シアンの沈黙
魔導通信の受信音が止んだ。
転送魔導陣室の中に、冷たい沈黙が残る。
シアンは、誰より早く立ち上がった。
「孤児院へ行く」
「どこにある?」
ガウェインが尋ねた。
「王都の西区画。古い水路の近く」
「住所を」
「言えない」
「なら、行けない」
ガウェインは魔導銃へ手を伸ばした。
「君を拘束する。証拠隠滅と、古代遺物の移動に関する事情を聞く」
「今、俺を捕まえれば、孤児院の名簿が燃える」
「脅しに聞こえる」
「脅しじゃない。あいつらは、言ったことを実行する」
シアンの声は落ち着いていた。
その顔を、僕は昔から知っている。左手の親指が隠れている時、彼は嘘をつく。
今、指は隠れている。
嘘をついている。
だが、孤児院の話をした時だけ、親指が袖口から出ていた。
そこだけは、嘘ではない。
「僕が聞く」
僕はシアンの前に立った。
「何をどこまでやった?」
シアンは僕を見た。
「俺は、ユーリの担当印を複製した」
フィーナが記録板を開く。
「方法は?」
「配達鞄の底に残っていた印影を、封印用の柔らかい蝋へ写した。完全な複製じゃない。外から見れば似ているが、魔力の芯は違う」
「箱の偽印に使われていたものと一致します」
フィーナが言った。
「あなたが複製した印ですか?」
「そうだ」
シアンは認めた。
「ただし、俺が押したのは偽の輸送箱だけだ。本物の箱を運び出したのは俺じゃない」
「鍵は借りた」
「借りた。整備路へ箱を移すために」
「心臓の箱を?」
「違う」
シアンは一度、目を閉じた。
「本物の心臓が運び出された後に、別の箱を移した」
シアンの指が、袖口の奥へ隠れた。
「俺が整備路へ入った時、本物の箱はすでに空だった。黒鉱石と、箱の底から返る三拍の共鳴だけが残っていた」
「何のために?」
「お前を逃がすためだ」
同じ答えだった。
あの時、木箱の横で聞いた低い響きと同じだった。僕が心臓の鼓動だと思い込んでいたものは、本物が移された後も箱の底に残った共鳴だった。古代の輸送路は、荷の抜けた箱にまで響きを残すらしい。
僕は拳を握った。
「僕を逃がすために、何をした?」
「心臓が盗まれたことになるよう、別の箱を用意した。王都の記録が混乱している間に、お前をギルドの外へ出すつもりだった」
「それで、僕は犯人になった」
「そうなるとは思わなかった」
「嘘だ」
僕は即座に言った。
シアンの指が、袖口へ隠れた。
「お前は、僕が犯人にされる可能性を知っていた」
「知っていた」
「それでもやった」
「やった」
シアンの返事は早かった。
「時間がなかった」
「僕の人生より、孤児院の方が大事だったのか?」
僕は、わざとその言葉をぶつけた。
シアンの親指が、袖口から出た。
隠さなかった。
「そうだ」
彼は答えた。
「子どもを見捨てるより、お前に恨まれる方を選んだ」
部屋の誰も、口を挟まなかった。
その答えだけは、嘘ではなかった。
シアンのポーカーフェイスは崩れていない。
けれど、目の奥には疲労が沈んでいた。誰かを救うために、別の誰かへ罪を押しつけた。その重さだけが、隠しきれずに残っている。
「心臓を盗んだのは誰だ?」
ガウェインが尋ねた。
「知らない」
指が隠れる。
「受け渡し役は?」
「名前は知らない」
また隠れる。
「どこで受け渡した?」
「言えない」
僕はシアンの手を見た。
嘘をついている。
だが、知らないのではなく、言えないだけだ。
「なぜ言えない?」
「孤児院の名簿を持っているからだ」
その時だけ、親指が出た。
「俺が話せば、子どもたちの名前と居場所が、敵へ渡る」
ガウェインは、シアンから視線を外さなかった。
「黎明の瞳が、孤児院を運営しているのか?」
