逃亡路の御者
開いたままの扉の向こうは、暗かった。
背後の路地から、バレルの部下たちが近づいてくる。魔導銃の発射準備音が、石壁へ反響した。
僕は先にフィーナを押し込んだ。
馬車の中は暗く、窓には魔力遮断の布がかけられている。外の灯りがほとんど入らない。
僕が乗り込むと、御者が手綱を鳴らした。
黒い馬車が動き出す。
直後、背後で魔導弾が石畳へ当たった。馬車の後部に青い亀裂が走ったが、車体の魔力障壁が受け止めた。
「王都の中心で、ギルド部長が魔導銃を撃つとは」
フィーナが言った。
「撃ったのは部下です」
「命令したのはバレルでしょう」
「見ていたのですか?」
「聞けばわかります。発射音が三つ。その後、彼の声で追跡を命じていた」
フィーナは、逃げ込んだばかりの馬車の中でも冷静だった。
僕は扉の隙間から外を見た。
黒塗りの車体は、表通りではなく狭い裏道を選んでいる。石畳の継ぎ目を避け、魔導灯の明るい場所を避け、警備詰所の前を通らない。
御者は、王都の裏道を知り尽くしている。
「この馬車は、誰のものですか?」
僕が尋ねた。
「倉庫番の馬車だよ」
御者が答えた。
その声に、聞き覚えがあった。
馬車が角を曲がり、御者席の覆いが少し上がる。
乱れた髪。
片方だけほどけた靴紐。
鍵束を腰へ下げた、だらしない倉庫番の顔。
「オズワルドさん」
僕が名前を呼ぶと、彼は振り返らずに笑った。
「やあ、ユーリ君。王都へ帰ってきたと思ったら、今度はギルドから逃げ出したのかい」
「助けてくれたんですか?」
「倉庫番は、なくなったものを拾う仕事だからね」
「僕たちは、なくなっていません」
「記録の上では、二人とも消されかけている」
オズワルドは手綱を操りながら言った。
「なら、拾っておく価値はある」
フィーナが馬車の床へ証拠袋を置いた。
「この馬車は、特務捜査隊の許可を受けていますか?」
「受けていない」
「なら、逃亡幇助です」
「そうだね」
オズワルドはあっさり認めた。
「あなたは、犯罪行為を軽く扱いすぎでは?」
「重く扱うと、動けなくなる。倉庫番は、荷物を動かす仕事だ」
馬車は、王立輸送ギルドから離れていく。
ギルドの鐘が遠ざかる。
オズワルドは大通りへ出る前に、馬車の側面にある小さなレバーを引いた。車輪の周囲へ薄い灰色の魔力膜が広がる。
「追跡印を隠す魔導具だ」
フィーナが言った。
「正確には、追跡印へ別の荷物の魔力を重ねる」
オズワルドは答えた。
「誰かを追跡するなら、目印が必要だ。目印を三つ重ねれば、追う側はどれが本物かわからなくなる」
僕は配達鞄を見た。
特務捜査隊の追跡印が、かすかに震える。
「ガウェイン特務捜査官は?」
「ギルドの中に残った」
「バレルの部下と?」
「彼は、部長を逃がさない。君たちを逃がす時間を作った」
オズワルドの声から、冗談が消えた。
「特務捜査官が、僕たちを助けた?」
「助けたのではない。捜査上の都合だろう」
フィーナが言った。
「彼は、証拠が消えるのを嫌がる」
「それでも、命を張ってくれた」
僕は窓の外を見た。
王立輸送ギルドの建物が、遠くの魔導灯の向こうへ消えていく。
「オズワルドさん。心臓の箱が公爵家の馬車へ移されたことを示す輸送票を、バレルが持ち出しました。母の名の伝票は、ここにあります」
「そうか。輸送票を持ち出したか」
「知っていたんですか?」
「輸送票の存在は知っていた。行き先までは見ていなかった」
「母が、十四年前のグラキエスにいた可能性があります」
オズワルドは、すぐには答えなかった。
馬車は石畳を離れ、古い倉庫街へ入る。
「母親の名前は、本名だったかい?」
「わかりません」
「なら、名前だけを追うな。名前は、記録を消す人間が最初に変えるものだ」
オズワルドは言った。
「受取人の筆跡、薬品の種類、受け取った場所。人間ではなく、周囲の物を照合しろ」
「フィーナさんと同じことを言いますね」
「封印鑑定士と倉庫番は、似た仕事をする。どちらも、記録からこぼれたものを拾う」
馬車が細い坂道を上る。
その途中で、オズワルドは御者席の横にある小さな収納箱を開いた。
中から、古い紙束を一つ取り出す。
表紙には、王国軍の古い印がある。
「十四年前の名簿だ」
フィーナが手を伸ばした。
「今、見せるのですか?」
「見せるが、渡しはしない」
オズワルドは紙束を胸元へ戻した。
「これは心臓の事件の記録ではない。アーノルド隊の救援名簿だ」
僕の視線が、紙束へ吸い寄せられる。
「父の部隊の?」
「正確には、部隊と避難した住民の名簿だ。王都の公式記録には、半分しか残っていない」
「残りは?」
「倉庫にしまった」
「なぜ、今まで渡してくれなかったんです?」
「君が自分で選ぶ余地を残すためだ」
オズワルドは、前を見たまま答えた。
「真実を知る準備ができていない人間へ、記録を渡すと、記録に人生を決められる。私はそれを、十四年前に一度やった」
彼の声が、少しだけ重くなった。
荷物を出せなかった倉庫番。
命令に従い、救援物資を止めた男。
彼は、記録を隠したのではない。
記録の中にある自分の罪を、誰にも見せられなかったのだ。
「オズワルドさん」
僕は、紙束を見た。
「母の名前は、名簿にありますか?」
「それは、自分で確認しろ」
馬車が急に止まった。
フィーナが壁へ手をつく。
「敵ですか?」
「違う」
オズワルドは、御者席から降りた。
「隠れ家に着いた」
王都の外れにある、古い荷物倉庫だった。表から見れば使われていない建物だが、扉には影班の偽造封印がある。
オズワルドが鍵を回す。
扉が開いた。
内部には、武器ではなく荷物が並んでいた。薬、包帯、毛布、食料。隅には偽造された通行証と、王国各地の配送札がまとめられている。
「ここは、影班の装備保管所ですか?」
フィーナが尋ねた。
「正確には、装備を渡す場所だった」
オズワルドは答えた。
「今は、誰が味方かもわからない。今回の作戦情報は、影班の内部から漏れている」
「影班の内部に、裏切り者が?」
「裏切り者とは限らない。命令を正しいと思っている人間が、もっと危険なこともある」
彼は倉庫の奥へ歩いた。
僕たちは後に続く。
薬箱の間を抜け、布で隠された荷台を開く。
その中に、人影があった。
腕を後ろで拘束され、壁へ寄りかかっている。
左手の親指を隠し、灰色の火傷を布で覆った男。
シアンだった。
彼は顔を上げた。
「……よお、親友」
オズワルドが、荷台の扉を閉めた。
倉庫の外で、王都の鐘が鳴る。
今度は、逃亡者を探す警報だった。




