受け取る手と沈む車輪
魔導走砲の黒い線が、王家秘密保管庫、グラキエスの救護記録庫、帝国第零技術局の技術記録庫へ伸びている。
フィーナは、地図の端に置いていた温石を僕の側へ滑らせた。
「手を温めてください」
「まだ、冷えていません」
「冷えてからでは遅いので」
王家秘密保管庫。
グラキエスの救護記録庫。
帝国第零技術局の技術記録庫。
どれか一つを守るだけでは足りない。
一つが消えれば、残った二つの記録も、黒曜の天秤によって別の意味へ書き換えられる。
王家の原本だけが残れば、王国の秘密契約として処理される。
帝国の実行記録だけが残れば、技術局の暴走として切り捨てられる。
救護記録だけが残れば、現場の事故として葬られる。
すべてが同時に存在して初めて、契約の始まりと、実行と、被害が一本につながる。
「三か所へ、同時に届ける」
僕は、魔導鏡の地図を見ながら言った。
「一つの荷物を分けるんじゃない。最初から、役割の違う配達にする」
ガウェインが、机の上へ三枚の受領用紙を並べた。
「王都へは、継承機関の原本と、先王の承認欄。受領者は現国王の記録院。ただし、王家の罪を断定する文書ではなく、契約が存在した事実として届ける」
フィーナが、白い封印を押した。
「帝国研究都市へは、第零技術局が実行者として使った技術記録。古代炉の出力経路と、魔導走砲へ接続した改造箇所を添える」
シアンが、黒い帳簿の中から数枚の紙を抜き出した。
「これを持っていく。帳場が技術局へ渡した受領札と、局が受け取った部品の記録。オメガの名前はないが、誰がいつ権限を使ったかは追える」
「シアンが帝国側を担当する」
僕は言った。
シアンは黙っていた。
「一人で行かせない」
レヴィが先に言った。
「帝国都市の外縁までは、辺境救護隊が道を作る」
シアンが、レヴィを見る。
「僕の道だ」
「だから、後ろに人を置く」
「足手まといになる」
「戻った時に、受け取る人間が必要だ」
シアンの左手が、帳簿の端で止まった。
何かを言おうとしたが、口を閉じる。
やがて、帳簿へ白い糸を結んだ。
「一人では行かない」
短い言葉だった。
けれど、彼にとっては大きな譲歩だった。
アーノルドから、グラキエスの通信が入る。
『診療所の記録庫は、まだ白い受領路を一つ維持している。患者名簿、避難民の証言、黒い便だけが通った時刻をまとめておく』
「アーノルドがグラキエスを担当する」
僕は頷いた。
「フィーナは王都へ。王家の設計束と装置記号を鑑定し、受領人が原本を改ざんできないようにする」
「あなたは?」
フィーナが訊いた。
「王家へ向かいます。王家の原本を、最初の受取人へ届ける」
「あなた一人では?」
「一人ではありません。ガウェインが法的な受領を、僕が運搬と経路を担当します」
役割を細かく分ける。
誰かが捕まっても、別の配達は続く。
誰かが命令を誤っても、別の記録が残る。
前世の僕は、研究データ、避難者名簿、責任者の署名を一つの記録核へ集めた。その建物が崩れ、担当者も記録核も消えた。情報を集中させれば守りやすいと思っていたが、一つを壊せば全てが消える。
今度は、原本を裂かない。
一冊の帳簿は、最後まで一冊のまま運ぶ。その周囲へ、各地の照合札と証言を先に届ける。
「分けるのは荷物ではなく、受け取る手です」
「ただし、記録同士が無関係になってはいけない」
フィーナが言った。
「別々に届けても、同じ事件の記録だと分からなければ、敵は意味を変えられる」
「そこで、これを使う」
僕は、配達鞄から羽根を取り出した。
記念碑に届いた、生きた魔力を帯びた灰色の羽根。
羽軸の中央には、最初から三本の細い筋が走っている。
