雪明かりの向こう側
偽の封印箱が、雪煙の向こうへ消えた。
追いかけるべきだった。
けれど、検問所の上に並んだ魔導銃の銃口が、魔導装甲車と診療所の患者へ向いている。箱を追えば、残された人間が狙われる。
僕が迷っている間に、谷の奥から低い角笛が鳴った。
一度。
二度。
三度。
ヴォルクの声が響く。
「全員、国境杭より後ろへ下がれ!」
白銀の外套をまとった彼が、検問所の北側に立っていた。辺境警備隊の兵士たちが、雪壁に埋め込まれた古い杭へ魔力を流している。
杭の先端が青白く光った。
「雪崩を起こす気か?」
ガウェインが叫んだ。
「起こす。検問所ごと埋めるわけじゃない。斜面を割って、追跡路を切る」
ヴォルクが答えた。
「検問兵も巻き込まれる」
「俺が避難させる。嫌なら、今すぐ全員を連れて谷を抜けろ」
ガウェインは一瞬だけ検問所を見た。
偽の箱を持ち去った隊長。槍を突いた若い兵士。命令の出所を答えられない検問兵たち。彼らを捕らえる時間はない。
「パック、魔導装甲車を国境杭まで」
「了解!」
パックが操縦桿を握った。
ガウェインは、僕の肩の傷へ視線を落とした。
「君は後部へ」
「まだ動けます」
「血が止まっていない」
「追跡できます。箱を持った者の足跡が――」
「箱は、もう追わない」
ガウェインの声が強くなった。
「今、君が追えば、こちらの人数が分断される。敵はそれを待っている」
正しい判断だった。
正しいから、悔しい。
僕は雪煙の向こうを見た。黒い外套が一つ、斜面の裏へ消えていく。偽の封印箱を抱えた腕が、最後に見えた。
その手袋には、同じ羽根形の刺繍が施されていた。
ヴォルクが、雪崩誘導杭を三度叩いた。
トン、トン、トン。
山の奥で、何かが目を覚ました。
最初に聞こえたのは、低い振動だった。次に、雪の下で岩が擦れる音。谷全体がゆっくりと息を吐き、白い斜面が崩れ始める。
「走れ!」
ヴォルクが叫ぶ。
検問兵たちが武器を捨て、国境杭の内側へ駆け込んだ。ガウェインが最後尾に立ち、逃げ遅れた若い兵士の腕を掴んで引きずる。
敵の魔導銃が一斉に火を噴いた。
魔導弾が雪を裂く。
ガウェインが一発だけ撃ち返し、敵の武器を封じる。ヴォルクの部下が雪壁を作り、魔導装甲車の側面を守った。
僕は後部の発射孔から外を見た。
雪崩は、谷を横切るように落ちている。検問所を押し潰すのではなく、道の中央だけを埋める計算だった。ヴォルクは地形を知り尽くしている。
それでも、自然を完全に制御できるわけではない。
雪の塊が国境杭へ迫った。
「パック、少し右!」
僕が叫ぶ。
「右、行く!」
パックは躊躇しなかった。
魔導装甲車が雪崩の端を抜ける。車体が大きく傾き、患者の寝台が滑った。エリーゼが患者を押さえ、ミーシャが子どもを抱き寄せる。
シアンが僕の腕を掴んだ。
「傷が開いてる」
「見ないで」
「見ないと血が床に落ちる」
「床が赤くなるだけだよ」
「お前の血だろ」
シアンは包帯を押さえた。
指先が、わずかに震えている。
彼の結び目の癖が、頭に浮かんだ。
左手の親指を隠し、布の端を二度折る。力をかけすぎず、最後だけ締める。
僕は検問所で見た偽の封印箱を思い出した。
封印の結び目。
斜めに二度折られた端。
最後に、左へ逃がした短い輪。
シアンと同じ結び方だった。
「どうした?」
シアンが聞く。
「包帯の結び目が、きれいだと思って」
「こんな時に?」
「こんな時だから」
僕は目を逸らした。
