二重封印の順番
台帳に残った名前から、僕の視線は離れなかった。
フィーナは台帳を閉じず、赤い保存糸の結び目と、返却印の下に残った薄い指跡を見比べていた。
結び目が一つ。
返却印が一つ。
僕の胸の中には、二つの事実が残った。
シアンが鍵を借りた。
シアンが箱を盗んだ。
同じ意味ではない。
「これだけでは、シアンさんが箱を盗んだ証拠にはなりません」
フィーナが言った。
僕は彼女を見た。
「鍵を持っていたのに?」
「鍵を持っていたことは、整備路へ入れた可能性を示すだけです。箱を移動させたこと、心臓を持ち去ったこと、あなたを犯人にしたことは別々に証明しなければならない」
ガウェインが頷いた。
「一つの疑いで、すべてを決めるな」
「ですが、シアンは箱に触れていました」
僕の声が低くなった。
左手の親指を隠す癖。
木箱に付いた灰。
検問所の偽封印と同じ結び目。
「それでも、本人へ確認する必要があります」
フィーナは、記録板を閉じた。
「物証は、問い詰めるためではなく、何が起きたかを再現するために使うものです」
その言葉は正しい。
正しいから、僕には苦しかった。
シアンは地下室の反対側に立っていた。整備路の鍵を借りた記録を見ても、顔色を変えていない。
ただ、指先だけが、袖口の中へ隠れていた。
「シアン」
僕が呼ぶと、彼は目を上げた。
「何だ?」
「整備路の鍵を借りたのか」
「借りた」
即答だった。
「返していないのか?」
「返した」
「返却印は後から押された」
「なら、返していないことになるな」
シアンは笑った。
いつもの笑い方だった。
肉パンを半分に分けた時と同じ、何でもない顔。
「何のために借りた?」
「荷物を移すため」
「何を?」
「お前に言えないもの」
僕の手が、拳になる。
「古代兵器か?」
「違う」
「心臓か?」
「違う」
「なら、なぜ僕の担当印が押された偽の箱が、検問所へ運ばれた?」
シアンは答えなかった。
フィーナが、封印箱の外装を机へ置いた。箱はまだ開けられていない。三重封印も、赤い保存糸も、そのままだ。
「この封印について、確認させてください」
フィーナはシアンへ向いた。
「外側の印は、あなたの結び方に似ています」
「似ているだけだ」
「結び目の端が左へ逃げています。ほどくための結びです」
「輸送の現場では、よく使う」
「ですが、その上へ固定用の結びを重ねた人間がいます。あなたの結びを知っている人間が、別の目的で利用した可能性もある」
シアンは、フィーナを見た。
「俺が箱を盗んだと言いたいのか?」
「私は、物証が示す範囲を説明しています。あなたが盗んだかどうかは、まだ聞いていません」
「じゃあ、聞け」
シアンの声が鋭くなった。
彼は僕を見た。
「ユーリ。お前は、俺が盗んだと思っているのか?」
答えられなかった。
思っている。
でも、信じたくない。
僕の中にある二つの判断が、互いを否定していた。
シアンは箱に触れた。
シアンは僕を逃がした。
シアンは灰を持っていた。
シアンは、僕を王都から連れ出した。
裏切り者と救助者が、同じ人間の中に存在している。
「お前は、俺を売ったのか?」
僕は尋ねた。
シアンの顔から、笑顔が消えた。
「売ってない」
「じゃあ、なぜ鍵を借りた?」
「お前を逃がすためだ」
「逃がすために、箱を動かした?」
「そうだ」
ガウェインの視線が、シアンの指先から封印箱へ移った。
フィーナも、記録板へ手を伸ばした。
シアンは続けた。
「俺はお前を逃がした」
「何から?」
「王都から」
「誰の命令で?」
「命令じゃない」
シアンは指を隠した。
「俺が決めた」
僕は、シアンの胸倉を掴んだ。
今なら、簡単に壁へ押しつけられる。戦闘の反射が戻った僕なら、彼の腕を封じ、腰の短剣を取り上げることもできる。
