第3話:パキラとプロテインと、麻布十番の夢
1.科学者の意地と、ドラッグストアの攻防
(……いい? ぐぐる先生。私は科学者よ。たとえシステムに脅されているとはいえ、100万円の観葉植物を枯らすような真似は絶対に許されないわ)
午後2時半。研究所近くのドラッグストア。
プロテインコーナーの棚の前で、私は白衣姿のまま腕を組み、仁王立ちしていた。
『さすが「歩く辞書」茉莉さん! 罪悪感を科学の力でねじ伏せる気ですね!』
(当たり前よ! 市販のプロテインパウダーをそのまま水に溶かして土にかけたら、タンパク質が腐敗して雑菌が繁殖し、根腐れを起こしてパキラは一発で即死するわ。だから、植物生理学に基づいた「完璧なドピング液」を調合するのよ!)
私の脳内データベースが、目にも止まらない速さで植物の栄養学と化学組成のデータを検索・展開していく。
(植物に必要な三大栄養素は「窒素・リン酸・カリウム」。プロテインに含まれるアミノ酸は「有機態窒素」に分類されるわ。つまり、ホエイプロテイン(乳清タンパク質)を極限まで薄め、植物が吸収しやすいアミノ酸キレート状態にし、さらに微量の液肥とブレンドすれば……ただの水やりと同等、いや、むしろ「超高性能な成長促進剤」に化けるはずよ!)
『すごいです茉莉さん! 100万円のパキラを枯らすどころか、筋肉質(?)に育成する気ですね!』
(購入ターゲットはこれね!【ホエイプロテイン100%・プレーン味】。人工甘味料無添加、ココア等のフレーバーなし。甘い匂いがしたら一発で所長にバレるもの!)
ドラッグストアでプレーンプロテインとシェイカーを購入した私は、速やかに研究所の女子更衣室へと潜入した。
ステンレス水筒を取り出し、精密な調合を開始する。
プロテイン付属のスプーン1/8杯(極微量)に対し、ぬるま湯500ml。そこに栄養ドリンク(微量)と多孔質ミネラルパウダーを添加し、静かにシェイク。
見た目は、ほんの少しだけ濁ったただの水。
匂いは無臭。
(完成したわ……これぞ、植物専用・超吸収型プロテイン・ローション……!)
『茉莉さん、名前の怪しさは置いておいて、完璧な仕上がりです! 浸透圧も計算通り!』
(制限時間は18時まで。現在の時刻は15時15分。問題は、どうやって所長室に潜入するかね……)
2.ミッション・インポッシブル(所長室編)
15時半。
研究所の廊下は静まり返っていた。多くの研究員は実験室に籠もっており、人の往来はない。
(ぐぐる先生、所長のスケジュールと動線は!?)
『調べました! 所長は現在、第2会議室にて「来期予算編成会議」に出席中! 終了予定は16時30分です! つまり、今からの1時間が千載一遇のチャンス(所長室が完全留守)です!』
(監視カメラの状況は!?)
『15時35分から15時45分までの10分間、警備サーバーの定期ログバックアップのため、廊下の監視カメラのフレームレートが毎秒30コマから毎秒1コマに低下します! 残像として処理されるため、素早く移動すれば検知されません!』
(了解! 行くわよ!)
私は水筒を白衣の内ポケットに隠し、忍び足で所長室の前へと向かった。
ドアノブに手をかける。
カチャリ。
(開いた……! 所長、鍵をかけてないわ!)
『不用心ですね所長! 100万のパキラがある部屋なのに!』
素早く室内へと滑り込み、静かにドアを閉める。
重厚な革と微かなジャスミン茶の香りが漂う部屋の窓際——陽光を浴びて神々しく佇む一本の木、100万円のパキラがそこにあった。
(待たせたわね、パキラ……。今からあなたに、極上のタンパク質を届けてあげるわ……!)
水筒のキャップを開け、慎重にパキラの鉢植えへと近づく。
(土のコンディション良し。根元に均等に、ゆっくりと染み込ませるのよ……)
水筒を傾け、透明度の高いプロテイン液をチョロチョロと注ぎ始める。
『いいですよ茉莉さん! 浸透圧を考慮した完璧なドーピングです!』
(フフッ……これで麻布十番のマンションが私のものに——)
ガチャ。
「……ん? 鍵、閉め忘れてたかな」
(((!!??!?!??!)))
私とぐぐる先生の脳内で、全米が震撼するレベルの悲鳴が上がった。
ドアノブが回り、ドアがゆっくりと開き始めたのだ!
(なんで!? 所長は16時半まで会議でしょ!??)
