屋根の上の二人と走り出す地下道
同じ頃、補給車が谷の別の道を進む一方、グラキエスの古い鐘楼の屋根では、二人が伏せていた。
アリーシャは、まだ王国の保護対象だった。ここへ来たのは、武装した暗殺者としてではない。王国特務捜査隊が任務ごとに発行する観測許可を受け、クリスの補助役として鐘楼へ上がっている。
人へ向けて撃つ権限はない。魔導弩を使う場合も、許可札に記された記録杭や導路などの装置だけが対象になる。左脚の治療も続いており、近接戦闘と長時間の移動は禁止されていた。
雪で白くなった谷の向こうに、黒曜の天秤が使う臨時の中継所がある。崩れた石橋のたもとに、三本の魔力杭が立っていた。
杭は兵器の起動装置に見えた。
実際、中央の杭には、魔導走砲へつながる黒い導路が伸びている。左右の杭は山肌へ埋め込まれ、見えない線を王都と帝国研究都市の方角へ送っていた。
クリスは遠見の魔導鏡から目を離さなかった。
「破壊できる距離です」
アリーシャが、隣で低く言った。
「撃てば、中央の杭は折れる。あれなら一発で止められる」
彼女の指が、魔導弩の引き金へ触れる。
クリスは、その指を見た。
「まだだ」
「敵の装置ですよ」
「だからだ。見えるものを壊すだけなら、誰でもできる」
谷の入口には、黒曜の天秤の兵が四人いた。彼らは道を見ていない。
道を通る人間も、車体も見ていない。
魔力杭から伸びる細い光を、順番に確認していた。
兵の一人が、中央の杭へ小さな板を差し込む。
杭の表面に、白い文字が浮かんだ。
王家秘密保管庫。
その下に、受領予定時刻と、受領者の欄が並ぶ。
次に右の杭が明滅した。
グラキエス救護記録庫。
そこには施設名だけでなく、幾つもの小さな点が表示された。患者、避難民、行方不明者。点の数が、あまりにも多い。
アリーシャが息を呑む。
「あれは、名前の位置ですか」
「たぶん、名簿の頁だ」
クリスは魔導鏡の焦点を変えた。
浮かんだ点の一つに、黒い印が重なっている。
その印は、名前ではなく空欄に付けられていた。
受領者未定。
救護路の途中で消えた人間や、身分を証明する書類を持たない子供たち。そうした人々の欄だけが、黒く塗りつぶされようとしている。
中央の杭が、低く震えた。
クリスは魔導鏡の横に置いた砂時計を見た。
砂が落ちきる前に、杭の光が一つ消える。
次に消えたのは、王家秘密保管庫の表示だった。
「王都側が先です」
アリーシャが言った。
「なら、今のうちに中央を壊しましょう。次の起動へ移る前なら、まだ間に合います」
「違う」
クリスは、王都の方角へ伸びた導路を見つめた。
「王都を先に狙ったんじゃない。王都側の羽片が、先に受領路へ触れたから反応した」
昨日、三つの羽片が同時に光った。
そのあと、王都側だけが一度暗くなった。
誰かが受領路へ手を伸ばした、とクリスは考えた。
敵は、その瞬間を待っていた。
荷物がどこへ進むかではなく、どの記録が先に受け取られるかを見ている。
受領権限が動いた順番を、起動順へ変えている。
「起動装置は、配達を追っていません」
クリスは声を落とした。
「配達が成立した瞬間を、次の標的を決める材料にしている」
アリーシャが中央の杭へ視線を戻す。
「でも、それなら壊せば止まります」
「杭は、起動装置じゃない」
クリスは、長い間そこを見ていた。
杭の根元には、黒い導路とは別に、細い銀色の線がある。地面の下へ入り、谷の外へ伸びている。
杭は発射装置ではなく、誰かが記録を受け取った時刻を別の場所へ知らせる観測点だった。
壊せば、敵は見えなくなる。
だが、見えなくなるだけで、すでに送られた情報は消えない。
むしろ、観測点を壊した者が、何を守ろうとしたのかを推測される。
「観測します」
クリスが言った。
「敵がどの順で記録を消そうとしているか、最後まで見る」
「それで、間に合わなかったら?」
「その時は撃つ」
アリーシャは一度だけ頷いた。
彼女は魔導弩から手を離さなかったが、照準を杭から兵の足元へ移した。
照準を兵の足元へ移したのは、敵が板を差し替えるたび、誰がどの杭へ近づくのかを見るためだった。
谷では、兵の一人が三枚目の板を取り出した。
帝国第零技術局。
その表示の下に、技術記録の分類が並ぶ。
古代炉出力経路。
魔導走砲改造記録。
黒曜の天秤受領札。
ここまでは、予想通りだった。
だが、最後に浮かんだ欄を見て、クリスの目が止まった。
避難民名簿・照合用原本。