だが、シアンは抵抗しなかった。
「逃がしただけなら、なぜ僕を犯人にした?」
「俺がしたんじゃない」
「お前は箱に触れた」
「触れた。だが、盗んでいない」
「灰は?」
「箱を移すために使った封印材だ」
「帝国式の追跡具を外せたのは?」
「知っていたからだ」
「何を知っていた?」
シアンは、口を閉ざした。
黙っているのではない。
言えば、誰かが死ぬと判断している顔だった。
「言えよ」
「言えない」
「僕が疑われても?」
「お前が疑われる方が、まだ生き残れる」
「誰が?」
シアンの瞳が揺れた。
ほんの一瞬だけ、彼の視線が地下室の壁へ向いた。
「お前には関係ない」
「僕の人生を壊しておいて、関係ないだと?」
「壊したのは俺じゃない」
「なら、誰だ!」
声が地下室へ響いた。
シアンは、それでも答えなかった。
ガウェインが間に入る。
「二人とも、ここで殴り合えば証拠が壊れる」
「特務捜査官は黙っていてください」
僕は言った。
「これは僕とシアンの問題です」
「違う。古代兵器の盗難事件であり、複数組織が関与した捜査対象だ。君たちの友情だけで処理できる問題ではない」
正しい。
だが、正しさだけでは、胸に空いた穴は埋まらない。
フィーナが箱の封印へ目を戻した。
「シアンさん。あなたは、この箱の中身を知っていますか?」
「知らない」
「古代兵器が入っていたことも?」
「知っていた」
「では、なぜ知らないと言った?」
「心臓が移された後の箱を見ただけだ」
僕は息を止めた。
「移された後?」
シアンは、僕を見ない。
「俺が見た時、箱の中にはもう心臓はなかった」
言いながら、シアンの左手の親指が袖口の奥へ沈んだ。
「それなら、誰が移した?」
「知らない」
「見た場所は?」
「言えない」
シアンは、ポケットへ手を入れた。
何かを握っている。
ガウェインが気づいた。
「手を出せ」
シアンは従わなかった。
次の瞬間、ポケットの端から黒い羽根が落ちた。
床へ触れる。
黒い羽根の根元には、見覚えのある羽根形の刻印がある。
黎明の瞳の軍用部門が使う、黒い羽根。
僕はそれを見た。
シアンの手袋に心臓と同じ灰を見た時から、彼が何かの組織に関わっていることは疑っていた。
だが、今、彼のポケットから落ちた羽根は、ただの所属証ではない。
封印の端に残った灰と同じ色をしていた。
「シアン」
僕は、もう一度呼んだ。
「お前は、黎明の瞳なのか?」
シアンは黒い羽根を拾わなかった。
代わりに、親指を強く握り込む。
「俺は、お前を売っていない」
「質問に答えろ」
「答えたら、孤児院の子どもたちが消される」
その言葉で、地下室の時間が止まった。
シアンは、子どもたちを人質に取られている。
だから、盗難を否定しながら、誰の名も出せない。
「黎明の瞳が、子どもたちを脅しているのか?」
ガウェインが聞いた。
「違う」
シアンは初めて、強く否定した。
「脅しているのは、黎明の瞳の外にいる連中だ。俺たちが何をしても、孤児院の名簿を持っている奴がいる」
「俺たち?」
僕が聞いた。
シアンは答えなかった。
床に落ちた黒い羽根だけが、三重封印の影の中で揺れている。
フィーナが、羽根の横へ証拠札を置いた。
赤い保存糸が、黒い羽根を動かないように固定する。
「これも、記録します」
シアンが僕を見る。
「ユーリ。俺はお前を逃がした」
「そのために、僕を犯人にした」
「他に方法がなかった」
「僕には、あった」
僕は黒い羽根を見つめた。
「僕に話す方法が」
シアンの口が開きかける。
けれど、声は出なかった。
地下室の壁の向こうで、王立輸送ギルドの鐘が鳴る。
その音に重なるように、どこか遠くで魔導通信の受信音が一度だけ響いた。
シアンの顔から、血の気が引いた。
孤児院の名簿を持つ誰かが、次の命令を送ったのだ。




