消えた記録の行き先
止まったはずのバレルの手が、もう一度、母の名へ伸びた。
フィーナが赤い保存糸を結ぶより早い。
僕は伝票を掴み、胸元へ引き寄せた。
「これは、証拠として保全されています」
フィーナが言った。
「部長が勝手に持ち出すことはできません」
「私はギルドの管理責任者だ」
バレルは手を止めない。
「ギルドの記録は、ギルドが管理する」
「それは、記録を改ざんした疑いのある人間が言う台詞ではありません」
フィーナの声は平坦だった。
バレルの顔から、笑みが消えた。
彼は怒鳴らなかった。代わりに、扉の外へ目を向けた。
「警備員」
扉の外へ、短く命じる。
廊下の両端から、魔導銃を持った職員が現れた。
全員、ギルドの制服を着ている。だが、銃口を向ける角度が違う。訓練された兵士ではない。命令された職員が、怖がりながら武器を持っている。
「部長、これは尋問ではありません」
ガウェインが言った。
「証拠隠滅の準備に見える」
「特務捜査官は、まだここにいたのですか」
「捜査対象を置いて帰るほど、私は無責任ではない」
ガウェインが魔導銃へ手を伸ばした。
その瞬間、王立輸送ギルドの鐘が鳴った。
警報ではない。
外部からの緊急監査を知らせる鐘だ。
バレルの部下たちが一瞬、そちらへ顔を向ける。
フィーナが伝票を僕へ押しつけた。
「走ってください」
「フィーナさん?」
「あなたは、逃げる道を知っているのでしょう」
その問いは、確認だった。
僕は頷いた。
「ギルドの建物は、荷物を運ぶために作られています。人間が逃げるには、少し狭いですが」
「十分です」
僕は机を蹴った。
机が倒れ、記録板と封印箱が床へ落ちる。ガウェインが魔導銃を抜き、職員たちの足元へ魔導弾を撃った。
封殺の輪が広がり、職員たちの足を止める。
シアンは、僕たちと一緒には来なかった。警備員に腕を取られた彼が、唇だけで「行け」と伝える。
「今だ!」
僕とフィーナは、地下保管庫へ続く扉へ走った。
背後でバレルが叫ぶ。
「ユーリを逃がすな! フィーナも証拠を持っている!」
僕は走りながら、振り返った。
バレルが、机の下へ落ちた伝票を一枚だけ拾っている。
母の名が書かれた伝票ではない。
さっきフィーナが仕分けていた記録の束に混じっていた、心臓の箱が公爵家の馬車へ移された可能性を示す輸送票。
彼は、それだけを懐へ入れた。
他の記録には目も向けない。
裁判で必要になる伝票だけを、彼は持ち去った。
「ユーリ!」
フィーナの声で、前へ向き直る。
地下保管庫の扉は、魔力錠で閉じられている。
「開けられますか?」
「配達員ですから」
「その言い方は、もう信用しません」
フィーナは封印剥離ヘラを取り出した。
「鍵を壊すと、警報が鳴ります。封印の隙間を探します」
「三秒で」
「無理です」
「では、五秒」
「時間の問題ではありません」
フィーナは扉の封印へ青い光を当てた。
正規の魔力層の脇に、古い点検用の小さな封印がある。僕はそれを見つけた。
「右下です」
「見えています」
フィーナがヘラを差し込む。
封印が、音もなく外れた。
扉が開く。
「ユーリさん。あなたは、鑑定士が見ている場所を先に見つける癖があります」
「す、すみません」
「謝る癖もあります」
僕たちは保管庫へ入った。
棚には、荷札と空箱が並んでいる。奥には、地下整備路へ続く古い昇降機があった。
ギルドの地下から、裏通りへ出られる。
ただし、昇降機は停止していた。
魔導機関の導線が切られている。
「バレルが逃走路を塞いだ?」
「違います」
フィーナが床を見た。
「切断面が新しい。私たちが来る前に、誰かが切った」
追っ手は、最初から逃げ道を知っていた。
保管庫へ入ることも、地下へ逃げることも予測されている。
僕は周囲を見た。
左に荷物用の滑車。
右に空箱を運ぶ斜面。
天井には予備の魔力線。
「滑車を使います」
「人が乗るものではありません」
「荷物を運べるなら、体重にも耐えます」
「壊れたら?」
「落ちます」
「それを提案しているのですか?」
「他に道がありません」
背後から魔導銃の発射音が響いた。
魔導弾が保管庫の扉を削る。
「選択肢がなくなりました」
フィーナは即答した。
僕は滑車の台へ乗り、フィーナの手を引いた。二人分の重さで、台が軋む。
魔力線をつなぐ。
滑車が動いた。
斜面を下り、地下の荷物用通路へ滑っていく。
フィーナは鑑定鏡と保存糸を胸へ抱えている。僕は台の前方へ身を伏せ、追っ手の魔導弾が通路へ入る角度を読む。
一発目は左。
二発目は右。
三発目は、台を止めるために車輪を狙う。
僕は足元の空箱を蹴り飛ばした。
箱が車輪へ当たり、台の進路がわずかに逸れる。魔導弾は滑車の軸をかすめ、石壁へ突き刺さった。
「今のは、偶然ですか?」
フィーナが尋ねた。
「はい」
「嘘ですね」
「すみません」
台が地下通路の終点へ到着した。
扉を開けると、ギルド裏の排水路へ出た。雨と雪が混じり、石畳が濡れている。王都の裏通りには、まだ夕方の人通りが残っていた。
だが、ギルドの鐘が二度鳴った。
逃亡者を知らせる合図だ。
「フィーナさん、こちらへ」
僕は彼女の腕を引いた。
「なぜ、私まで逃げる必要があるのです?」
「バレルは、証拠を持っている人間を残しません」
「私が殺されると?」
「部長は、もう尋問を続けるつもりがありません」
背後から、扉が開く音。
魔導銃の発射準備を示す低い魔力音。
僕はフィーナを石壁の影へ押し込んだ。
魔導弾が、さっきまで彼女のいた場所へ当たる。
「公道で魔導銃を使うのですか?」
フィーナが聞いた。
「使う側が法律を守ると思いますか?」
僕は、排水路の奥へ走った。
フィーナは走りながらも、胸元の証拠袋を確認している。
「伝票は?」
「あります」
「封印箱の記録は?」
「あります」
「鑑定鏡は?」
「あります」
「では、あなたを置いていくわけにはいきませんね」
「どうしてそうなるんです?」
「証拠を持っているからです」
フィーナは淡々としていた。
逃げているのに、声が乱れない。
僕より、ずっと逃亡者に向いている。
排水路の出口へ出る。
王都の裏通りに、黒塗りの馬車が一台停まっていた。
窓は黒く、車体に紋章はない。
御者席には、顔の見えない人物が座っている。
馬車の周囲に、追っ手の姿はない。
僕は足を止めた。
「罠でしょうか?」
フィーナが尋ねた。
「わかりません」
「あなたにも、わからないことがあるのですね」
「あります。たくさん」
馬車の御者が、手綱を一度だけ鳴らした。
黒い扉が、内側から開く。
暗い車内から、誰かの声がした。
「乗れ。次に鐘が鳴ったら、ギルドの人間が全員こちらへ来る」
声は低く、聞き覚えがあるような、ないような響きだった。
フィーナが僕を見る。
僕は母の名の伝票を握り直した。
背後の路地から、バレルの部下が走ってくる。
前には、紋章のない黒塗りの馬車。
逃げ道は、そこしかなかった。




