呼ばれた名と画面の裏側
局長の言葉が、青い魔導鏡の中へ沈んだ。
君が戻ったせいで、また損失が増える。
それは、僕の罪悪感の形を知る者が選ぶ言葉だった。
少なくとも、現世の僕が何人を救えなかったかを、この男に話した覚えはない。
それなのに、前世と同じ場所を刺してくる。
「あなたは、前世の記憶を持っているんですね」
僕が言うと、局長は否定しなかった。
「持っている」
短い返事だった。
ガウェインが盾を少し上げる。
「前世という言葉を、今の世界の記録で説明できるか」
「できない。記録ではなく、私自身の記憶だからだ」
局長は魔導鏡へ手を伸ばした。
都市の地図が消え、青い光の面に、別の風景が浮かぶ。
現在の研究都市ではない。
壁の色も、道の形も違う。
高い建物が並び、空には灰色の雲が広がっていた。
魔導鏡の光が、局長の指の動きに合わせて揺れた。鏡の中の建物だけが、現在の研究都市と違う輪郭を持っている。
高い建物。上空から見下ろす光点。閉鎖された扉と、赤く点滅する危険区域。
フィーナが鏡面へ鑑定鏡を重ねた。光景は消えず、代わりに枠の縁だけが細く赤くなった。
「現世の物証ではないわ。本人の記憶を、魔力で映しているだけ」
僕の胸が、苦しくなる。
僕は、そこが前世の都市だと分かった。
「私は、現場へ行かなかった」
局長が語る。
「作戦統括官として、上から状況を見ていた。建物の中へ入ったのは、君たちORBITの部隊だ」
局長が口にしたORBITは、帝国の「オルビタ」とは違った。前世の綴りと意味を、そのまま呼んでいる。
光点の一つが、危険区域の奥へ移動する。
その光点を、局長は指で追った。
「ハウンド。危険物処理と特務輸送を担当していた。道を見つけ、人員を動かし、命令にない救助を何度も行った」
「それを、あなたは知っていた」
「知っていたから、封鎖命令を出した」
ガウェインの声が低くなる。
「人を救おうとする者を、閉じ込めたのか」
「建物が崩壊する前に、出力装置を停止する必要があった。君が残れば、部隊全体が巻き込まれる」
局長の記憶の中で、赤い線が一つ消えた。
その線の先に、僕がいた。
「作戦区域から離脱しろ。そう命じた」
「僕は、離脱しなかった」
「君は、命令を無視した」
局長の声に、初めて感情が混じった。
怒りではない。
長い年月をかけて固めた、確信のようなものだった。
「だから私は、君をハウンドと呼んだ。命令に従う特務の犬でありながら、最後には必ず自分の判断で戻る」
僕は、魔導鏡の風景を見つめた。
映像の内部に、建物の断面はない。
外壁。
上空の光点。
閉鎖された扉。
その内側で何が起きたのかは、局長の記憶から抜け落ちている。
「あなたは、建物の中を見ていない」
「見ていない」
「なのに、僕が死んだと決めた」
「反応が消えた。遺体が確認された。作戦上、死亡と判断する以外にない」
「遺体を確認したのは、あなたではない」
「部下が確認した」
「建物の中に、ほかの人間が残っていたかは?」
局長は答えなかった。
魔導鏡に映る断面図の下層が、黒く欠けている。
崩壊直前の記憶だけが、最初から存在しないように抜け落ちていた。
フィーナが、その欠けた部分を鑑定鏡で見た。
「これは記憶の損傷?」
「そうだ」
「都合よく、内部の記録だけがないのね」
局長の視線が、フィーナへ向いた。
「都合ではない。私が見ていなかったからだ」
その答えは、意外に正直だった。
彼は万能ではない。
現場の内部を知らず、光点と報告だけで判断している。
それでも、その判断を正しいと信じている。
「私と君の記憶だけでは、何も証明できない」
フィーナが言った。
「現世の物証と照合できるまで、私はあなたの話を事実として扱わない」
「構わない」
局長は言った。
「記憶は、事実を残すには弱い。だから私は、記録と計算を使う」
「計算で、消えた人の名前を戻せますか」
イリスが初めて口を挟んだ。
局長は彼女を見た。
「必要な名前だけを残す」
「七人は、必要ではない?」
「七人を残せば、研究都市の封鎖が破れる」
「それは、名前の価値ではなく、あなたの都合です」
イリスの指が、名簿の端へ食い込んだ。
局長は怒らなかった。
「君の家族を救うには、都合が必要だ」
イリスの顔から血の気が引く。
