら、こんなふうに言葉を交わした。
僕はシアンの手首を掴んだ。
彼の魔導銃が床へ落ちる。
同時に、シアンの隠し刃が僕の脇腹へ向かった。
刃の軌道が見える。
僕は身体を逸らした。
刃が服を裂き、皮膚をかすめる。
シアンの左手が伸びる。
決定的な一撃。
次に踏み込めば、僕の胸へ届く。
僕は、彼の肘を押さえた。
シアンの動きが止まる。
彼の視線が、僕の喉元から胸の中央へ落ちた。
刃先が、届く寸前で止まる。
僕はシアンの手首を捻り、刃を奪う。
シアンは空いた手で、馬車の扉を蹴った。
扉が開く。
冷たい風が吹き込み、雪が車内へ流れた。
「シアン!」
僕が手を伸ばした時、馬車の下から大きな音が響いた。
橋の脇の雪壁が崩れる。
オズワルドが、雪崩誘導杭を起動したのだ。
「飛び降りるな!」
オズワルドが叫ぶ。
だが、シアンはすでに橋の欄干へ手をかけていた。
雪崩が橋の側面を覆い、白い壁を作る。
シアンの姿が雪煙へ消える。
僕は扉から身を乗り出した。
「シアン!」
返事はない。
雪の斜面に、黒い羽根が一枚落ちていた。
フィーナが僕の肩を掴んだ。
「追えば、あなたも落ちます」
「放してください」
「駄目です」
「シアンが――」
「彼は、決定的な一撃を外しました」
フィーナは、橋の下を見た。
「殺すつもりなら、あの距離で外す理由がありません」
僕は雪煙を見つめた。
シアンは、僕を殺さなかった。
逃げたのではない。
逃げるしかなかったのだ。
馬車が橋を渡り終える。
オズワルドが扉を閉めた。
「彼は、何かを残した」
フィーナが、床へ落ちた小さな紙片を拾った。
シアンが拘束されていた場所に、細い糸で結ばれている。
紙には、短い暗号が書かれていた。
フィーナが鑑定鏡をかざす。
紙の繊維に、三重の焼け跡が浮かんだ。
僕は軍用暗号の規則を思い出す。
文字を読むのではなく、焼けた順番を読む。
最初の一行。
次に、裏側の二行。
最後に、紙の端へ残された一つの点。
「黎明の瞳の首領を指していない」
僕が言った。
フィーナが顔を上げる。
「では、誰を?」
僕は紙片に残った最後の文字を見た。
アーノルド。
父の名前だった。
暗号は、組織の首領ではなく、一人の人間を指している。
シアンが残した言葉は、短かった。
――首領を探すな。アーノルドを探せ。
馬車の外で、雪崩の音が遠ざかる。
僕は黒い羽根を拾い上げた。
シアンは、逃げながら父の名を残した。
まるで、父がまだどこかで生きていると知っているように。