「複製はできないわ」
フィーナが言った。
「生きた魔力を持つ物を、増やすことはできない」
「増やしません」
僕は、羽根の根元を見た。
「羽軸の筋に沿って、それぞれの受領地点へ一時的な照合片を届ける。元の羽根が持っていた一つの印を、別々の証言へ結びつける」
「一つが欠ければ、完全な印にならない」
「だから、どの片も欠かせない」
フィーナは慎重に羽根を鑑定した。
魔力の流れは、羽軸の筋へ均等に分かれている。
どれか一つだけを抜けば、他の二つの光が弱くなる。
逆に、別々の受領印へ重ねれば、離れた場所にある記録が同じ事件として結びつく。
「分散鍵ね」
ガウェインが言った。
「各保管所が、それぞれ正しい記録を受領した時だけ、全体の照合が成立する」
「はい」
僕は、羽片を三つの筋に沿って分けた。
音はしなかった。
羽根は裂けるのではなく、最初から別の三片だったように、静かに離れた。
それぞれの羽片へ、異なる封印を重ねる。
王家の白印。
帝国の黒印。
辺境の救護印。
羽片は、別々の魔力を受け取った。
その瞬間、研究都市の地下から、低い脈動が響いた。
王家秘密保管庫の羽片が光る。
グラキエスへ送る羽片が光る。
帝国研究都市へ向けた羽片が光る。
羽片が、初めて同時に光った。
黒曜の天秤の黒い線が、白い光を追って伸びる。
だが、どの線も一つの道へ集められない。
王都へ向かう羽片は、王家の受領権限だけを開く。
グラキエスの羽片は、救護路と患者記録だけを開く。
帝国の羽片は、技術記録と帳場の受領札だけを開く。
黒曜の天秤が一つの荷物として奪おうとすれば、光が消える。
奪わずに別々へ追えば、受領地点が露出する。
オメガが、遠くの魔力管から声を送ってきた。
『君は、また道を分けるのか』
「今度は、戻る場所も決めました」
僕は羽片を、それぞれの配達人へ渡した。原本を分けるためではない。走砲の視線を別々の方向へ引きつけ、最後に一冊の帳簿を同じ受領所へ通すためだ。
「王都、グラキエス、帝国研究都市。三つの場所の記録を、互いに照合させます」
フィーナは鑑定鏡を閉じ、僕へ一度だけ目を向けた。
「無事に戻ってきてください」
僕は頷いた。
魔導走砲の黒い導路が、地下で震えた。
出力が、それぞれの記録保管所へ分かれる。
その直後、王都側の白い羽片が一度だけ暗くなった。
誰かが、王家の受領路へ先に手を伸ばした。
僕たちは、それぞれの国境へ向けて、同時に配達を始めた。
王都へ向かう道が白く光り、帝国研究都市へ向かう道が黒く沈み、グラキエスへ向かう道だけが、細い灰色の線になっていた。
三つに分けた配達は、同じ時刻に始まった。
けれど、道が三つに増えたわけではない。
黒曜の天秤は、王国と帝国を結ぶ主要街道のほとんどを、すでに押さえていた。峠の関所には帝国兵が立ち、谷間の橋には黒い帳場の札が下がっている。正式な通行許可を持っていても、荷札の魔力を読み取られれば止められる。
グラキエスへ向かう補給車は、その封鎖峠を越えなければならなかった。
運転席に座るヴォルクが、前方の雪壁を睨む。
「正面を崩す。車体なら通れる」
隣のパックは、窓から身を乗り出していた。
小さな身体に不釣り合いな大きな鞄を抱え、雪の斜面と、そこに残された車輪跡を見比べている。
補給車には治療用の魔石、水袋、乾燥食、診療所へ届ける受領箱が積まれていた。受領箱の底には、三つに分けた羽片の一つが収められている。
患者名簿そのものは、別の救護隊が運ぶことになっていた。
出発前、パックは乾燥食の箱から肉を三切れだけ取り出した。ひとつをヴォルクへ、ひとつを自分の口へ、最後のひとつを工具袋の上へ置く。
「それは食べるのか」
