破られた壁
雪煙の向こうで、パックが両手を振っていた。
彼女の後ろには、辺境警備隊の魔導装甲車がある。車体の前面には分厚い除雪板が取り付けられ、側面には魔導銃の発射孔が並んでいる。王都の輸送車よりも荒々しいが、傷はすべて補修されていた。
この車両は、辺境警備隊が新しく造ったものではない。旧塩鉱道の調査車を払い下げ、何度も補修して使っている古い車体だ。床下の部品も、警備隊は補強材の一つとしか考えていなかった。
「パック、ここへ突っ込んだのか?」
シアンが尋ねた。
「壁、邪魔。壊した!」
「見ればわかる」
パックは胸を張った。
その隙に、魔導装甲車の背後で魔導銃の発射音が響いた。雪壁を抜けた敵が、診療所へ向けて撃っている。
ガウェインが入口へ立った。
「全員、魔導装甲車へ移動する。患者を中央に置き、運転席側へ敵を近づけさせるな。エリーゼ医師は負傷者を確認し、ミーシャは子どもの人数を――」
「了解!」
パックが即答した。
パックは、ガウェインの長い指示を一度でのみ込んだ。片言の返事とは裏腹に、動きには迷いがない。車から飛び降り、患者を二人ずつ抱え上げた。小柄な身体のどこにそんな力があるのか、老人を乗せた寝台まで持ち上げている。
「パック、待って。そちらは足を怪我しているわ」
エリーゼが言うと、パックはすぐに患者の足元へ回り込んだ。
「痛い方、揺らさない。こっち、持つ」
「そう。あなた、話は全部わかっているのね」
「パック、全部、聞いてた」
パックは患者へ毛布をかけながら答えた。
ガウェインは一瞬だけ彼女を見たが、すぐに指示へ戻った。
「シアン、外壁側を見ろ。敵は正面から入ってくる。ユーリ、君は後部座席へ――」
「僕が後ろを見ます」
「命令ではない」
「でも、必要です」
ガウェインの目が細くなる。
僕は慌てて肩を縮めた。
「す、すみません。で、でも、後ろから来る敵の足音が……」
「わかった。後部を担当しろ」
この程度の我儘は、気弱な配達員にも許される。
僕はシアンと共に魔導装甲車の後部へ回った。雪煙の向こうから、黒い外套の男が三人走ってくる。魔導銃を構えているが、足場が悪い。こちらを撃てば、仲間へ当たる距離だ。
僕は扉を閉めた。
魔導車の中には、薬箱、毛布、工具、乾燥肉の袋まで積まれている。戦場へ向かう車というより、誰かが生きて帰るための車だった。
パックが運転席へ飛び込む。
「パック、出せ!」
ヴォルクが外から叫んだ。
「了解!」
パックが操縦桿を引く。
魔導装甲車の魔導機関が唸り、車体が大きく揺れた。入口を塞いでいた雪が巻き上がり、診療所の壁が遠ざかっていく。
後ろから魔導弾が飛んできた。
弾は魔導装甲車の側面へ当たったが、外板の魔力障壁が受け止めた。青い火花が散り、車内の灯りが一度だけ暗くなる。
「右へ!」
ガウェインが叫んだ。
「右、崖。行かない」
パックは即答し、操縦桿を左へ倒した。
「右へ避けろという意味だ。正面の雪丘を越えた後、北東へ進め。敵の射線を外し、谷の出口でヴォルク隊と合流する」
「了解!」
パックは長い指示を聞き終えると、迷いなく車体を切り返した。
僕は後部の小窓から外を見た。
ガウェインの指示通り、魔導装甲車は雪丘の裏へ入り、敵の射線から外れる。パックは道を見ていない。雪面の硬さ、埋もれた杭、風の向きから、車体が通れる場所を選んでいる。
「すごいな」
思わず呟いた。
「パック、すごい?」
運転席から声が返る。
「すごいよ」
「パック、知ってる」
パックは満足そうに答えた。
シアンが吹き出す。
「そこは謙遜しないのか」
「謙遜、食べられない。必要、ない」
エリーゼが患者の包帯を確認しながら、静かに笑った。
魔導装甲車は谷へ入った。
雪壁が両側から迫り、視界が狭くなる。ここなら敵の魔導銃は使いにくい。だが、車体が大きく揺れ始めた。
僕は床へ手をついた。
車輪の振動に、別の脈動が混じっている。
規則的ではない。
魔導機関の回転でも、車体の軋みでもない。
「止めてください」
パックが振り返った。
「止まる?」