国境杭を越える。
雪崩の轟音が背後へ遠ざかり、魔導装甲車は王国側の検問路を抜けた。
グラキエスの北側。
王国の法律が届きにくい、雪と塩坑の土地。
前方には、古い石柱が一本立っていた。柱の表面に王国の紋章はない。代わりに、羽根形の刻印が刻まれている。
パックが車を止めた。
「国境、越えた」
誰も歓声を上げなかった。
越えた先に安全があるわけではない。偽の証拠は敵の手へ渡り、王国の記録では僕が盗難犯のままだ。
ただ、追跡する者の種類が変わった。
王国の検問兵ではなく、帝国の斥候と、黎明の瞳を名乗る者たちが、この先で待っている。
ヴォルクが魔導装甲車へ近づいた。
「ここから先は、辺境警備隊の管轄外だ。俺たちは検問所へ戻る」
「戻って大丈夫なのか?」
シアンが尋ねた。
「検問兵を処分するのは、王都の仕事だ。俺たちがやれば、王国軍と辺境が余計に揉める」
ヴォルクはガウェインを見た。
「特務捜査官。あの若い兵士は、最初からこいつを影班だと知っていた」
「記録に残す」
「記録だけで、人が救えるか?」
「記録がなければ、救ったことすら消される」
ヴォルクはしばらく黙った。
「なら、書け。俺たちは、王都の盗難犯を捕らえたのではない。王都の命令にない暗殺部隊から、患者と配達員を守った」
「証言するのか?」
「見たことは話す」
ヴォルクはそれだけ言い、魔導装甲車から離れた。
ガウェインは、王都へ戻るための小型雪上車を準備していた。特務捜査隊の徽章が付いた車両で、魔導装甲車より速い。単独で検問所と王都の記録を調べるつもりなのだろう。
「特務捜査官も戻るんですか?」
僕が尋ねた。
「戻る。公的な捜査を続ける必要がある」
「僕を捕まえないのですか?」
「君は、まだ逃亡中の容疑者だ」
ガウェインは、僕の鞄に付いた追跡印を見た。
「ただし、私は君を捕まえる前に、誰が偽の記録を作ったのかを調べる」
「その間、僕は?」
「先に真相を探せ」
予想していなかった言葉だった。
「特務捜査官は、僕を泳がせると言いました」
「今も同じだ」
「僕が塩坑へ行くことを知っているなら、止めるべきでは?」
「止めても、君は別の道から行く。なら、私が王都で記録を追い、君が現場を追った方が早い」
ガウェインは小型雪上車へ乗り込んだ。
「一つだけ忠告する」
「何ですか?」
「君の友人を、完全には信用するな」
シアンの姿を見たわけではない。
ガウェインが検問所で確かめたのは、偽封印だ。
僕がその結び目に気づいたことまで、彼が知っているかは分からない。
「特務捜査官も、僕を信用していませんよね」
「だから、追跡印を付けた」
ガウェインは雪上車の扉を閉めた。
「次に会う時は、もっとましな嘘を用意しろ」
雪上車が動き出す。
その背中が吹雪の向こうへ消えた後、僕はシアンの左手を見た。
彼は親指を隠している。
包帯の結び目は、もう見えない。
だが、偽の封印箱に使われていた結び方は、頭から離れなかった。
「シアン」
「何だ?」
「検問所の箱に、変な結び目があった」
シアンの左手が止まった。
「輸送箱なら、似たような結び方くらいある」
「そうだね」
僕は笑った。
気弱な配達員の笑い方で。
軍用魔導方位盤が、雪の下の塩坑を指している。
僕たちは魔導装甲車を再び動かした。
その後ろで、雪崩に埋まりきらなかった偽の封印箱の留め紐が、白い雪の上へ一本だけ残っていた。
結び目は、シアンの癖と同じ形をしていた。




