消えた一時間
フィーナは、廃止された軍用封印の刻印を記録し終えると、レンズを閉じた。
「この箱だけを見ていても、誰が何をしたのかはわかりません」
彼女は、バレルへ視線を向けた。
「封印は、貼られた場所に残るだけです。貼られる前に箱がどこへあったのかは、床と周囲の魔力を調べる必要があります」
「ギルドの施設を勝手に調べるつもりか?」
バレルが言った。
「捜査官の許可があります」
フィーナはガウェインを見た。
ガウェインは、王国特務捜査隊の証印札を机へ置いた。
「王立輸送ギルド地下、転送魔導陣周辺を現場検証する。証拠の移動と廃棄は禁止する」
「その必要はない。記録は揃っている」
「記録が揃いすぎている」
ガウェインの声は平坦だった。
「最初の証言と最後の証拠を照合した結果、現場が必要になった」
バレルの顔が引きつる。
フィーナは箱を証拠袋へ入れ、赤い保存糸で封じた。
「行きます」
僕たちは、ギルドの地下へ降りた。
転送魔導陣は、普段なら荷物を短距離移送するための施設だ。円形の床石へ複数の術式が刻まれ、中心には荷物を置く台座がある。壁際には保冷魔法の制御器と、移送時刻を記録する魔導時計が並んでいた。
表面は掃除されている。
だが、掃除された場所ほど、残ったものが目立つ。
「配達の時に見た範囲では……ここが、箱を置いた場所です」
僕は台座の中央を指した。
「箱はここから倉庫へ移されたと、記録にはあります」
バレルが後ろから言った。
「定期点検のため、転送魔導陣は一時間停止していた。だから、その間の魔力記録がない」
「記録がないのではなく、停止していた?」
ガウェインが聞く。
「同じことだ」
「違う。停止していたなら、床石には停止の焦げ跡が残る」
フィーナは胸元からレンズを取り出した。
青い魔力光を床へ斜めに当てる。
転送魔導陣の輪郭が浮かび上がった。正規の術式は、すべて同じ方向へ焼けている。だが、台座の外側にある一部分だけ、焦げ跡の縁が逆方向へ屈折していた。
「ここだけ、魔力が逆流しています」
「故障では?」
バレルが言った。
「故障なら、焼け方は乱れる。これは乱れていない。誰かが、通常とは逆の向きから魔力を流した」
フィーナは床石へ指を近づけた。
「転送魔導陣を起動したのではありません。転送されたように見せるため、残留魔力だけを作った」
僕は台座の周囲へ視線を落とした。箱が転送されたなら、床へ残るのは魔力の焦げ跡だけのはずだ。だが、台座の隅には細かな泥がある。雪解け水で薄まった黒い泥。塩の粒が一つ、石の溝へ挟まっていた。
「転送の焦げ跡だけではありませんね。車輪か、荷台がここを通っています」
フィーナが僕を見る。
「そう判断した根拠は?」
「泥が乾く前に、何かが通った跡がある。泥の線が台座から廊下へ続いている」
フィーナは角度を変えた。
青い光が床面を走り、見えなかった水滴が浮かび上がる。
「雪解け水です。転送魔導陣の水ではない。外気に触れた雪が、荷物の車輪から落ちている」
「この地下に、雪が?」
ガウェインが尋ねた。
「荷物が外へ出たのではなく、外から地下へ入った。水滴の間隔が、台車の車輪幅と一致する」
フィーナは、魔力粉を床へ薄く撒いた。
粉が水滴の上で青く光る。
台座から廊下へ。
廊下から、壁際の古い扉へ。
扉の前で、跡が途切れている。
「ここは、保守用の整備路です」
ギルド職員の一人が言った。
「転送魔導陣が壊れた時に、魔導具を運び出すための道ですが、十年以上使われていません」
「鍵は?」
ガウェインが聞いた。
「管理室にあります」
「台帳を」
職員が鍵の貸出台帳を持ってきた。
フィーナは、時刻の欄を確認した。
公式記録では、転送魔導陣の定期点検は午後二時から三時まで。箱が倉庫へ到着したのは三時十五分。盗難が発覚したのは三時四十分。
だが、床の雪解け水は、もっと早い時間に落ちている。
「この水滴が残るには、少なくとも一時間必要です」
フィーナが言った。
「乾燥用の魔法が使われていない場所なら、二時間近く残る」
ガウェインは、魔導チョークで一つ目の水滴を囲んだ。
「証拠札、一番」
フィーナが札へ時刻を書いた。
ガウェインは二つ目、三つ目の水滴も囲む。足跡の薄い部分には小さな印をつけ、泥の線へ番号を振った。
誰も、床を踏まない。
僕は台座の中央に立った。
焦げ跡を見ていると、胸の奥がざわついた。
一時間。
前世の最後の作戦にも、一時間の空白がある。
崩壊する建物。
置いてきた誰か。
戻れなかった道。
あの一時間を、僕は思い出せない。
今世の輸送記録からも、一時間が消えている。
同じ長さの空白が、別の人生に重なっている。
「ユーリ?」
フィーナが呼んだ。
「顔色が悪い」
「大丈夫です」
「嘘です」
フィーナは即答した。
「人の記憶は、物証ほど正確ではない。けれど、あなたが見たものも記録する価値はあります」
「前世の記憶でも?」
言いかけて、口を閉じた。
通信記録ではない。
誰かから届いた証拠でもない。
僕の中に残った、個人的な感覚だ。
「昔の記憶です」
僕は言い直した。
「空白が、同じ長さでした」
フィーナは否定しなかった。
「では、現在の床に残った空白を調べましょう」
彼女は焦げ跡へ青い光を向けた。
「転送魔導陣は、点検中に一度だけ逆流している。その後、台車が整備路へ入った。台車が戻るまで、約一時間」
ガウェインが、魔導チョークで時刻を書いた。
「箱が消えた一時間は、魔導陣が停止していた時間ではない。箱が別の道へ運ばれた時間だ」
バレルが口を挟む。
「証拠は推測にすぎない」
「なら、鍵の台帳を調べる」
ガウェインは職員から台帳を受け取った。
整備路の鍵は、三本しかない。
一つは施設管理者。
一つは監査室。
もう一つは、臨時輸送担当者へ貸し出されている。
貸出記録の最後の欄に、名前があった。
シアン・レイヴェル。
僕の親友の名前。
文字は乱れていない。
日付も、時刻も、返却印も揃っている。
だからこそ、僕は息を止めた。
「貸出記録に、シアンの名があります」
ガウェインが言った。
「はい」
僕は答えた。
フィーナが、台帳の端へレンズをかざす。
青い光が、返却印の下に残った薄い指跡を浮かび上がらせた。
「返却印は、後から押されています」
彼女の声は静かだった。
「鍵は返却されていない。返却されたように記録された」
僕は、地下整備路へ続く古い扉を見た。
シアンの左手の親指。
塩坑の泥。
偽の封印の結び目。
そして、箱が消えた一時間。
フィーナが最後に、台帳へ赤い保存糸を結んだ。
「記録上、最後に鍵を借りたのは、シアンさんです」
その言葉が、地下室の冷たい空気へ落ちた。