ヴォルクが訊くと、パックは首を振った。
「あと。手、汚れる」
工具を使い終えてから食べるつもりらしい。ヴォルクが肉を口へ運ぶと、パックは満足そうに頷き、すぐに雪の斜面へ目を戻した。
この車の役目は、先に受領権限を現地へ持ち込むことだ。記録が届いても、受け取る権利がなければ、黒曜の天秤はそれをただの紙束に変えられる。
ヴォルクが車体の魔力炉へ手を伸ばした。
パックが、彼の袖を掴んだ。
「ヴォルク。待つ」
「何が見える」
パックは答えなかった。
前方には、峠を越えた車輪跡が三本ある。
中央の跡は新しい。雪が均され、車輪の溝も深い。誰かが、ついさっき通ったように見える。
右側の跡は古く、半分ほど雪に埋もれている。
左側には車輪跡すらなかった。
ただ、斜面の一部だけ、雪の色が薄い。
白ではなく、灰色がかった水の筋が地面へ向かって伸びている。
パックは鞄から短い鉄棒を取り出した。雪の薄い場所へ突き立てる。
硬い感触のあと、三寸ほど沈んだ。
さらに、もう一度。
今度は深く落ちた。
鉄棒を動かした時、地下から低い音が返ってきた。
とん、とん、とん。
パックは耳を伏せた。
その仕草を見て、ヴォルクの手が魔力炉から離れる。
「空洞か」
パックが頷いた。
「下、水。古い道」
「古い排水路だと?」
「道、眠る。まだ、使える」
ヴォルクは正面の雪壁を見た。
「なら、なおさら正面を開ける。最短だ」
パックは首を横へ振った。
小さな指が、中央の車輪跡を示す。
雪の溝は深いのに、溝の底だけが濡れていない。新しい車輪が雪を押し固めたなら、そこには融けた水が残るはずだった。
逆に、左の斜面には水の筋がある。
誰も通っていない場所の雪だけが、地下の熱で融けていた。
パックは中央の道へ近づくと、荷車の跡の端へ指を触れた。手袋に付いた黒い粉を親指で擦る。雪なら水気を含んで崩れるはずなのに、粉は指の腹へ細かなざらつきだけを残した。
雪ではない。魔力を吸う細かな鉱粉だった。
「いつから気づいていた」
ヴォルクが低く訊いた。
パックは、峠の上にある見張り台へ目を向けた。帝国兵の姿はない。だが、壊れた旗竿の先に黒い羽虫のようなものが三匹止まっている。風が吹いても動かず、こちらの荷台だけを向いていた。
パックは、受領箱の上に置かれた乾燥食の木箱を指差した。
「敵、道じゃない」
ヴォルクの眉が動く。
「何を見ている」
「荷物、見てる」
その言葉と同時に、黒い羽虫の一匹が飛んだ。
まっすぐ車輪へ向かわず、荷台の後ろへ回る。
荷札の魔力を探している。
道を監視しているなら、車体の動きか、車輪の熱を追うはずだ。けれど、黒い羽虫は木箱の隙間を覗き込み、受領箱の近くで羽を震わせた。
パックの目が細くなる。
以前、同じ印を見た。
王都の地下で、荷物の外殻だけを交換した灰色の人影。
箱そのものではなく、箱が持つ「誰へ届く予定か」という意味を狙っていた。
最短距離は、安全な距離ではない。
敵にとって、もっとも読みやすい距離だ。
パックが、荷台の木箱を一つだけ下ろした。
「おい」
ヴォルクが止める。
パックは箱を開けず、表面に結ばれていた麻紐を解いた。乾燥食の箱には、黒い粉が薄く付着している。
その粉は、中央の車輪跡へ落ちるよう、箱の底にも仕込まれていた。
誰かが正規の補給車を一度通し、荷物へ鉱粉を移したのだ。そうすれば、封鎖兵は車がどの道を選んでも、目当ての箱を追える。
パックは箱を車の前へ置いた。
「これ、囮」
「中身は」
「食べ物。捨てない」
「囮にするなら、壊されるぞ」
パックは鞄から別の布を出し、箱へ巻きつけた。布には、救護隊が使う赤い印がある。
「敵、食べ物も見る。人、困る」