「全部じゃない。救護部門と軍事部門がある。俺が関わっているのは、救護の輸送だ」
「黒い羽根を持っていた」
「軍事部門の連絡印だ」
「お前は軍事部門の人間か?」
シアンは答えなかった。
今度は、親指を隠すことさえしない。
言えないのではなく、答えを選んでいる。
「俺は、運ぶ人間だ」
シアンは言った。
「薬も、食料も、武器も。必要だと言われたものを運んだ」
「武器まで?」
「孤児院を守るために必要だと、言われた」
フィーナが眉をひそめる。
「守るための武器と、攻撃するための武器は、物証だけでは区別できません」
「だから、俺が区別する」
シアンの声が低くなる。
「子どものいる場所へ持ち込む武器は、敵が来た時だけ使う。王都を襲うためのものは運ばない」
「それは、あなたの判断ですか?」
「俺の判断だ」
シアンは、机の上の黒い羽根へ目を落とした。
「組織の全員が同じ考えじゃない。救護の人間と、報復を望む人間は別だ」
黎明の瞳は、一枚岩のテロ組織ではない。
孤児を守ろうとする者と、武器を運ぶ者が、同じ紋章の下にいる。
「では、心臓を受け取る命令を出したのは、軍事部門か?」
ガウェインが聞いた。
「知らない」
親指が隠れた。
「シアン」
僕は、彼の手首を掴んだ。
左手の袖がずれた。
手のひらから手首にかけて、灰色の火傷が広がっていた。
普通の火傷ではない。
皮膚の表面が焼けたのではなく、魔力の通り道そのものが灰色に変わっている。火傷の中心に、かすかな脈動があった。
僕は、それを知っている。
箱の底に残っていた灰。
禁忌の心臓が、近くにあった時の冷たい熱。
「それは、何だ?」
シアンが手を引こうとした。
僕は離さなかった。
「心臓に触れたのか?」
シアンの顔から、初めて完全に表情が消えた。
ポーカーフェイスではない。
思い出したくない記憶を、隠せない顔だった。
「触れた」
彼は認めた。
「いつ?」
「受け渡しの直前だ。封印がずれた」
「心臓は、箱の中にあったんだな。整備路で空だったというのは、嘘か」
「一瞬だけ」
「一瞬?」
「受け渡し役へ渡す前に、封印がずれた。俺が押さえた」
「誰へ渡した?」
シアンは答えない。
火傷の灰色が、かすかに明滅する。
「心臓は、俺の手を拒んだ。だから、俺は持てなかった」
「それでも触った」
「触らなければ、箱が壊れていた」
シアンは、僕の手を見た。
「お前を巻き込むつもりはなかった」
「もう巻き込まれている」
「知ってる」
「なら、全部話せ」
「話せない」
僕はシアンの腕を掴み、壁へ押しつけた。
フィーナが止めようとしたが、ガウェインが手で制した。
「ユーリ」
「この火傷は、僕が犯人にされたことより大事だ」
シアンの手のひらで、灰色の火傷が再び脈打つ。
あの地下水路の感触が、目の前の暗がりと重なった。
三拍子の合図。
誰かが残した、まだ終わっていないという印。
「心臓は、どこへ行った?」
僕は、低く尋ねた。
シアンは目を逸らした。左手の親指が、袖の中へ半分だけ沈む。
「王都の地下」
その言葉に、ガウェインが顔を上げた。
「場所は?」
「地下炉へ続く、古い整備路」
「王都に、古代炉があるのか?」
シアンは答えなかった。
代わりに、黒い羽根を拾い上げた。
「今夜、孤児院へ行く。俺が行かなければ、子どもたちが消される」
彼は僕へ向いた。
「来るな」
「行く」
「お前が来れば、狙われる」
「もう狙われている」
僕はシアンの灰色の火傷を見た。
「それに、僕はお前を信用していない。信用していないから、ついていく」
シアンは、苦しそうに笑った。
親指を、今度は隠さなかった。
黒い羽根が、彼の掌の中で震えている。
心臓に触れた者だけに残る灰色の火傷が、次の命令に合わせて淡く光った。