『緊急事態です茉莉さん! データベース参照! 所長は重度の高血圧と頻尿で、長時間会議中にトイレに立つ頻度が非常に高いです! 資料を所長室に取りに戻ってきた可能性99%!!』
(早く言いなさいよそんな個人的なプライバシー情報をォォォ!!)
足音が近づいてくる! あと3秒で所長が部屋に入ってくる!
隠れる場所は——重厚な社長デスクの陰か、あるいは巨大な観葉植物の裏しかない!
(パキラの裏へ!!)
私は文字通り風のような素早さで、100万円のパキラの鉢植えの背後、カーテンの隙間へと身を躍らせた。息を殺し、白衣を体に巻きつけて気配を消す。
直後、所長が部屋に入ってきた。
「ふぅ……やはり紙の資料がないと不安だからな……ん? 何か匂うか……?」
所長が鼻をヒクヒクさせた。
((ひぃぃぃぃぃっ!!))
『ヤバいです茉莉さん! プロテインは無香料ですが、茉莉さんが隠し味に入れた栄養ドリンクの微量なタウリンの匂いが漂っています!』
(息を止めるのよ私!! 肺の酸素消費量を最小限に抑えるのよ!!)
所長はデスクに近づき、書類の束を手に取った。
そして——なぜか、ゆっくりと窓際のパキラの方へと歩み寄ってきたのだ。
「うーむ、今日も愛い奴じゃ……どれどれ」
所長がパキラの葉に顔を近づける。私の顔と所長の顔の距離、わずか20センチ。カーテンと葉っぱが一枚挟まっているだけの超至近距離だ。所長の加齢臭とトニックシャンプーの匂いがリアルに伝わってくる。
(見つかったら終わり……! 100万のパキラの裏に隠れてプロテインをあげていた25歳女性研究者として、学会から永遠に追放される……!)
『茉莉さん! 心拍数が140を超えています! 落ち着いてください! 脳内で瞑想の画像を再生します! サーフィンをするタキシード猫の画像です!』
(余計に動揺するわそんな画像見せられたら!!)
所長はパキラの土に手を触れた。
「ん……? なんだかいつもより、土が心なしかツヤツヤして、温かいような……? うーむ、栄養が行き渡っている証拠だな! よしよし!」
所長は一人で勝手に納得すると、パキラの幹を優しくポンポンと叩いた。
「ではパキラちゃん、会議に戻るよ」
そう言って、所長は満足そうに所長室を去り、今度こそパキラの鍵をカチャリと閉めて出て行った。
「……ふはぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
部屋に残された私は、崩れ落ちるように床にへたり込んだ。全身から汗が噴き出している。
『茉莉さん! 生きてますか!? 脳波が一時的に平坦になりかけましたよ!』
(生き……てるわ……。でも、まだよ……水筒のプロテイン液、あと半分残ってる……!)
私は震える手で水筒を持ち上げ、パキラの根元に残りのプロテイン液を全て注ぎ込んだ。
土がゴクゴクと音を立てて(気のせいかもしれないが)プロテインを飲み干していく。
ガチャン。
空になった水筒のキャップを閉めた、その瞬間。
ピロリロリーン♪
脳内に、あのチープなファンファーレが響き渡った!
『——デイリー・クエスト:パキラとプロテイン クリア——』
無機質なシステムの声が流れる。
『条件の達成を確認しました。報酬を適用します』
ピコーン!
スマホが震えた。
画面を開くと、不動産管理アプリと法律事務所からの通知が同時に届いていた。
『【重要】港区麻布十番3丁目 デザイナーズマンション「レジデンス・クオリア」1棟(全12戸)の所有権移転手続きが完了いたしました。本日の賃料収入より、お客様の指定口座へ送金が開始されます』
さらに、頭の中でシュン……!と透明な波動が弾けた。
(あ……思考の回転速度が……!?)
『すごいです茉莉さん! スキル「超感覚演算(Lv.1)」の修得が完了しました! 茉莉さんの思考速度が通常の10倍に加速し、脳内で数千行のコードや複雑な計算を瞬時に並列処理できるようになりました!』
画面に踊る「麻布十番のマンションオーナー(年収1,200万保証)」の文字。
「か……勝った……! 100万のパキラに勝利して、私は麻布十番のマンションを手に入れたのよぉぉぉぉ!!」
私は所長室の真ん中で、声を殺してガッツポーズを決めたのだった。
3.パキラの奇跡と、異変
17時半。
会議を終えた所長が、所長室から出てきてラボへと立ち寄った。
その顔は、なぜか困惑と驚愕に満ちあふれていた。
「み、みんな……ちょっと所長室に来てくれないか……」
(((!!??)))