「彼らが生きている証拠を、私が持っている」
「だから、命令に従え」
僕は、前世の青い画面を見た。
別の隊員の家族情報。
安全を保証するという言葉。
任務を拒めば、家族が作戦区域へ送られる。
局長の記憶の中でも、同じ仕組みがあった。
人間を動かすのは、命令ではない。
帰る場所を奪うことだ。
「あなたは、僕と同じ世界の人間だ」
僕は言った。
局長の魔導杖が止まる。
「君とレヴィに続く、三人目の転生者だ」
その言葉が、保守室へ落ちた。
ルカが息を呑む。
「転生者……?」
「前の世界で死に、別の世界で生まれた人間」
局長は、淡々と説明した。
「私は、前の世界の記憶を完全には持っていない。都市の形、作戦の失敗、君のコードネームだけが残った。だが、それで十分だった」
「何が十分なんですか」
「君が、また戻ってきたことを理解するには」
局長の魔導鏡に、前世の崩壊した建物が浮かぶ。
建物の周囲に、二つの光点がある。
僕。
レヴィ。
その二つに加えて、建物の内部に残った、見えない光点がもう一つ。
局長は、その光点へ触れようとした。
指が止まる。
名前を呼ぼうとしたように見えた。
けれど、声にならない。
「あの技術員は……」
局長は言いかけて、視線をそらした。
「君を救った人間は、記録に残っていない」
マヤという名前を、彼は言えなかった。
知らないのか。
それとも、知っているのに失っているのか。
僕には、まだ分からない。
局長は魔導鏡を閉じた。
「私は、君が民間人を置いて離脱したと判断している」
「それは、あなたの記憶ですか」
「そうだ」
「では、建物の中に何人いたかを、あなたは見ていない」
「見ていない」
局長は、まっすぐ僕を見た。
「だからこそ、計算で補った。君が戻ったことで、全体の損失が増えた」
僕は、目の前の男を見た。
前世の敵。
現世の第零技術局長。
そして、僕と同じように、過去の断片を抱えた人間。
同じ記憶を持っていても、同じ答えへはたどり着かない。
局長の背後で、三都市の照準板が再び赤く光った。
「君が戻ったせいで、救うべき人数を選ばなければならなくなった」
局長は言った。
「今度は、私が選ぶ」
局長の言葉が終わる前に、昇降路の奥で金属が弾けた。
帝国軍か、秤部か。
ガウェインが盾を向ける。
だが、現れたのは黒い腕章の運び手ではなかった。
白い魔力線を踏み越え、長い外套の男が一人、階段を上がってくる。
左肩に古い傷があり、手には折れた魔導長剣を持っていた。
「ユーリ」
その声を聞いた瞬間、僕の胸が詰まった。
「レヴィ……?」
レヴィは、僕の隣にいる局長を見た。
局長の魔導鏡が、一瞬だけ揺れる。
「お前も、残っていたか」
「残っているんじゃない。来たんだ」
レヴィは折れた剣を下ろさなかった。
「お前が、兄貴をまた死んだことにする前に」
局長が魔導鏡を操作する。
青い画面へ、前世の崩壊建物が浮かんだ。
荒れた外壁。
上空から見下ろした光点。
閉鎖された出入口。
建物の内部は、黒い空白になっている。
「私は、事実を話している」
局長が言った。
「ハウンドは、撤退命令を受けた。それにもかかわらず、作戦区域へ戻った。建物内部の民間人を救助するためではなく、危険物の回収を優先した可能性が高い」
「可能性?」
レヴィが低く笑った。
「それを事実として話しているのか」
「作戦結果と残った記録から、最も合理的な結論を出している」
「記録に、建物の中が残っていないのに?」
レヴィは魔導鏡へ近づいた。
「お前の画面に映っているのは、外側の光点だけだ。中の人間を一人も見ていない」
「反応が消えた」
「崩壊した建物で、魔力反応が消えるのは当たり前だ」
レヴィは、画面の下層を指した。
「だが、崩壊時刻と出力装置の停止時刻が一致していない」
局長の指が止まった。
レヴィは、腰に下げた小さな記録板を取り出した。
現世の出来事を記録した板ではない。
それはレヴィの記憶を整理するために、現世の技術者が描いた建物の見取り図だった。
フィーナが鑑定鏡を向ける。
「これは、現世の通信記録ではないわね」
「当然だ」
レヴィが答えた。
「俺が覚えている構造を、紙へ描いただけだ」
紙の上には、四つの区画がある。
上層の指揮室。
中層の研究室。