帝国の技術記録庫にも、救護記録の照合頁が保管されている。
名簿はグラキエスだけに保管されているわけではなかった。
王都の秘密保管庫には、契約によって分類された人間の一覧がある。帝国の技術記録庫には、実験や輸送の対象として数えられた人間の一覧がある。グラキエスには、助けられた者と、助けられなかった者の一覧がある。
三つは、同じ人間を別の名前で記録している。
敵が消そうとしているのは建物ではなく、その人間がどの国にとって、どの立場で存在していたかというつながりだ。
クリスは、先ほど王都側の羽片が暗くなった瞬間を思い返した。
人間の位置ではなく、認証の位置へ線が伸びる。標的がいる建物ではなく、名前のついた欄を先に消す。
今、目の前の杭も同じ順番で動いている。人間を撃つためではなく、受領者のない記録を切り離すために。
似た構造を見たからといって、同じ設計者だとは言えない。けれど、現在の表示と、羽片が暗くなった時刻は一致している。
クリスは、現世の物証だけを見て判断した。
「アリーシャ」
「はい」
「三つ目の杭を追え。光がどこへ戻るかを見る」
「破壊は?」
「まだしない。敵が次に消す頁を確認する」
アリーシャは魔導鏡の調整輪を回した。
遠くの谷が、白と黒の層に分かれて見える。
黒い導路は帝国研究都市へ向かっているように見えた。
けれど、その先で一度、細い光が折れている。
向かった先は都市ではなかった。
グラキエスの記録庫から、救護隊が持ち出した名簿の移動経路へ、線が伸びている。
アリーシャの声が震えた。
「クリス。標的が変わりました」
「どこだ」
「避難民名簿です」
中央の杭が、初めて赤く光った。
魔導走砲の起動順を示す表示に、三つの保管所ではなく、一冊の名簿だけが浮かぶ。
名簿の最初の頁。
受領者のいない人々。
名前はある。まだ、それを受け取る者が決まっていない人々だ。
クリスは照準を杭へ戻した。
引き金に指をかける。
けれど、まだ引かなかった。
「ユーリへ通信を送る」
アリーシャが魔力鏡を開く。
クリスは、谷の向こうで点滅する黒い光を見つめた。
「敵の兵器は、記録庫を壊すためだけに動いているんじゃない」
彼は、ゆっくりと言った。
「最初に消すのは、避難民の名簿だ」
その瞬間、三本の魔力杭が同時に沈んだ。
地面の奥で、巨大な車輪が回り始める。
魔導走砲が、まだ誰もいない線路の上で、出発のための魔力を蓄え始めた。
最初は、遠い雷のような振動だった。
次に、谷を覆っていた雪が一斉に跳ねた。古い線路が地表へ押し上げられ、凍った土を割って黒い鉄の帯が現れる。
線路は一本ではなかった。
王都へ向かう線。
帝国研究都市へ向かう線。
グラキエスの谷へ沈む線。
三本の線路が、地下の一点で重なっている。
クリスは魔導鏡を覗いたまま、息を止めた。
谷の底にあった石橋が左右へ開き、その下から巨大な魔導装甲車両の上蓋が現れた。
厚い黒鉄の板が持ち上がり、その下から魔導走砲が姿を現す。先頭部は砲台というより、城壁を横倒しにしたような形をしていた。車輪は通常の鉄輪ではなく、魔力を帯びた環状の石で、線路に触れず数寸浮いている。
車体の中央には、古代炉の脈動を閉じ込めた透明な管が走っていた。
管の中で、赤黒い光がゆっくり流れている。
武器を動かす炉ではなく、都市一つ分の魔力を別の場所へ配るための中枢だった。
先頭車両が動くと、三本の線路に埋め込まれた黒い導路が同時に灯る。
谷の向こうで、王家秘密保管庫の受領路が閉じた。
帝国研究都市へ向かう救護路が、黒い門で遮られた。
グラキエスへ続く古い排水路では、出口の石組みが軋んだ。
走砲はまだ一歩も進んでいない。
それなのに、三地域の道が、走砲を中心に組み替えられていく。
アリーシャは魔導弩を構え、引き金へ指をかけた。クリスは魔導鏡から目を離さず、調整輪の縁を二度叩いて彼女を制した。
「杭を壊しても、線路の接続は切れません」
クリスは、車両の側面に浮かんだ細い印を見た。
起動杭は沈んだままなのに、走砲の脈動は止まっていない。
杭は、走砲を動かすための部品ではなかった。
どの記録が、どの順番で受領されたかを測る観測点だ。
観測結果は、すでに走砲の中へ送られている。
「あれは、発車の許可を取るための目だ」
「なら、目を潰せば」
「見えなくなるだけだ。走砲は、もう自分の行き先を知っている」
クリスは魔導鏡の焦点を、先頭車両の後ろへ移した。