「車体の下に、何かあります」
「敵?」
「わかりません。ただ、魔導装甲車の振動と合っていない」
パックは操縦桿から手を離さず、片耳を軽く動かした。
次の瞬間、彼女は床を三拍子で叩いた。
トン、トン、トン。
床下から、微かに同じ音が返る。
パックの表情が変わった。
「車、変。下、帝国の追跡具」
シアンが立ち上がった。
「まだ仕込まれていたのか?」
「王都からの輸送車に付いていたものは、僕たちが外したはずだ」
「別の、ある」
パックは前方の計器を指差した。
「これ、魔力、少し、減ってる。追跡具、車体の下で、動いてる」
ガウェインが計器を覗き込む。
「帝国式の追跡具は、車体の魔力を少量ずつ吸い上げる。受信器へ位置を送るためだ」
「それなら、今も敵に位置を知られている?」
「おそらく」
窓の外で、遠くから魔導銃の発射音が響いた。
敵は、谷の入口へ回ってきている。
パックは操縦桿を握り直した。
「追跡具、外す?」
「走行中に外せるのか?」
シアンが尋ねる。
「パック、補給兵。車、壊れても、走る。走って、壊れても、直す」
パックは足元の魔導バッグを引き寄せた。
小さな革製のバッグだ。外見だけなら、乾燥肉や包帯が入る程度にしか見えない。
だが、彼女が留め具を外すと、中から金属製の工具がいくつも現れた。細い鉤、魔力を遮る布、折り畳み式の鏡、冷却用の薬液瓶。どれも使い込まれている。
ガウェインが眉を上げた。
「それは何だ?」
「工具」
「見ればわかる。何に使う?」
「悪い魔力、止める」
パックは、工具の中から黒い柄の短い道具を取り出した。
先端には、三重の輪がついている。封印を剥がすための道具に見えるが、中心部には淡い白光が閉じ込められていた。
「対魔導工具か」
ガウェインが言った。
「パック、これ、使う。追跡具、眠らせる」
パックは道具を手の中で回し、魔導装甲車の床に耳を当てた。
「下、左。後輪の近く」
僕も床へ手をついた。
脈動が、確かに聞こえる。
トン、トン、トン。
車体の下にある追跡具が、遠くの受信器へ信号を送っていた。
その信号は、僕の癖を知る誰かが使う合図に似ていた。僕たちがこの車に乗ることまで、最初から計算されていたのかもしれない。
「ユーリ」
ガウェインが呼んだ。
「君は、何か気づいたか?」
「……ただの追跡具ではないかもしれません」
「理由は?」
「信号の間隔が、王都で見た追跡具と違う」
僕は答えた。
「三拍子で送っている。位置情報だけでなく、受け取った側へ合図を返している」
車内が静まった。
パックの耳が、ぴんと立つ。
「三拍子。古い合図?」
「そうかもしれない」
僕は自分の左手を見た。
また、三拍子で叩きそうになる。
ガウェインが僕の手元を見た。
だが、何も言わなかった。
その時、谷の上から雪が崩れた。
敵が追いついた。
黒い影が雪壁の上に並び、魔導銃の銃口をこちらへ向けている。魔導装甲車の魔力障壁が、一度の攻撃なら耐えられても、集中射撃には持たない。
「パック、走れるか?」
ガウェインが尋ねた。
「走る。壊れる、まだ、走る」
「追跡具を止めながら、谷を抜けろ」
「了解!」
パックは迷いなく答えた。
彼女は魔導バッグを開いたまま、黒い対魔導工具を僕へ差し出した。
「ユーリ、これ、持つ。パック、下、行く」
「僕が?」
「ユーリ、音、聞こえる。場所、教えて」
片言の言葉だった。
けれど、彼女は僕へ任せている。
ガウェインが魔導装甲車の側面へ魔導銃を構えた。シアンが後部の発射孔を開き、ヴォルクの部下が谷の入口へ応戦する。
エリーゼは患者を押さえ、ミーシャは子どもたちの頭を毛布で覆った。
パックは運転席から床下へ降りる扉を開いた。
冷たい風と、帝国式追跡具の低い脈動が車内へ流れ込む。
僕は黒い工具を握った。
工具の中心で、白い光が三度、瞬いた。
パックが振り返る。
「これ、魔導爆薬、止める道具」
その言葉に、僕の指が止まった。
追跡具の隣に、別の魔力反応がある。
もっと小さく、もっと危険な反応。
車体の下で、何かが目を覚ましかけていた。