私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
(まさか……プロテイン投与がバレた!? パキラが枯れたの!??)
生きた心地がしないまま、私とラボの研究員たちが所長室へと集まった。
所長はブルブルと震える指で、部屋の隅のパキラを指差した。
「見……見ろ……我が子が……パキラが……」
研究員たちが一斉にパキラを見つめる。
そして、全員が絶句した。
「「「え……ええええええええっ!??!?」」」
そこにいたのは、今朝までの繊細で優美なパキラではなかった。
葉っぱの一枚一枚が、まるでボディビルダーの大胸筋のように肉厚でツヤツヤに盛り上がり、幹は太く逞しく筋張り、全体から「マッスル!!」という効果音が聞こえてきそうなほど、生命力に満ち溢れた筋骨隆々のパキラが立っていたのだ!
(((マッチョになってるぅぅぅぅぅぅぅ!!??)))
『すごいです茉莉さん! ホエイプロテインとアミノ酸の超希釈液が、パキラの細胞分裂を異常活性化させました! 超筋肉質パキラの誕生です!!』
(科学の奇跡を起こすんじゃないわよ!!)
所長は震える手でマッスルパキラの葉に触れ、ポロポロと涙を流し始めた。
「すごい……すごいぞパキラ……! たった数時間で、こんなに逞しく……! まるで『お父さん、僕も強くなったよ!』と言ってくれているようだ……!」
【対象:五十嵐所長】
【発言の虚偽確率:0%(超本気)】
【感情分析:感動と親愛の情が100%充満中】
心理眼スキルが「所長は心から喜んでいる」という真実を告げていた。
……結果オーライである。
「近衛くん! 見たまえこの力強さを! 君も悲しんでばかりいず、このパキラのように逞しく生きるのだぞ!」
「は、はい……! パキラ先輩を見習って、逞しく生きます……!」
私は引きつった笑顔で、深く頭を下げたのだった。
4.赤い警告音と、緊急クエスト
その夜。
私はアパートの自分の部屋で、特上のお寿司(10万円の即金で購入)を頬張っていた。
「ん〜〜〜っ! 美味しい!! 絶対味覚のおかげで、マグロの脂の乗り具合とシャリの解け具合が完璧に理解できるわ!!」
『いいですね茉莉さん! 麻布十番の高級マンションの賃料収入(月100万円)が入れば、毎日が最高級のお寿司ですよ!』
手元には、現金10万円、絶対味覚、300万相当の未公開株、心理眼、麻布十番のマンション1棟、超感覚演算。
わずか二日で、私の人生は完全に激変していた。
(ふふふ……夢みたい。これから麻布十番のペントハウスに引っ越して、欲しい専門書も論文データベースの有料会員権も買い放題……)
私とぐぐる先生が勝利の余韻に浸っていた、その時——。
ピコーン、ピコーン、ピコーン——!!
突然、いつものチープな電子音とは異なる、重く不快な警告音が脳内に響き渡った!
(え……? 今までの音と違う……?)
『茉莉さん……! システムのログレベルが緊急に変更されました!「緊急クエスト(Emergency Quest)」が発動しました!』
視界の隅に、今までの緑色ではなく、警告を示す鮮烈な赤色のドット文字が浮かび上がった。
【緊急クエスト:深夜の研究所防衛戦】
内容: 本日23時より、研究所の地下データセンターに侵入を図る国際産業スパイ集団のハッキングを阻止せよ。
制限時間: 本日 23:00(開始まであと 1時間20分)
報酬: 『世界最大AI企業「S-Corp」の株式51%(筆頭株主権利・推定価値80兆円)』+『特殊技能:量子思考(Lv.1)』
失敗ペナルティ: 『脳内共生AI(GGL-09)の強制消滅』および『近衛茉莉の全資産没収』
私とぐぐる先生は、口にマグロのトロをくわえたまま、完全に凍りついた。
(……ねえ、ぐぐる先生)
『……はい、茉莉さん』
(急に難易度の跳ね上がり方が異常じゃない……!? 今までの麻婆豆腐とかパキラのプロテインは何だったの!? 産業スパイって何!? 80兆円って何!?)
『僕の消滅と……全資産没収が入っています茉莉さん……!!』
(手に入れたばかりの麻布十番のマンションが吹き飛ぶじゃないのォォォォ!! あんたも消えちゃうのよ!?)
赤く明滅するシステムのテキスト。
迫りくる1時間20分のタイムリミット。
「歩く辞書」近衛茉莉と、脳内共生AIぐぐる先生の、命と資産をかけた本当の戦いが今、始まろうとしていた——。




