バッグに入れられないもの
古びた軍用魔導方位盤の針は、北を指していなかった。
魔導装甲車の床へ置くと、針は斜め下へ傾く。車体の揺れに合わせて動いているのではない。何かに引かれるように、谷の奥へ向かっていた。
「方角を示していない」
ガウェインが魔導方位盤を覗き込む。
「地下を指しています」
僕は答えた。
「針が下へ向く軍用魔導方位盤など、私は見たことがない」
「古代炉の魔力を拾っているのかもしれません」
シアンが言った。
エリーゼが患者の毛布を直しながら、こちらを見る。
「古代炉?」
「十四年前、グラキエスで事故を起こした遺跡です」
ガウェインが答えた。
「君たちは、その場所へ向かっている」
追跡印を付けた配達鞄が、僕の足元で小さく揺れた。ガウェインの監視は続いている。僕が向かう場所を知りたいのだろう。
「僕たちが向かうのは、塩坑です」
僕は言った。
両肩を均等に保つ。
「弾薬箱と木片に、塩坑の泥がついていました。あの古代兵器がどこを通ったのか、確認する必要があります」
「必要があるのは、君だけではない」
ガウェインは魔導方位盤をパックへ返した。
「この軍用規格は十四年前に廃止されている。なぜ、補給兵が持っている?」
パックは魔導方位盤を受け取った。
「昔の、もらった」
「誰に?」
「雪の人」
「答えになっていない」
「雪の中の人」
パックは真面目な顔で言った。
「灰色羽根、描いた人。道、教えた。パック、拾った」
エリーゼの手が止まった。
彼女はパックではなく、魔導方位盤の裏に刻まれた羽根形の印を見ている。
「それを、どこで拾ったの?」
「診療所の、裏。昔」
「いつ?」
「パック、小さい時」
パックは自分の胸元まで手を下げた。
今よりずっと小さかった頃のことを、言葉ではなく身体の高さで示している。
「雪の下、軍服の人。魔導方位盤、持ってた。死んでた」
診療所の中に、沈黙が落ちた。
十四年前の救援隊。
戻れなかった兵士。
灰色の羽根。
僕は魔導方位盤の表面へ指を近づけた。針の根元には、王国軍の古い刻印がある。その横に、小さな傷が三本刻まれていた。
魔導方位盤の裏蓋には、三本の傷に沿って細い継ぎ目が走っていた。凍結で留め具が緩み、内部へ薄い金属片を収められる構造らしい。僕は、それがただの古い補修部品だと思った。
トン、トン、トン。
古い合図と同じ傷だ。
ガウェインが僕の手を見る。
「知っているのか?」
「い、いえ。軍用道具には、こういう傷がつくこともあるのでは……」
「君は、今も右肩が下がっている」
「す、すみません!」
シアンが呆れたように息を吐いた。
「そこまで見られてるなら、もう隠す意味ないんじゃないか?」
「隠さないと、僕は死にます」
僕が小声で返すと、ガウェインは聞こえなかったふりをした。
その時、パックが魔導方位盤を魔導バッグへ戻そうとした。
「待ってください」
僕は手を伸ばした。
「それもバッグへ入るのですか?」
「入る。軍用魔導方位盤、魔力、少ない」
「では、古代兵器も入れられる?」
僕の問いに、パックは首を横へ振った。
「心臓、入らない」
シアンが目を見開く。
「どうして?」
「生き物、入らない。暴れる魔力、入らない。時間、動く道具、入らない」
パックは指を一本ずつ立てた。
「生き物。駄目」
「生き物を入れるつもりはない」
「心臓、似てる。意思、ある魔力炉。眠ってない、駄目」
僕の胸の奥が冷えた。
禁忌の心臓は、古代兵器の部品だ。けれど、ただの部品ではない。箱の中で脈打ち、保冷魔法を削り、誰かの意思へ反応していた。
魔導バッグには入らない。
最初から、逃げ道の一つが潰れていた。
「他にも規則があるのか?」
ガウェインが尋ねた。
「ある」
パックは魔導バッグを膝へ置いた。
「入れる順番、出す順番、違う。重い物、先。壊れやすい物、後。順番、間違う、中、崩れる」
「中身が崩れる?」
「違う。空間、折れる。道具、出ない」
ガウェインが眉をひそめた。
「収納空間そのものが閉じるのか」
「パック、気絶する。中身、全部、閉じる」
パックは淡々と続ける。
「死ぬ、もっと、駄目。バッグ、開かない」
その言い方に、ミーシャが顔をしかめた。
「パック、死なないでよ」
「パック、死なない。食べる、寝る。強い」
「そういう話じゃないよ」
ミーシャが言うと、パックは少しだけ耳を伏せた。
「……パック、気をつける」
短い言葉だった。
エリーゼが小さく頷いた。
「魔導具の制約を、持ち主が自分の身体で覚えているのね」
「補給兵は、物を運ぶだけではない」
パックはバッグの留め具を閉じた。
「何を運べるか、何を運べないか、先に知る。知らない、仲間、死ぬ」
その声だけは、片言でも妙に強かった。
ガウェインが視線を逸らす。
彼はパックを便利な道具として見ていたわけではない。だが、どこかで彼女のバッグを捜査道具として使うつもりだった。その考えを、今の言葉で改めたのだろう。
「バッグの中に、追跡具を入れて封じることはできるか?」
ガウェインが尋ねた。
「動いてる追跡具、駄目。眠らせる、入る」
「なら、さっきの魔導爆薬を収納できたのか?」
「止めてから、入る」
パックは黒い工具を見せた。
「これで、眠らせる。それから、魔力遮断布。最後、空の箱。順番、守る」
工具、遮断布、箱。
彼女は道具を取り出す順番だけでなく、戻す順番まで計算していた。
僕は魔導バッグを見る。
何でも出てくるように見えて、実際は何でも入れられるわけではない。持ち主が倒れれば、誰も中身へ触れられない。暴走する魔力炉は収納できない。
便利さには、必ず代償がある。
「ユーリ」
ガウェインが呼んだ。
「君は、心臓をバッグへ入れられないと知って、何を考えた?」
「な、何も考えていません」
肩が落ちた。
ガウェインの眉が上がる。
「君は、嘘をつく時だけ肩が下がるのではないな」
「え?」
「考えたくないことを考えた時にも下がる」
僕は慌てて肩を戻した。
ガウェインは、それ以上追及しなかった。
魔導装甲車は谷を抜け、古い塩坑へ続く分岐路へ入った。雪の下から、朽ちた木杭が何本も現れる。王国の地図には載っていない道だが、軍用魔導方位盤の針は迷わない。
針が、さらに下へ傾いた。
パックが操縦桿を引く。
「道、下り。地面、空洞」
「塩坑の入口か?」
シアンが窓から外を見る。
「入口は、もう埋まっているはずだ」
「上、違う。下、入口」
パックは計器を三回叩いた。
トン、トン、トン。
雪原の下から、低い振動が返ってきた。
僕の左手も、無意識に動きかけた。
魔導方位盤の針が大きく揺れ、王都とは反対の方向へ倒れる。針先は地面を指していた。
軍用魔導方位盤の裏側で、その刻印が淡く光る。
十四年前に消された救援隊の道が、雪の下で口を開こうとしていた。