車両は全部で七つある。
一号車は古代炉の制御管。
二号車と三号車には、黒い帳簿と荷札が積まれていた。
四号車から後ろは空の荷台に見えたが、天井には細い受領路の管が何百本も並んでいた。線路の下にある輸送路とつながり、人や荷物の移動を走砲の判断一つで止められる構造だった。
後部車両の管へ、黒い荷札が吸い込まれた。
出発地の欄が薄れ、運んだ者の名が消え、届け先だけが残る。救護路から渡された名簿でも、同じ順番で受領者の欄が黒く沈んだ。
魔導走砲は記録庫を狙う砲台ではなく、黒曜の天秤が使ってきた輸送路を自分の帳場へ通し、人も荷物も届け先だけで受領済みにする移動式の帳場だった。
遠見の魔導鏡の中で、先頭車両の側面に文字が浮かんだ。
王都記録保管所。
帝国第零技術局。
グラキエス診療所。
行き先の名前が、走砲の表示に並ぶ。
だが、その横に、別の欄があった。
受領者。
黒曜の天秤。
クリスの背中に冷たいものが走った。
走砲は、記録を破壊しようとしているのではない。
記録を、自分の帳場で受け取ろうとしている。
そうすれば、王家の原本も、帝国の実行記録も、グラキエスの避難民名簿も、すべて同じ荷札で処理できる。
救護の記録を、兵器の輸送記録へ変えられる。
人間を、受領済みの荷物へ変えられる。
クリスは魔力鏡の通信弁を開いた。
「ユーリ、聞こえるか」
返事はすぐには来なかった。
線路が動き、通信路の魔力が走砲へ吸われている。
アリーシャが別の周波へ切り替えた。
今度は、雑音の向こうからガウェインの声が返る。
『こちら王都側。受領路の封鎖を確認した。原本の受け取り場所が、勝手に移動している』
「走砲は、受領欄を書き換えようとしている」
『つまり、動く保管庫か』
「保管庫であり、輸送路の支配者です。線路は、各地の救護路へ接続されています」
『ユーリは?』
「王都側の受領路にいる。走砲を追うな。受領人を変えられる前に、正しい受け取りを成立させろ」
通信の向こうで、ユーリの声が重なった。
『分かった。配達は、走砲へ届けるためのものじゃない』
「その通りです」
『走砲に受け取らせないために、先に人へ渡す』
その言葉が途切れた。
走砲の先頭から、低い警告音が響く。
音は一度、二度、三度と重なった。
クリスは目を逸らさなかった。
魔導走砲の照明が、一つずつ灯っていく。
灯った光は車体の窓ではなく、各車両が接続している輸送路の状態表示だった。
王都記録保管所。
帝国第零技術局。
グラキエス診療所。
表示の下に、同じ文字が浮かぶ。
受領待機。
そして、その下に、黒い印が重なった。
受領者変更。
アリーシャが息を吸う。
「走砲が、受け取り先を書き換えています」
「違う」
クリスは、黒い印の形を見た。
「書き換えているんじゃない。最初から、こちらが正しい受領者へ届ける前提で、別の受領者を用意していた」
黒曜の天秤の帳場が、三地域すべてに存在する。
奪われるのは荷物ではなく、受け取る人間の席だ。そこへ先に別の名を書いている。
発車鐘が鳴った。
魔導走砲が、ゆっくり前へ進む。
鉄の車輪は線路を削らず、線路の方が走砲へ吸い寄せられていく。
走砲が通ったあと、雪の下から黒い荷札が浮かび上がった。
その荷札には、各地の名前と、数え切れない人間の欄が刻まれている。
先頭車両の表示が変わった。
第一配達先。
王都記録保管所。
第二配達先。
帝国第零技術局。
第三配達先。
グラキエス診療所。
最後に、受領者の欄が黒く塗りつぶされる。
黒曜の天秤。
クリスは照準を下ろした。
「アリーシャ。杭ではなく、走砲の後ろを見ろ」
「後ろ?」
「走砲が動いたなら、必ず道を残す。あれは兵器であると同時に、輸送路そのものだからだ」
アリーシャは魔導鏡を後方へ向けた。
走砲が去った谷に、三色の魔力の糸が残っている。
白い救護路。
灰色の受領路。
黒い帳場路。
線路は絡み合い、ひとつの太い線になっていた。
その線の先で、待機していた黒い荷車が一斉に動き出す。
走砲はまだ遠くにある。
けれど、黒曜の天秤の運び手たちは、走砲が開いた道をすでに使い始めていた。
クリスは通信弁へ手を伸ばした。
「ユーリ。走砲が出た」
返事の代わりに、遠く三方向から、同時に魔力の警告が響いた。
受領路が閉じる。
人々の名前が、名簿の上から一つずつ消え始める。
魔導走砲は記録保管所へ向かうためではなく、国境そのものを自分の輸送路へ変えるために走り始めた。