下層の出力装置。
地下避難区画。
「崩壊は、下層から始まった」
レヴィが言う。
「上から見ていたお前には、下層の隔壁が閉じた瞬間は見えない。だが、俺は外周で民間人を誘導していた。出力装置が止まる前に、地下避難区画の扉が一度だけ開いた」
「開いたなら、君たちは脱出できたはずだ」
「俺たちは、外へ出るために移動していた」
「君たち?」
「住民と技術班員だ」
レヴィの声が強くなる。
「その時、通信が入った」
彼は目を閉じた。
古い光景が、レヴィ自身の声として語られる。
「民間人を頼む。お前ならやれる」
レヴィは、僕を見た。
「兄貴は、そう言った」
僕の喉が詰まった。
その言葉を、僕は覚えていない。
でも、レヴィが嘘をつく時の目ではなかった。
「それから、通信が切れた」
レヴィは続ける。
「俺は外周へ回った。民間人を逃がすためだ。兄貴が建物の中へ戻ったことを、俺は知らなかった。だから、見捨てられたと思った」
局長の魔導鏡に、三つの光点が浮かんだ。
外周にいるレヴィ。
避難区画へ向かう人々。
建物内部へ戻る僕。
だが、光点は三つしかない。
局長が記憶している崩壊直前の現場には、僕とレヴィと、もう一つの光点だけが表示されていた。
技術班員や住民の光点は、最初から欠けている。
レヴィがそれを見た。
「お前の記憶に、民間人がいない」
「作戦管理画面に表示されるのは、登録された隊員だけだった」
「だから、民間人を置いて逃げたと思ったのか」
「違う」
局長が否定した。
「表示されなかった人間は、作戦区域の外にいた。そう判断した」
「判断しただけだ」
レヴィが言い返す。
「確認していない」
局長は、魔導鏡の前から動かなかった。
「作戦区域の外にいる人間を、作戦区域内へ戻すことは許可されていない」
「兄貴は戻った」
「だから、損失が増えた」
「違う」
レヴィの折れた魔導長剣が、床を叩いた。
「兄貴は戻ったから、民間人が逃げる時間ができた」
局長の目が細くなる。
「結果は確認できていない」
「お前が、建物の中を見なかったからだ」
部屋の空気が張りつめた。
イリスが、七人の名簿を抱えたまま動かない。
ルカは、魔導鏡に映る光点を見ていた。
現在の研究都市でも、同じ計算が行われている。
登録された人間だけを追い、登録されない人間を最初から数えない。
その仕組みを、局長は前世から現世へ持ち込んでいる。
フィーナが静かに言った。
「両方とも、個人の記憶です」
レヴィが彼女を見る。
「俺の記憶も、証拠にならないのか」
「証言としては重要です。でも、建物の構造や時刻記録と照合する必要がある」
フィーナは、局長へも視線を向けた。
「あなたの記憶も同じです。記憶が強いから真実なのではない。現在の物証と一致するかで扱いが変わる」
「合理的だ」
局長が答えた。
「だが、時間がない」
魔導鏡の三都市が赤く点滅した。
「証拠を集めている間に、誰かが死ぬ」
「だから、間違った記憶で切り捨てる?」
僕は、局長を見た。
「あなたは、僕が民間人を置いて逃げたと言った」
「そう判断している」
「でも、建物の中は見ていない。民間人が登録されていなかったことも、確認していない」
「それでも、君が戻ったことで危険が増えた」
「戻った理由を、あなたは知らない」
局長の魔導鏡に、欠けた地下区画が映った。
そこに、白い光が一瞬だけ灯る。
背中の留め具。
白い粉塵。
伸びてくる救助線。
手を離すなという声。
僕の口が、無意識に動いた。
「マヤ……」
局長の魔導鏡が、黒く消えた。
男の顔から、初めて明確な動揺が走る。
だが、彼はその名前を繰り返さなかった。
ただ、魔導杖を強く握りしめる。
「その名を、どこで聞いた」
僕は答えなかった。
局長は、マヤの名前に反応した。
けれど、彼が彼女をどこまで知っているのかは分からない。
レヴィが、僕の隣へ立った。
「兄貴は、民間人を置いて逃げていない」
彼は局長へ言った。
「お前の記憶が、建物の内側を見ていないだけだ」
魔導鏡の三都市が、一斉に赤くなった。
局長は、冷静な顔を取り戻していく。
「なら、今世で確認すればいい」
彼が魔導杖を掲げた。
「君たちが、どれだけ人間を救えるかを」
研究都市の全魔力管が、同時に動き始めた。