ヴォルクが短く息を吐いた。
「本物の補給を囮にして、別の道を行くか」
パックは受領箱を抱えた。
「羽根、守る。食べ物、戻る」
その言葉を聞いたヴォルクは、正面の雪壁へ向けていた車体をゆっくり左へ向けた。
斜面の雪を削る。
水の筋が現れ、その下から古い石組みが出てきた。石には、今では使われていない黒曜の天秤の初期印が刻まれている。
帳場が人を数える前、救護隊が人を名前で呼んでいた時代の印だ。
パックは石の継ぎ目へ指を差し込んだ。
奥から、かすかな風が吹いた。
通れる。
だが、車体全体が入るほど広くはない。
ヴォルクが魔力炉を低出力にした。
「歩いて運ぶ」
パックは首を振った。
「時間、ない」
遠くで、金属を擦る音がした。
中央の道に置いた木箱へ、何かが触れたのだ。
次の瞬間、黒い羽虫が一斉に舞い上がった。
黒い線が雪の上を走り、木箱の周囲を円状に囲む。
箱の中身を確認するための、封鎖結界だった。
ヴォルクが横目で見る。
「もう始まった」
パックは鞄から小型の車輪を二つ取り出した。
補給車の側面へ取りつけ、車体を斜めに傾ける。
「何をする」
「車、細くする」
「そんな都合よくいくか」
パックは答えず、車体の下へ潜った。
装甲板の留め具を外し、予備の浮遊石を一つ抜く。重量を支えていた石が外れ、車体の片側が数寸沈んだ。
その分だけ、反対側の車輪が斜面の石組みに沿う。
ヴォルクが魔力炉を調整した。
「三拍で入る」
パックが頷く。
「一。二。三」
補給車が、古い排水路へ滑り込んだ。
装甲板が石壁を擦り、耳障りな音を立てる。
外で黒い結界が閉じた。
だが、敵は車の姿を見失った。
排水路の中は暗く、魔力灯をつければ位置を知られる。ヴォルクは灯りを消し、パックは鞄から淡い青色の石を一つだけ出した。
光ではなく、足元の水の流れを照らす石だ。
前方へ行くほど、水が温かい。
古い道は、グラキエス側の谷へつながっている。
けれど、半ばまで進んだ時、後方から別の音が響いた。
石組みの向こうから、探るような三度の音が返った。
敵が、地上から石組みを叩いている。
こちらの空洞を探している。
パックは受領箱を抱え直した。
灰色の羽片が、箱の中で弱く明滅する。
その光に呼応するように、排水路の奥でも別の光が点いた。
救護路の古い標識だった。
道はまだ生きている。
ただし、道の出口には、誰かが先回りしているかもしれない。
パックは出口の先を見つめ、低く呟いた。
「道、見てない。届く先、見てる」
そして、受領箱の蓋を開けないまま、箱の底に指を当てた。
冷たい木の向こうで、灰色の羽片が三度、脈打った。
王都側の羽片と、帝国側の羽片が、遠くで応じる。
三つの配達は、まだ一つも届いていない。
それでも、敵が見ているものが荷物なら、こちらにも見せる荷物を選ぶことができる。
パックは、出口の前に積まれた雪を見た。
そこには、新しい足跡が二組あった。
人間のものではない。
小さな車輪と、細い杖の跡。
誰かが先に、古い救護路へ入っている。
ヴォルクが剣へ手を伸ばした。
パックは彼の腕を押さえ、首を横へ振る。
「敵、か」
パックは足跡のそばに落ちていた白い糸を拾った。
結び目は、シアンが使うものと同じだった。
「味方、か」
パックは、わずかに首を傾けた。
白い糸の端には、黒い粉が付いている。
シアンがここへ来たのか。
それとも、彼の結び目を知る誰かが、荷物を見ているのか。
排水路の先で、何かが三度、石を叩いた。
とん、とん、とん。
パックは鞄を背負い直した。
「ヴォルク。行く」
補給車は、まだ見えない出口へ進んだ。
その背後で、地上の黒い結界が、空になった道をゆっくり閉じていった。




